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みちのくの山野草
みちのく花巻の野面から発信。
鈴木守著 新刊等ご案内
2013-11-01 14:00:00
|
賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
(Ⅰ)新刊『羅須地人協会の終焉-その真実-』
【内容見本】
***********************
(Ⅱ)既刊『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京』
(Ⅲ)既刊『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて』
―以上
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#私が作家・芸術家・芸人
コメント (16)
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16 コメント
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前回のツヅキです
(
辛文則
)
2013-11-01 18:04:23
小生、どうやら、投稿の段取りが呑み込めていないようです。何字ぐらいまで可能なのでしょうか。とりあえず、前回のツヅキ書きます。例の件に関わるモッテマワッタイイマワシかは不要ですね。
で、小生の妄想では、『宗教風の恋』『風景とオルゴール』『風の偏倚』『昴』の四作に付された「1923,9,16という〈日付のコトバ〉」に引っ掛かってシマッタのでした。関東大地震の十五日後の東京でない何が?、「剽悍な刺客に暗殺されてもいいのです」という宣言が冗句ではなく「賢治の真面目(しんめんもく)」だったりしたなら、……。大正デモクラットに通じるリベラル原敬への大正十年十一月へのテロルを賢治はどう受け止めて居たのか…?、と。田中智学との間の因縁とも絡んで悩ましいのですが、佐藤昌介や新渡戸稲造や内村鑑三そして斉藤宗次郎との思想的連関性を妄想すると。幸徳秋水抹殺と大杉栄抹殺と原敬テロルという現象を同一線上に心象化せずにはいられない、となると。
返信する
格調が高いのでお電話します
(
鈴木 守
)
2013-11-01 18:26:40
辛 文則 様
お晩でございます。
お世話になっております。
ところで、今回の辛さんからの「前回のツヅキ」ですが、格調が高過ぎて私には難しすぎますので、後程お電話をいたしますから、いろいろと教えてください。
返信する
ツヅキその2
(
辛文則
)
2013-11-01 19:52:02
で、昭和2年に戻ると。「何故に1927年時点での盛岡中学校生徒諸君に寄せる』の盛岡中学校校友会雑誌第38号への寄稿は断念されたのか?」という懐疑へ。同作を、前年の『盗まれた白菜の根へ』、同年の『サキノハカという黒い花と一緒に』、『春の雲に関するあいまいなる議論』、『県技師の雲に関するステートメント』、『藤根禁酒会に贈る』、『何をやっても間に合わない』などに端的に噴出している賢治の〈憤り〉や如何、と。
因みに、リベラリスト平井直衛のクビキリに先立って、昭和2年10月に岩手中校長の鈴木卓苗、農学校校長藤根吉春と共に、新渡戸稲造を盛岡での講演に招いた春日重泰には12月に佐賀県への追放人事が。校友会雑誌第38号の発行はその半月後。森佐一が盛中生だった頃から反春日派に扇動された対春日ストライキが続き、森は生徒ストに参加しない極少数派でしたが、その辺の顛末については口を閉ざして逝きました。因みに、その長男で精神科医の森荘介氏は『白堊校百年史』の編集委員で大正期通史を担当しました。平井のクビと、竣介の退学から8年後、原敬日記をまとめることになる原圭一郎と野村胡堂の経済的支援を受けて、竣介はリベラルエッセイ誌雑記帳を出し、昭和16年4月に『生きている画家』が書かれた、と。後は、電話でお話した有耶無耶があって…。アブナイ伝記話はフィクションにした方が無難ですしょうから、入沢先生が仰っているように、主体的、間主観的な〈道得・テクスト〉解釈問題に留まっているのが宜しかろうか、などとも。「非戦不拘勝負」なる立処を己が随処作主と為すが「他ノ皆ニ木偶之坊ト誹謗中傷サレル者ニ私ハナリタイ」という心意気なのか不識などとも。尤も、小欲か大欲かは定かではないですが、未だ〈知己足欲〉は残っているようなので。
返信する
先程は有り難うございました
(
鈴木 守
)
2013-11-01 21:38:35
辛 文則 様
先程はいろいろ教えていただき大変有り難うございました。
また、長電話になってしまって申し訳ございませんでした。
さて、その際の辛さんのお話は、まるで空翔る鳳の如く総てを俯瞰した上で迸り出てくるものでしたから、私はただただ圧倒されるばかりでした。
実は、私の大きな悩みの一つに、賢治が書いたものがどれくらい彼の営為に還元できるのだろうかということがあります。そのせいか、この頃の私は賢治の書いたものは措いておくきらいがあり、いわば芋虫のように地べたをはいずりまわりながら賢治のことを知ろうとしています。
しかし先程のお話を聴きながら、たまには鳥の眼になって、賢治の書いたものを地べたに投影させることもたまにはしなければならないのだ、と感じました。
近いうちに、松本の例の作品を見てみたいと思っておりますので盛岡に行くかもしれません。その際は、空の飛び方を是非教えてください。
それでは、夜寒の候、どうぞご自愛下さい。
返信する
賢治はそれをいつ知ったか
(
辛文則様へ(鈴木守)
)
2013-11-03 07:03:08
辛 文則 様
