みちのくの山野草

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羅須地人協会と法華経精神

2018-02-16 10:00:00 | 法華経と賢治
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》

 さて、前回私は
 賢治が花巻農学校を突如辞めた大きな理由かつ目的の一つは、「高知尾師ノ奨メニヨリ 法華文学ノ創作」にさらに邁進しようとしたからだといつの間にか私は思い始めていた
と述べたが、先ほどの宗左近の紹介に続いて、理崎氏は
 学校を辞めた賢治は「羅須地人協会」を設立する。…(投稿者略)…智学は、釈迦教団の僧伽、同信者の純粋な信仰生活から発想したのであろう。しかし、それは小乗的である。大乗仏教は社会に開くもので、日蓮の思想はさらに徹底して、社会での仕事がそのまま法華経の修業と説いている。地人協会はあくまで農民のために開かれたもので、賢治の方が日蓮に近い。
            〈136p〉
と論じていたので、前述の私の思い込みも当たらずとも遠からずかなと勝手に自分で納得した。
 それは、「日蓮の思想はさらに徹底して、社会での仕事がそのまま法華経の修業」と説くことは尤もなことだと思ったからである。そしてそれは、これまた理崎氏の『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』(哲山堂)において、
 どんな悲惨な状況でも易々と乗り越えていける偉大な生命を人間は持っている。それを表したのが法華経であて、現世で闘っていくのが法華経精神だ、諦めてはいけないのだ、と日蓮は考えたのである。
             〈『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』(哲山堂)37p〉
ということを私は学んでいたせいでもある。 

 ただし、「地人協会はあくまで農民のために開かれたもの」となると、はたしてそう言い切れるのだろうかと私は少し悩んでしまう。それは、「あくまで」の一言がひっかかるからである。言い換えれば、それが「農民のために開かれたもの」であることは否定しないが、何よりもまず、賢治自身のためであったのではなかろうかとこの頃の私は考えるようになってきたからだ。しかも、賢治自身は「本統の百姓」になりたかったようだが、ここ10年間ほどの検証作業を通じて、それはいわゆる「農民」でもまして「百姓」でもなかったとしか私には思えないからだ(客観的には、賢治が農民であったことは実は一度もなかったのではなかろうか)。

 それというのも、ある論考を知るまでは、
 「羅須地人協会時代」の賢治が農繁期の稲作指導のために東奔西走したということの客観的な裏付け等があまり見つからない。
のは何故なのだろうか、どうも不思議だと私は思っていたのだが、先頃佐々木多喜雄氏の一連の論考に接して多くのことを学んだことによって、
    〈仮説〉賢治が「羅須地人協会時代」に行った稲作指導はそれほどのものでもなかった。
が定立できることに私は気付き、それが検証できた(具体的には、近々出版予定の拙著『本統の賢治と本当の露』において論ずる)。
 したがって、「農民のために開かれたもの」であることは否定しないが、実はかなりの部分、まずは賢治自身のためでもあったのではなかろうかということを私は確信しつつある。つまり、羅須地人協会は、「あくまで農民のために」開かれたものであったというよりは、なによりもまず、賢治自身の法華経の修業のためのものだったのではなかろうかと。そしてそう捉えれば私の場合には、それまでは釈然としなかった「羅須地人協会時代」の賢治の営為のいくつかががかなりすんなりと納得できる。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。


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