《賢治愛用のセロ》〈『生誕百年記念「宮沢賢治の世界」展図録』(朝日新聞社、)106p〉
現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
が定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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〈承前〉
賢治のオルガン演奏技能現「宮澤賢治年譜」では、大正15年
「一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」
が定説だが、残念ながらそんなことは誰一人として証言していない。
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〈承前〉
さて、昭和48年に井上敏夫氏が藤原嘉藤治と行った「思い出対談 音楽観・人生観をめぐって」の中で次のようなことが語られている。
◎ 宮沢君の音楽は視覚型
井上 音楽的には、宮沢賢治はチェロのほかに何かやってましたか。
藤原 オルガンをやっていました。しかし、それもまったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりまだ初歩の段階という感じでした。だが、音楽を感じることに関してはとっても優れていました。
井上 音楽的には、宮沢賢治はチェロのほかに何かやってましたか。
藤原 オルガンをやっていました。しかし、それもまったく初歩の段階で、音楽の技術は幼稚園よりまだ初歩の段階という感じでした。だが、音楽を感じることに関してはとっても優れていました。
<『宮沢賢治 第5号』(洋々社)24pより>
この証言を最初に知った時私は驚きを禁じ得なかった。先に触れたように、賢治のチェロの腕前については最愛の教え子の一人が、実のところをいうと、ドレミファもあぶなかったというのが…
と証言し、同級生の阿部孝が、
実はチェロの弦を弓でこすって、ぎいん、ぎいん、とおぼつかない音を出すのが精いっぱいで
と証言(詳細は後述)しているから、賢治のチェロの演奏技能はほとんど上達しないままであったであろうということは歴史的事実として受け止めねばならぬと覚悟していたのだが、賢治のオルガンの演奏技能までもが
幼稚園よりまだ初歩の段階という感じでした
という友人藤原嘉藤治の証言を知ったからである。チェロの腕前についてはさておき、少なくともオルガンについては相当の演奏技能を賢治は持っていたとばかり思っていた私だけに、この藤原嘉藤治の証言はかなりのショックだった。
しかし冷静になって振り返ってみれば、如何に私は巷間伝わっている賢治のイメージをそのまま鵜呑みにして来たのかということを思い知らされることでもあった。そして、私は今までそのことに疑問を持たなかったことに対して多少無念さも残るが、そんなことにこだわっているよもっとプラス思考をしよう。他ならぬ音楽教師で友人の藤原嘉藤治等の証言であるだけに今後は、
賢治のオルガンの演奏技能はまったく初歩の段階であった。
というのが歴史的事実であったと受け止めざるを得ないようだから、そう捉えれば今まで見えなかったことがきっと見えてくるはずだと。
そうすれば、例えば大正15年年12月12日付政次郎宛書簡「221」の中には
いままで申しあげませんでしたが私は詩作の必要上桜で一人でオルガンを毎目少しづつ練習して居りました。今度こっちへ来て先生を見附けて悪い処を直して貰ふつもりだったのです。新交響楽協会へ私はそれらのことを習ひに行きました。先生はわたくしに弾けと云ひわたくしは恐る恐る弾きました。十六頁たうたう弾きました。先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました。もうこれで詩作は、著作は、全部わたくしの手のものです。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)237pより>
とあるが、この解釈も自ずから今までのものとは違ってくる。 以前の私ならこの書簡を読んで素直に、おお流石賢治、オルガンの腕前は凄かったんだ。プロの先生もひどく誉めてくれるようなオルガン演奏技能を持っていたんだ。
と称賛しているところだが、今後はこれを真に受けては真実から遠ざかってしまうのだということが分かった。賢治のチェロもまたオルガンでさえも全くの初歩であったと認めれば、新たな真実の世界が広がっていくような気がしてきた。
例えば、賢治にはちょっと気の毒な気もするが、「先生は全部それでいゝといってひどくほめてくれました」は賢治のついた嘘であり、方便であったということがこれで明らかになったということである。
楽器演奏技能の結論
前述したように友人藤原嘉藤治、愛弟子澤里武治が後々語っていた証言、そして賢治の音楽に関して詳しい佐藤泰平氏の評価等から導かれる賢治の楽器演奏技能は、
◇最後まで、チェロは「ドレミファもあぶなかった」。
のであり、
◇最後まで、オルガンは「まったく初歩の段階」であった。
というのが妥当な結論であり、これが賢治の楽器演奏技能の真実であったとならざるを得ない。
すると、賢治のチェロの腕前は最後まで全く上がらなかった訳だから、それ以前の時期であればその程度かそれ以下の腕前でしかありえず、仮説
賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。……………♣
は真実味をまた少し増した。続きへ。
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賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
〈平成30年6月28日付『岩手日報』一面〉
を先頃出版いたしましたのでご案内申し上げます。
その約一ヶ月後に、著者の実名「鈴木守」が使われている、個人攻撃ともとれそうな内容の「賢治学会代表理事名の文書」が全学会員に送付されました。
そこで、本当の賢治が明らかにされてしまったので賢治学会は困ってしまい、慌ててこのようなことをしたのではないか、と今話題になっている本です。
現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,620円(本体価格1,500円+税120円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
電話 0198-24-9813
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