過日はいろいろなことを教えていただきまして有り難うございました。
さて、今朝布団の中でうつらうつらしていたとき、以前辛さんからのコメントの中にあった
“「1923,9,16という〈日付のコトバ〉」に引っ掛かってシマッタのでした。”
に関してある気になることをふと思い出しましたので、関係ないことかもしれませんがとりあえずコメントしております。
それは、1923,9,16時点で賢治は大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が虐殺されたことを知っていたかということです。
Ⅰ これに関しての新聞報道は
◇同9月21日の報道
・関東戒厳令司令官福田雅太郎本職罷免。
・甘粕正彦大尉、9月16日職務執行の際に違反行為があったので9月20日軍法会議に附された。
ということのようですし、
◇同9月24日の報道
・甘粕大尉は、大杉等3人を殺害した。
ということらしい。
Ⅱ 一方、立野信之著『黒い花』によれば、大杉等が9月16日の午後二時頃行方不明になったことは、村木源次郎や和田久太郎らの同志間では知れわたっていた。
となれば、アナーキスト大杉等が惨殺されたことを賢治はいつ知ったかとなると
(1) 後に新聞報道によって知った。
(2) 賢治は隠語としての「黒い花」の意味を知っていた可能性がかなり高いくらいだから、賢治はアナーキスト等との繋がりがかなりあり、早い時点でこのことをアナーキストの誰かから知らされていた。
ということが考えられと思いますが、この3人が行方不明になったのが同日午後2時であれば、賢治がこのことを知り得たのは少なくともこの日ではなく、この日以降であった可能性の方がかなり高いと私は直感したのですが、さてはたして真相はどうだったのでしょうか。
返信する
日付のコトバをどう読むか
(
辛文則
)
2013-11-03 15:22:38
先程はお電話ありがとうございました。
電話でお知らせ戴いたことにはついては、「むしろ矢張り」の感の方が。しかし、コメントの方には、〈想定外〉のことがかかf書かれていたのでした。立野信之の『黒い花』と『サキノハカという黒い花』との因縁関係性についてでした。
で、先ず、「賢治作品における〈日付のコトバ〉」の意味解釈についてです。つまり、「賢治作に付された〈年月日〉は如何なる日付を示しているのか?」という問いに対する考え方についての両つの観方に関わる問題。その1は、作品制作日あるいは推敲完了日。その2は、作品のモティーフあるいはテーマの着想日。それが事件なら事件が起こった日。小生はその2を択って来ましたが、守先生は何方だったのでしょうか。
その1を択ると、「賢治あるいは辻潤が事件を知ったのは何時か?」が要石になって、〈大正12年9月16日〉という日付は宙に浮いてしまう訳ですが、その2の観点を択ると、話は逆になり、「事件が起こった9月16日」こそが要石になりますよね。「宮澤トシが息を引き取った日の〈1922,11,27〉」が付されている『永訣の朝』『無声慟哭』『松の針』と翌〈1923,6,4〉が付されている『風林』と『白い鳥』をどう読むか、とも関わってきます。
で、作品完成日は作者の私事ですがテーマ着想日は作品メッセージに直結するのでは、と。〈『無声慟哭』の章〉と〈『オホーツク挽歌』の章〉と〈『風景とオルゴールの章』〉との間の因縁性起という問題とも。
で、これは、賢治の常軌を逸脱した推敲癖とも密接に絡みますね。御承知のように、賢治の推敲は、常道の意味での「作品完成に向けた推敲」というのではなく「永遠に未完成の完成なる創造不断としての推敲」という趣があります。つまり、年譜に作品日付を配置するのは便宜的措置にならざるを得ない、と。「永遠の未完成、これ完成である「」問題は、件のM台先生によるブルカニロ博士問題こも関連します。世に有名な〈猶太人の陰謀〉説を引っ張り出すまでもない事柄、と。
で、この考えを進めると、「賢治は何故にかくまで推敲・書き直しにこだわったのか?」というプロブレマティークに行き着きます。「賢治はその都度の霊感的感性の導きによって詩のコトバを紡いだのだ」といった見解がその立処を失うことに。〈賢治のコトバ世界〉を、「メッセージ解釈がナンセンスな音楽的抒情あるのみ」と捉えるのか、叙事的、思想的メッセージも含む、きわめてレトリカルな譬喩世界なのだ、と。それは、『ナムサッダルマフンダリーカスートラ』を文彩物語として読み込むか、「ナンミョーホーレンゲーキョー」という呪文を唱えるだけでよいのか、という問いにも関わります、よね。
返信する
ツヅキ その1
(
辛文則
)
2013-11-03 15:52:12
この問題設定に関わる思量は、以下延々と続いて仕舞うのでひと間づ一先ず切り上げて、最初の案件に戻ります。
小生には、『黒い花』なるアナーキズム関係の書への知は全く欠けていました。大杉栄、幸徳秋水、北一輝がかっての同志であり、幸徳秋水抹殺の時に、大杉も殺されずに済んだのは獄につながれていたから、とか、北が幸徳事件で逮捕された人々の中で雄いつ唯一釈放され、田中智学や甘粕正彦や石原莞爾らと関わりを持ちながら生き延び、遂に2・26でヤラレテシマッタ、というナリユキは知っていたのですが。
因みに、〈心象スケッチ『春と修羅』〉を、ニーチェの『ゾロアスターは斯く語り給う』に擬えて激賞した辻潤が、伊藤野枝の前夫で、橘宗一が、野枝と辻の間にできた〈辻一(まこと)、警句戯画榎家.エッセイスト.)と気遣われたエピソードは、……。という次第で、辻の激賞の裏には〈9・16〉があったのではというのが小生の妄想の裏にも。尾形亀之介にさえ。なにしろ、幸徳秋水事件と大杉事件は、アナルコサンディカリストやコミュニストのみならず、リベラルな言論表現者たちの本音本位を黙らせてしまった〈圧倒的権威主義軸〉だったのですから。〈文切り形の言語動作〉でリベラルな言語ゲームに遊んだならヤラレル、と。形式論理のロジックほどアブナイコトバはないのだと。「誰にでも誤解誤読なく通じる言語表現」が意義を持つ世界は〈学会〉に際え存在しないのでは…?ギョイイイ…、ギョエー!」、まあ、〈学会のコトバ〉や〈芸術団体のコトバ〉のフンダリーカケッタリーカは東西古今、神代の昔から延々と。
