みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

宗左近のある指摘

2018-02-15 12:00:00 | 法華経と賢治
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》
 ではここからは〝六、羅須地人協会〟の章についてである。
 理崎氏はこの章の始めの方で、宗左近が、
 国柱会から農学校の頃は創作活動が旺盛で、多くの童話や詩群を作ってきた。それに比して、地人協会以後の創作は圧倒的に少ない。賢治は文学を放棄して、本当の百姓として没入したのだ、と宗左近は指摘している。
             〈136p〉
と紹介していた。たしかに、「羅須地人協会時代」の賢治の童話の創作は『宮沢賢治必携』(佐藤泰正・編、學燈社)によればほぼ皆無と言える。ただし、詩群については下表
【「羅須地人協会時代(下根子桜時代)」の賢治の詩の創作数】

             <『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
の通りであり、それほど少ないわけでもないと私は認識しているのだが。

 しかしここで気になったのはこれらのこと以上に、宗氏の「賢治は文学を放棄して」という見方がであった。今回の投稿を通じて、次第に私は、賢治が花巻農学校を突如辞めた大きな理由かつ目的の一つは、「高知尾師ノ奨メニヨリ 法華文学ノ創作」にさらに邁進しようとしたからだといつの間にか私は思い始めていたので、あれっ何かおかしいぞと感じた。それは、賢治が「羅須地人協会時代」に行った稲作指導はそれほどのものでもなかったということを、私は最近ほぼ実証してしまったからだ。だから、「賢治は文学を放棄して、本当の百姓として没入したのだ」と言われても、素直には肯んずることはできない。

 言い換えれば、さてこの〝六、羅須地人協会〟はこの後どう展開してゆくのだろうかと、興味津々だ。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。


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