みちのくの山野草

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父母の反対を押し切って分骨した賢治

2018-02-15 10:00:00 | 法華経と賢治
《『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》

 さて今度は〝五、農学校、妹の死〟の章についてである。
 基本的には、この投稿『塔建つるもの-宮沢賢治の信仰」シリーズの私のスタンスは先にも述べたとおり、理崎氏が
 難解な賢治の宗教を、伝記と共に分かりやすく解説する。
ということなので、宗教に直接関連する部分に注目して学ぶというのがすタンスである。そのため、この章においては私が投稿したいことは多くなく、妹トシの葬儀に関する次のことだけを紹介したい。
 菩提寺・安浄寺での葬儀に賢治は参列しなかった。念仏を唱える葬儀に耐えられなかったのだろう。葬列が出発すると姿を現し、柩に手を掛けながら歩いた。火葬場は火事で焼失していたので、野辺に薪が組まれ、遺体は荼毘に付され、火は一晩中燃え続けた。賢治は燃えつきるまで経を誦していた。…(投稿略)…
 大正11年、賢治は父母の反対を押し切って分骨し、静岡県美保の国柱会・最勝閣に納骨した。…(投稿者略)…この時点で賢治には、法華経、日蓮に対する絶対の信仰があったことが分かる。
             〈120p〉
 理崎氏はこのように賢治のことを論じていた。今までこのようなことに私はあまり注意を払ってこなかったのだが、そうか、賢治はかなり拘っていたのかと思うと共に、賢治の不羈奔放さ、あるいは頑固さを改めて知った。「賢治は父母の反対を押し切って分骨し、静岡県美保の国柱会・最勝閣に納骨した」ということだからだ。もちろんそれは理崎氏の見立て通り、「この時点で賢治には、法華経、日蓮に対する絶対の信仰があった」からなのだろうが、今まで持っていた私の賢治のイメージとはかなり違和感を感じてしまった。そこまでもしてあの賢治が分骨をしたのかと。

 なお『伯父は賢治』(宮沢淳郎著、八重岳書房、100p)等によれば、トシは
 大正8年3月     日本女子大学校家政科卒業
              自宅療養
 大正9年9月     花巻高等女学校教諭心得
 大正10年6月頃   病臥
 大正10年9月    喀血    
 大正10年9月12日  花巻高等女学校教諭辞職
              自宅療養
 大正11年7月6日頃 下根子桜の別宅へ移す。
 大正11年11月19日 自宅に戻って療養 
 大正11年11月27日 永眠(24歳)
ということであった。トシはかなりの期間花巻高等女学校で先生をやっていたとばかり思っていたのだが、たった10ヶ月ほどだったのだということを初めて知った。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
や、現在投稿中の
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
がその際の資料となり得ると思います。

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