返信する
言われてはっとしました
(
鈴木 守
)
2013-11-03 16:09:48
辛 文則 様
いつも有り難うございます。
そうですよね。
「その2」のことを全く考えてもいなかった私は、辛さんから指摘されてはっとしました。そして、自分の読みの浅さに改めて気付きました。
一方の、「立野信之の『黒い花』と『サキノハカという黒い花』との因縁関係性」につきましては、私から見れば同じものである可能性が高い、という程度のものでしかありません。どうも、詰め切れていません。
これからも、またいろいろと教えてください。
返信する
ツヅキその2
(
辛文則
)
2013-11-03 16:51:15
やっぱり、「殺れるのはコワイ」のですから、〈テロルの論理〉はいうまでもなく権力の秘密の論理〉に対けても、……。で、〈吾輩猫〉や〈天道公平〉や〈神経衰弱兼狂人〉やら〈霊魂病者〉の〈声〉に耳を澄ま作なければならないのは、精神科医ばかりではなく藝術家や哲学者、だけではなくその研究者や愛好者までも。スキゾフレニアもメランコリアもヒッポコンデリアやエピレプシィなどなど、ゲーテやカーライルやヴォルフガング君やベトにまとわりついているのは過去のオハナシではない筈です、よね。なにしろ、〈コトバ狩り〉が大好きなのは、先ず以て、〈百姓(ひゃくせい)衆生〉なんですから。「〈百姓昭明、万邦協和〉二年の赫い火」への〈青い照明〉を中てるためには、よっぽどの〈見性自覚なる覚悟〉が索められるのでは、と。田中館愛橘や原敬や稲造から春日重泰や鈴木卓苗や太田達人や藤根吉春や米内光政や野村胡堂や平井直衛や松本竣介や舟越保武へと受け継がれてきた地下水脈としての、「不思量底を思量するは非思量なる言語同断」というが如きメッセージや如何、と。「風来る,山鳴らしあるいは箱楊.白楊あるいは庭前の柏樹子なる檜。いざ生き目めやも」、などと。大正生命主義を裏から支えていた、松柏類に托したる賢治阿修羅のコトバとは。インドラ帝釈天に闘いを挑み続ける〈非天生命アスラアフ〉の心意気なるや尋常ではなかるべし、などと。
おっと、格調が拡張し過ぎて、……。1922.11.27から三作、1923,9.16から4作鈴木卓内先生が登場する『地蔵堂の五本の巨杉は』の先駆形や、……。〈ドラモンド光〉と〈翁草の冠毛燈〉との間の蒟蒻問答と思しい『柏林の散歩』の推敲変化たるや。『青森挽歌』に始まる『銀河鉄道の夜』での、ヨハネジョバンニとカンパネルラの鐘の声を聞け、などと。声聞から縁覚を経て菩薩に至り、而して〈善逝・スガタ・如来〉に至るとは行かないのが『昴』からの玉響。『何をやっても間にあわないっか『』という悲痛も、〈而今(いまでしょl〉という「玉響閃く」ならば、「元南部藩士、那珂通世から甥藤村操に向けた痛恨の挽歌」が繰り返されることは、……。「噫乎、人間的な、あまりにも人間的な」という嘆きのコトバを超えて行くのはんかなかに。吾はモナド(単独者)なるか。友ヒドリなく、同志ヒデリでいなくなってシマッタか。百姓(ひゃくせい)が希望を託した北の大地に作物など生える訳はないのだ。ロスケを防ぐ防波堤使えない土地であることを気候学や土壌学や地勢学を熟知していた漢なら。莞爾や征四郎や正彦を称える前に、地理学や気候学をオベンキョウすべきでしょ、と。
返信する
ツヅキその3
(
辛文則
)
2013-11-03 17:45:02
熱くなって書くき推敲を怠るとワープロミス頻出してしまいます。推敲の楽しみと悲しみ、これもまた。「見つけてみて、初めて、自分が何を探していたのかを識る。」とは、互いに相反しあうかのような〈論理哲学〉と〈言語ゲームの哲学〉との間の因縁関係性を相補協働底(ち)にとらえていた自死念慮者の呟きです。L・Wにとっては、〈幸福〉とは、「生きる意志」であって、それこそが〈美〉なのだと。一方、〈不幸〉とは、「生きる意志の棄却」言語」なのだと。希望と絶望との対なる〈言語ゲーム(作用と反作用の力学)〉で〈幸福〉や〈美〉や〈人間(じんかん)〉を考えていたのでは、いつまで経っても、修羅場は消えない因縁で。とはいえ、「人間という現象は〈ゲームの論理〉を楽しまずにはいられない」、と。で、「ナミアミダブ、ナンミョーホーホッケキョー…、あれがホントウの歌です」、なんてね。那美さんも辛だったんですね。庚と辛との因縁も辯なる辭にて新親なんです。庚金之助さんのトラウマに癇癪発作の芽を探るや如何、H様……。ベイトソンと羅漢を出発点にした環君とたまみ君と空海を考え直してみたい朱理君との間の禅問答などにも。〈コトバ〉という「難有々々々宙宇」に思い惑い始めると「吾、四十而愈々迷惑」という身心境位に。〈匿名のコトバ〉に〈信〉を委ねるのは自業自得。「輝く目と目を対けあってタタカイしかもワラウのだ」と誰かさんも願ってました。「シズカニワラッテイル」とは言っても、〈啖う〉とか〈嗤う〉では。「顔色のコトバを画に画けるようになりたい」というアンビションを懐くと、「他人を馬鹿にする微笑(yウスワライ)」と「共感のびしゃお微笑(ホホエミ)」とを的確に描き分け得なくては。その間の形態的微細な差異を分析的に意識化し形象化するのが画工の仕事。骨の構造と動きのベンキョウが必須なことはレオナルド先生以前からの常識でした。〈音楽のコトバ〈〉だって同じ。バッハの仕事がなければ、聴覚を失ったベトちゃんに『大フーガ』や『カヴァティーナ』や『カンツォネッタ』は書けませんし、ヴォルフガングを科学者と呼ぶ視点も。偶然性に頼っては決して達成できない補色対比効果の活用を他ならないゴッホが多用した因縁を解き明かす為には…、などなど、賢治現象理会に周縁する思量課題は広大なのだ、と。と、まあ、御免下さい。H氏や「シーニュとシニフィアンとシニフェの間の三角関係」と「シグナルとシグナレルスとの間の因縁」などなど、「吾、不識。」なれども。
返信する
熱い想いがドバドバ伝わってきます
(
鈴木 守
)
2013-11-03 19:09:47
辛 文則 様
辛さんの熱い想いが疾風怒濤のように押し寄せてきて、私は圧倒されっぱなしです。
その熱さがありますから、どうか「自死念慮者」等とは仰らないでください。
今度は、直にお会いしてその怒濤を浴びたいと思っております。
返信する
返電
(
辛文則
)
2013-11-03 20:08:51
「天馬空を行くが如し」と「蛇や亀の如く、地を這い即穴を掘るが如し」との間、たとえば、〈命題演繹的・トップダウン〉と〈帰納的・ボトムアップ的〉の間の因縁関係性は、相反的なのではなく相互補完・相互異教依拠・協働的なのだと考えています。つまり、どちらか一方だけを働かせることなどデキナイ相談なのだ、と。
で、この関係問題に対する思量として古いところでは、『荘子・外篇・山木篇』にある〈一龍一蛇〉という四文字、つまり、「有時、龍の如く天を駆け、有時、蛇の如く地を這う」と。で、「和を以て量と為し、材と不材の間に浮遊し、物を物として、物に物せられず。」、と。その前に、「誉れなく誹りなく」、と。実をいうと、小生、 哇有時経歴説ある時節から、『老子・1、2、8、30,31』などの思想をまとめたこの『荘子・。山木篇1』を、『雨ニモマケズ』と重ね合わせて遊化遊楽してきました。で、〈遊〉のココロは「逍遥遊にして知北遊。不一不二の乾坤を建立し、我利私慾私欲の羈絆を蕩尽したれば、不羈奔放にして随処作主、一龍一蛇、有時高高峯頂立、有時深深海底行」といった塩梅です。因みに、「高高峯頂立、深深海底行」は、道元希玄が『正法眼蔵』の〈有時(存在は時間なのである)〉している禅語。『荘子』と『『正法眼蔵』との間に千年の時と意識の流れが。で、それからそれへと有時経歴。ウィトゲンシュタインの覚書に、「賢さという山頂から、愚かさという緑なす谷間へ、いつも下って行くことだ。」という自戒を見つけて、昭和60年度の『自彊』へ寄せた『視るものを見えるものに結びちけるために」という『大學』の「視而不見、聴而不聞」という古道にひっかけた題名のワケノワカラナイエッセイ引用したのでした。固より、先ず以て、「愚かさという緑なす谷間をオロオロと歩き廻る試み」が土台。権(かり)の力でしかない権威や権力という他人様の背中に乗ってトップダウン的威勢を振り回すだけの賢さは捨てるべし、と。とはいえ、「有時鵬、有時鯤」なる直感直感と分析総合との協働作業は必須、と。因みに、どういう訳か、「愚かさという緑なす谷間を歩き廻れ」というL・Wの自戒と阿修羅賢治の放浪とは直感的に結びついたのは面白かったです。L・Wの『哲学探究』の序文を読んで、〈賢治の旅〉と重なったのも。賢治童話をメルフェンとしてではなく寓意小説と読みたいという小森陽一氏の『最新宮沢賢治講義』以後の試みも面白いですが、賢治お詩ならぬ賢治詞を、『青森挽歌』の〈万象同帰(万法帰一)の声〉なる、概念言語分節以前のランガージュとラングとの間の因縁話として遊戯三昧に及ぶというのは如何、などと。賢治が、漱石の『文学論』での天才論を読んで「宜なるべし」と悟っていたなら、……。賢治と漱石の間を結ぶ鍵は、所謂賢治研究者が殆ど注目することのない橘川眞一郎と秋皎内田直という二人の盛中教師です。特に、大正三年に長年患った結核によって二十九歳で逝った内田秋皎は一級上の啄木とは違って、『ホトトギス』などにに俳句作品を寄稿していた人です。16歳の時、漱石の談話記録『俳句と外国文学』を自らが編集していた盛岡の俳誌『紫苑』第四号に掲載しています(このエピソードは未だ漱石研究者も不知なようで)。つまり、内田秋皎は、自作が掲載されている『g母校批判や国家の教育批判を論じた啄木の『林中書』を編集を担当していた校友会雑誌に掲載したのは、橘川と内田です。明治40年度までの〈不羈奔放の白堊校〉はそんな学校だったのですが、賢治が入学する前年、『時代へ閉塞の現状』が〈忠実自彊の白堊〉へと。明治45年、26歳で盛中英語教師として帰って来た内田に、橘川は十年間担当した校友会雑誌部長を委ねたのですが、生徒編集担当したのが、金田一平井直衛の弟の金田一他人(たびと)と同様、賢治の同級の「ガマ仙に似た阿部の孝」。担任は「ヨハネ眼の橘川先生」。賢治が校友会雑誌に作品を寄せていなかった因縁の背後には左様な状況が。尚、大正十五年度の生徒編集委員は森佐一と石上玄一郎。石上は森より後日評価が高い小説家になりました。賢治在学時代はもとより、昭和大正後期以後の教師と生徒の大多数派は体制派です。今日と違って、「言論表現の自由」には文字通りの意味で、「命がかかっている」、のでしたから。大正八年、原敬によって送りこまれたと噂されたリベラルの春日重泰校長が昭和二年12月に追放され、翌年平井がクビを切られたワケです。時代の波は、春日が大正10年に招いた太田達人(漱石『硝子戸の中』のO)や岩手中校長の鈴木卓苗、農学校長藤根吉春にも襲いかかります。この三人は、昭和二年10月、新渡戸稲造を招いて講演会を実現させましたが、その際に揮毫した「君子不器」の額は盛岡農高遺りましたが、盛一には遺りませんした。明治期に贈られた山屋他人の〈和而不流〉は遺ったんですがねぇ。因みに、25年間白堊校に勤めた橘川が亡くなったのは昭和2年10月です。
記載されていますが通史には書かれていないエピソードです。『白堊校百年史』は、アメリカ公文書館からも十冊の注文があった史料ですが、その史的価値は年表にあります。年表や年譜がしっかりしていれば通史は如何様にも書ける。「年表の信頼性と情報量を上げる」のが玄人の仕事としての〈年史〉、グラビアで素人の眼を楽しませるのが〈記念誌〉、吾等は、〈記念誌ではない年史〉の編纂を目指そう」、というのが、事務局長で、「『太平記』研究の碩学」として、「知る人のみ識る」なる石田洵先生からの教えなのでした。
とまあ、またまた長くなってしまいました。で、「年表を具に辿れば仕事の質とその精神態度への明らめが働く」、と。なにしろ、〈年表のコトバ〉には、「巧言令色としてのレトリック」が介在する余地はない筈ですから。
という次第で、「年譜・年表の改竄・書き換え・抹消」は「辜が重くて辛い」のですね。で、「一番〈辜〉が重くて一番やられやすい」のが〈抹消という強権〉。改竄や書き換えは〈前後関係(コンテクスト)〉読みや論理矛盾への批判手駅検証からの復元も可能ですが、抹消されたmコトは、……。『知の考古学』という着眼や、〈知という権力〉の行使は〈帝辛(殷の紂王)〉に対けた周の時代以前から始まっていた、と。つまり、史が甲骨文字で書かれていた時代から。
おっと、ついつい、シッタカブッダやっちゃいました。道(いわ)く、「釈迦に説法、難有々々々々。」、と。〈吾輩猫〉あるいは〈山猫軒主人〉にだって嗤われますね。
返信する
おしまいに
(
辛文則
)
2013-11-03 21:39:40
熱くなって、推敲どころか読み直しもせず投稿ボタン押しちゃいました。接続詞の吟味どころか、ワケノワカラナイ文字化け過剰文字が多々あるもヒドイ文です。会話コトバよりヒドイですね。でも、エクリチュールですからコンテクストを辿ればy欠落と過剰を割り出せそうでうし、誤読は兎も角誤解は生じないものと楽観して本文への一々への訂正は致しません。それにしても、二十年ぶりぐらいで興奮して書きました。〈考えることの快楽〉と〈書くことの快楽〉とは〈テクストの快楽〉よりも麻薬的です。ついつい、その自家中毒に陥り、而も、それへの依存症状への自覚も失っていしまう。音楽嗜癖症は更に重篤です。〈ランナーズハイ〉だとか〈ツィターズハイ〉だとか、〈マネーゲームハイ〉だとか、無数の依存症が提示できそうですが、「吐き出す為に喰う」という食欲本能は無縁の〈人間関係慾〉は古代ローマにもあったといいますからね。ゾロアスター以前、ギルガメツシュちゃんが森の神ウンバカを滅ぼしてシマッタところから輪廻転生とあの世への憧憬が生まれたのかなぁ、なんて賢治君も妄想したのでは(『青森挽歌』)などと妄想して遊び初めてから30年近くの有時経歴がそれからそれへ、と。大正3年、共に盛中一回生で糸っこ従兄弟だった佐藤北江(東京朝日初代編集局長)が逝ったのは大正3年10月。樺太豊原市の中学校長をしていた〈0〉が上京して漱石と再会したのは、北江の弔いの為だったと憶測しています。太田達人が、春日重泰に招かれ幾何学教師として盛中の教壇に立ち始めたのは大正10年4月。原敬がヤラレた6か月前。豊原中学校退職が先か盛中着任オファーが先かは不明です。で、大正14年4月、鈴木卓苗が私立岩手中学校初代校長に就くと同時にそちらに移っていますが、盛岡に長く居住できない事態が。盛中在任中に達人が親しくしたのが平井直衛と卓苗の甥の瀬川吾朗で釜石夜間中学を引き継ぎ、女性英語教師を雇ったりしたリベラリストの禅僧。釜石大観世音を建てたのはその末子の瀬川ジュウ朗という人で小山卓也先生の従兄弟にあたる訳です。
で、要になるのが、橘川眞一郎。橘川先生は、内田の恩師で。長岡拡(長岡照子の父。はタピングを盛中英語授業に招いた人。盛中生賢治はタピング親子には教わっていません)とも親密で、明治40年、同じ年に盛中を卒業した小野清一郎(島地大等に心酔。一高に主席合格。願教寺での夏季仏教講座は小野の以来始まったという説も。刑法学の碩学。文化勲章受章。)とも親密。
盛中生賢治が、保守反動化した盛中で、橘川と内田から密伝密教を受けていたと妄想すると、……。盛中三年頃から書き始めている短歌のコトバを読み込んでみると、「柏影霜葉喃語を捨てず」風の息吹が感じられて仕方ないのですが、……。
ともあれ、かくなる妄想は、あくまでもksy資料的実証の不可能な問題。教え子や友人、親兄弟にさえ秘密にしなければならない思想というのは……。因みに、〈桐下倶楽部〉のイワレを存命だった清六さんに取材したところ、「兄が作った」と仰られて、それを真に受けて写真帳キャプションに使ったのですが、桐下倶楽部は賢治入学以前からあったという情報も。
内田秋皎は、明治39年に、根岸派俳句の重鎮で新聞日本記者だった河東碧梧桐を盛中に招いて、「俳句連続三日講義」を開いていますが、〈碧梧桐下〉と妄想してみたくもなって。まあ、『花やさい』に書かれている「やはり紫苑の花びらは生きていた」という文則(レトリック)を過剰読みを加えて。
おっと、性懲りもなく。これでホントにホントにおしまいです。御免下さい。
返信する
脱帽です
(
鈴木 守
)
2013-11-03 23:01:01
辛 文則 様
今日は圧倒され続けて、脱帽です。
また、いろいろと教えてください。
鈴木 守
返信する
仙台に行ってきました
(
辛文則
)
2013-11-05 18:32:14
鈴木守様
2013,11,4という有時、而今(にこん)、仙台に行って来ました。仙台駅で古田敦也と、帰りには嶋とすれ違いました。つまり、前の晩、「おしまいに」を投稿して階下に降りた而今(今でしょ!)に田中が仁王立ちして巨人を睥睨している姿を眼にし、「勝ってる」ということに気付いたのでした。つまり、「野球のことはスッカリ忘れていた」という次第。言ってみれば、「忘我遊戯三昧」、と。そんな感じ、何十年ぶりだったかしらん、などと。
で、その日は、将(まさ)に「11月3日という時点」だったのですね。昭和6年時点では明治節、つまり『雨ニモマケズ』が書かれた日。で、その直ぐ後に、「友ヒドリもない、同志ひとりもなし。見知らぬ人に玉響閃く「」、などと。『くらかけ山の雪』と名指された「唯ヒトリのアテニナルヒト」って誰だったのでしょう。
小生の妄想は、〈ドラモンド光〉の相棒なる「くらかけ山の冠毛燈の質直」なる〈青い照明〉なのでは、などと。で、その2年後の昭和8年、両人は共に帰らぬ人に。縁は異なもの味なもの、されど、「心不在焉、食不知其味。」、などと遊楽(ゆらく)して。
「青年ラワラフ,土偶ノ坊石ヲ投ゲラレテ遁ル.老人死セントス.ヒデリ.」から「われは厳頭にあり、飛瀑百丈、側より落つ.」などと。『マグノリア(辛夷)の木』は華厳の事理無礙法界の、『インドラ(天帝釈)の網』は事事無礙法界、「万象同帰にして万法帰一なる苹果の薫る渾沌という緑なす谷間に自在自由にして融通無礙なる声をとりに遊ぶ」なんてね。「青い森へのレクイエム」をナーガラが歌えば「中観なる空の色」もまたかぐわしき哉、などと。しかし、サハリンの風は冷たかった。求める人は既にモーリオに居たのだから、などと妄想にに耽って遊ぶはをかし。
1931年から82年の有時経歴が逝き過ぎた夜の遊戯三昧から覚めて、仙台のメディアティークに足を運んだのは、その時と場に、文遊と遊理なる二人の吾子の絵画作品が、〈ゼロ〉と名付けられたグループのメンバーと共に並べられていたからでした。まあ、そのグr-ㇷ゚名を「己が身心をゼロと作す」などというネーミングなのか、などと妄想して。
固より、不貪慾戒は不瞋恚戒と不愚癡無明戒と切り離して実践できる筈もありませんし、さもなければ、白隠慧鶴の道(い)うように、『ナムサッダルマフンダリーカスートラ』を四弘誓願の糧と作すことも出来ない相談。
1931年から15年の月日を遡った日、23歳の賢治は、後のその〈無二の心友〉と目される漢に対けて、「これから20年黙って音なく一生懸命勉強しよう」と呼びかけていますよね。それが実行されていたなら、私たちは〈宮澤賢治という現象〉が遺した〈道の道〉に遊戯遊化(ゆげゆけ)することはできず、その〈文(あや)〉とも〈理(ことわり)〉ともコラボレーション(協働)することは叶わなかった訳ですね。幸いにして、その直後、賢治は己が宿痾に出遭っていることを自覚し、「俺の命も長くてあと15年」と預言して、その預言通り逝ったのですから、その「不幸而幸」は新渡戸稲造のそれと似て、……。
小生、「他人に殺られるならソイツを先に殺るべし」を義と為すのか、「他人を殺らねばならぬのなら己を殺るしかないか不識」と苦しむ心を愛でるのかは、その人の人世人間観や宙宇観の根源性に向かわざるを得ない難有い問題なのだ、として生き延びてきました。そして、そんな、楽天的な他者からは、「ネガティブで後ろ向き」と誹られそうな自意識過剰の故か、己を霊魂病y者と自覚した新渡戸稲造や神経衰弱兼瘋癲病者と見性した夏目金之助という師弟を敬愛して来ました。問題は、十九歳の頃、「俺は脳病者なんだ。」という絶望に臨んだ漢が、その後、「おれは自殺者ではなのだぞ!」(宗谷挽歌)と呟いたモナド(単独者)が、「人人(にんにん)の生死(しょうじ)「」を如何様に思量し続けて善逝(スガタ)に対ったのか、という難有いプロブレマティーク。
小生、幸か不幸か、「戦勝を美と為すは殺人を楽しむなり」という、新渡戸稲造や夏目漱石そして米内光政が生涯座右に置いたという『老子』の、第31章を(吾が道の理〉と作してシマッタのが運の尽きだったのかもしれません。その因縁は、十五歳の時、松本竣介の『生きている画家』と遭遇し、その聴覚を失った画工とその無二の心友である舟越保武の両人の仕事を心の糧にしてシマッタツケに始まっているようにも思われます。道く、「不思量底を思量するは非思量なら」、などと。つまりは、〈アンノウン(不識)〉。尤も、「吾不識と作す」と「汝不知と為す」とでは天地乾坤の差異があるのかもしれませんが。
話はいきなり跳びます。前に書いた、「賢さという山頂から云々」というL・Wのアフォリズム、「賢さという禿山」の〈間のチガイ〉でした。尤も、丘静也氏による日本語訳文は後に、「利口さという禿山」に訳しなおされています(『反哲学的断章』)から。因みに、L・Wの『論理哲学論考』は論理学の面白紹介者の野矢茂樹氏による訳しなおしの方が解り易かった気がします。それにしても、数学者に向かって論理定項の初歩の初歩について講釈するという「釈迦に説法」を犯す愚癡無明には、「嗤って哂ってワライがとまらず、可笑しくやがて哀しい日暮れかな」、でした。「アンノウンも主客が顚倒すると喜劇が悲劇になりかねません」、ということで、相応のケリも入ったのかと。尤も、勝負勝敗に拘ると悪感ばかりが残るが故に不f瞋恚戒、ということではないでしょうか。憤怒という情は時が薄めてくれますが、瞋恚という恨妬は時がアンプリファィして不快極まりないですから。
「愚かさという緑なす谷間」という文彩には、「賢さという禿山」という〈辛い文則〉の方が相応しい気が。因みに、〈文則〉という名が、支那宋の修辞書の名として用いられているというエピソードは、佐藤信夫老師の絶筆となった『レトリック消息』で出逢いました。守先生との再会再別の頃に生徒への送別の詞として、次なるL・w警句を贈った三十八歳の機でした。覚えてはいないですよね。
道く、「怖気ではなく怖気の克服が賞賛に値し、人生に生甲斐をもたらす。器用さではなく、ましてた霊感などでもなく、勇気こそが辛子種であり、成長して大きな樹になる。」、と。その樹が、「有用有材なる栢樹即松柏」であるか「無用不材なる白楊ギンドロ」であるかは、世俗の価値から自在自由・融通無礙なれば、理事無礙なるもをかし、と。
「ビー アンビシャス!」に、「ライク ジス オールドマン」と続けるのか、「ライク ザット ヤングマン」と続けるのかで、〈アンビション〉の内容の分別(ふんべつ)も。「護美の分別」を行う訳ではないのですから、〈老いぼれのアンビション〉の〈クウォリティ〉と〈クウォンティティ〉の識別ぐらいはつけて欲しいものです。畢竟するに、唯一性と数多性とのどちらを一大事と観るかのヴァリュー問題な訳ですから、理屈では折り合いがつかないのは已むを得ず、というのは致し方なしなんですね。で、〈老いぼれのアンビギュアスなアンビション〉、これからも「契りと化す」、お願い戴ければこの上なく仕合せと存じます。再会ならぬ参会は、そうある〈因縁性起いんねんしょうき・縁起〉ではない筈ですから。人世人生には「不快な腐れ縁」というのもありますが、「御縁を一大事と作す」は、「人惑を受けることなく、随処作主なれば、立処皆真。」(『臨済録』)ということで。薩摩出身で西郷南洲の部下だったという噂のあった白堊校の初代校長蒲池弥太郎が太田達人や佐藤北江、藤根吉春や横川省三たちに贈った〈不羈奔放〉の四文字を大切だと切なく思量するというのなら。因みに、薩摩と南部とは、江戸期末まで生き延びた源頼朝友加里所縁の二つだけの源朝臣だったという歴史のアイロニー、皮肉とではなく仮対法と読み遊んで、「紫苑の志に遊ぶ」というのも。「コールサック(石炭袋)の彼方」を、〈ブラックホール〉や〈ダークマター〉や〈ダークエネルギー〉の奔流と作す〈レトリカル世界〉として楽しむには、〈科学〉と〈藝術〉と〈哲学〉と〈宗教〉との〈間の因縁関係性〉を、対立背反的な関係性とではなく、相補相依協働的な関係性と観て遊戯遊楽できる身心境位に至りたいものだ、と。
またまた、釈迦に説法、越智東風にして糸瓜先生風流なる道取、失礼仕り候。これにて蒙御免下さい。
返信する
お二人、大活躍ですね
(
鈴木 守
)
2013-11-05 20:29:11
辛 文則 様
仙台行お疲れ様でした。とはいえ、息子さんとお嬢さんはお父さんの血を受け継いで大活躍なのですから、〝おやじ〟は頑張りましょう。そしてこれからも。
さて、今回のコメントは前回にも増して「辛ワールド」が炸裂していて、浅学菲才の私はその目眩く世界にわからぬままながらうっとりしました。ちょっと贅沢をした気分です。
また近々、「辛ワールド」のコメントをお願いします。ただしその際には、私のためにあえて格調を下げたものにして下さい。
なお、「送別の詞」については済みません覚えていませんでした。
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で、小生の妄想では、『宗教風の恋』『風景とオルゴール』『風の偏倚』『昴』の四作に付された「1923,9,16という〈日付のコトバ〉」に引っ掛かってシマッタのでした。関東大地震の十五日後の東京でない何が?、「剽悍な刺客に暗殺されてもいいのです」という宣言が冗句ではなく「賢治の真面目(しんめんもく)」だったりしたなら、……。大正デモクラットに通じるリベラル原敬への大正十年十一月へのテロルを賢治はどう受け止めて居たのか…?、と。田中智学との間の因縁とも絡んで悩ましいのですが、佐藤昌介や新渡戸稲造や内村鑑三そして斉藤宗次郎との思想的連関性を妄想すると。幸徳秋水抹殺と大杉栄抹殺と原敬テロルという現象を同一線上に心象化せずにはいられない、となると。
お晩でございます。
お世話になっております。
ところで、今回の辛さんからの「前回のツヅキ」ですが、格調が高過ぎて私には難しすぎますので、後程お電話をいたしますから、いろいろと教えてください。
因みに、リベラリスト平井直衛のクビキリに先立って、昭和2年10月に岩手中校長の鈴木卓苗、農学校校長藤根吉春と共に、新渡戸稲造を盛岡での講演に招いた春日重泰には12月に佐賀県への追放人事が。校友会雑誌第38号の発行はその半月後。森佐一が盛中生だった頃から反春日派に扇動された対春日ストライキが続き、森は生徒ストに参加しない極少数派でしたが、その辺の顛末については口を閉ざして逝きました。因みに、その長男で精神科医の森荘介氏は『白堊校百年史』の編集委員で大正期通史を担当しました。平井のクビと、竣介の退学から8年後、原敬日記をまとめることになる原圭一郎と野村胡堂の経済的支援を受けて、竣介はリベラルエッセイ誌雑記帳を出し、昭和16年4月に『生きている画家』が書かれた、と。後は、電話でお話した有耶無耶があって…。アブナイ伝記話はフィクションにした方が無難ですしょうから、入沢先生が仰っているように、主体的、間主観的な〈道得・テクスト〉解釈問題に留まっているのが宜しかろうか、などとも。「非戦不拘勝負」なる立処を己が随処作主と為すが「他ノ皆ニ木偶之坊ト誹謗中傷サレル者ニ私ハナリタイ」という心意気なのか不識などとも。尤も、小欲か大欲かは定かではないですが、未だ〈知己足欲〉は残っているようなので。
先程はいろいろ教えていただき大変有り難うございました。
また、長電話になってしまって申し訳ございませんでした。
さて、その際の辛さんのお話は、まるで空翔る鳳の如く総てを俯瞰した上で迸り出てくるものでしたから、私はただただ圧倒されるばかりでした。
実は、私の大きな悩みの一つに、賢治が書いたものがどれくらい彼の営為に還元できるのだろうかということがあります。そのせいか、この頃の私は賢治の書いたものは措いておくきらいがあり、いわば芋虫のように地べたをはいずりまわりながら賢治のことを知ろうとしています。
しかし先程のお話を聴きながら、たまには鳥の眼になって、賢治の書いたものを地べたに投影させることもたまにはしなければならないのだ、と感じました。
近いうちに、松本の例の作品を見てみたいと思っておりますので盛岡に行くかもしれません。その際は、空の飛び方を是非教えてください。
それでは、夜寒の候、どうぞご自愛下さい。
過日はいろいろなことを教えていただきまして有り難うございました。
さて、今朝布団の中でうつらうつらしていたとき、以前辛さんからのコメントの中にあった
“「1923,9,16という〈日付のコトバ〉」に引っ掛かってシマッタのでした。”
に関してある気になることをふと思い出しましたので、関係ないことかもしれませんがとりあえずコメントしております。
それは、1923,9,16時点で賢治は大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が虐殺されたことを知っていたかということです。
Ⅰ これに関しての新聞報道は
◇同9月21日の報道
・関東戒厳令司令官福田雅太郎本職罷免。
・甘粕正彦大尉、9月16日職務執行の際に違反行為があったので9月20日軍法会議に附された。
ということのようですし、
◇同9月24日の報道
・甘粕大尉は、大杉等3人を殺害した。
ということらしい。
Ⅱ 一方、立野信之著『黒い花』によれば、大杉等が9月16日の午後二時頃行方不明になったことは、村木源次郎や和田久太郎らの同志間では知れわたっていた。
となれば、アナーキスト大杉等が惨殺されたことを賢治はいつ知ったかとなると
(1) 後に新聞報道によって知った。
(2) 賢治は隠語としての「黒い花」の意味を知っていた可能性がかなり高いくらいだから、賢治はアナーキスト等との繋がりがかなりあり、早い時点でこのことをアナーキストの誰かから知らされていた。
ということが考えられと思いますが、この3人が行方不明になったのが同日午後2時であれば、賢治がこのことを知り得たのは少なくともこの日ではなく、この日以降であった可能性の方がかなり高いと私は直感したのですが、さてはたして真相はどうだったのでしょうか。
電話でお知らせ戴いたことにはついては、「むしろ矢張り」の感の方が。しかし、コメントの方には、〈想定外〉のことがかかf書かれていたのでした。立野信之の『黒い花』と『サキノハカという黒い花』との因縁関係性についてでした。
で、先ず、「賢治作品における〈日付のコトバ〉」の意味解釈についてです。つまり、「賢治作に付された〈年月日〉は如何なる日付を示しているのか?」という問いに対する考え方についての両つの観方に関わる問題。その1は、作品制作日あるいは推敲完了日。その2は、作品のモティーフあるいはテーマの着想日。それが事件なら事件が起こった日。小生はその2を択って来ましたが、守先生は何方だったのでしょうか。
その1を択ると、「賢治あるいは辻潤が事件を知ったのは何時か?」が要石になって、〈大正12年9月16日〉という日付は宙に浮いてしまう訳ですが、その2の観点を択ると、話は逆になり、「事件が起こった9月16日」こそが要石になりますよね。「宮澤トシが息を引き取った日の〈1922,11,27〉」が付されている『永訣の朝』『無声慟哭』『松の針』と翌〈1923,6,4〉が付されている『風林』と『白い鳥』をどう読むか、とも関わってきます。
で、作品完成日は作者の私事ですがテーマ着想日は作品メッセージに直結するのでは、と。〈『無声慟哭』の章〉と〈『オホーツク挽歌』の章〉と〈『風景とオルゴールの章』〉との間の因縁性起という問題とも。
で、これは、賢治の常軌を逸脱した推敲癖とも密接に絡みますね。御承知のように、賢治の推敲は、常道の意味での「作品完成に向けた推敲」というのではなく「永遠に未完成の完成なる創造不断としての推敲」という趣があります。つまり、年譜に作品日付を配置するのは便宜的措置にならざるを得ない、と。「永遠の未完成、これ完成である「」問題は、件のM台先生によるブルカニロ博士問題こも関連します。世に有名な〈猶太人の陰謀〉説を引っ張り出すまでもない事柄、と。
で、この考えを進めると、「賢治は何故にかくまで推敲・書き直しにこだわったのか?」というプロブレマティークに行き着きます。「賢治はその都度の霊感的感性の導きによって詩のコトバを紡いだのだ」といった見解がその立処を失うことに。〈賢治のコトバ世界〉を、「メッセージ解釈がナンセンスな音楽的抒情あるのみ」と捉えるのか、叙事的、思想的メッセージも含む、きわめてレトリカルな譬喩世界なのだ、と。それは、『ナムサッダルマフンダリーカスートラ』を文彩物語として読み込むか、「ナンミョーホーレンゲーキョー」という呪文を唱えるだけでよいのか、という問いにも関わります、よね。
小生には、『黒い花』なるアナーキズム関係の書への知は全く欠けていました。大杉栄、幸徳秋水、北一輝がかっての同志であり、幸徳秋水抹殺の時に、大杉も殺されずに済んだのは獄につながれていたから、とか、北が幸徳事件で逮捕された人々の中で雄いつ唯一釈放され、田中智学や甘粕正彦や石原莞爾らと関わりを持ちながら生き延び、遂に2・26でヤラレテシマッタ、というナリユキは知っていたのですが。
因みに、〈心象スケッチ『春と修羅』〉を、ニーチェの『ゾロアスターは斯く語り給う』に擬えて激賞した辻潤が、伊藤野枝の前夫で、橘宗一が、野枝と辻の間にできた〈辻一(まこと)、警句戯画榎家.エッセイスト.)と気遣われたエピソードは、……。という次第で、辻の激賞の裏には〈9・16〉があったのではというのが小生の妄想の裏にも。尾形亀之介にさえ。なにしろ、幸徳秋水事件と大杉事件は、アナルコサンディカリストやコミュニストのみならず、リベラルな言論表現者たちの本音本位を黙らせてしまった〈圧倒的権威主義軸〉だったのですから。〈文切り形の言語動作〉でリベラルな言語ゲームに遊んだならヤラレル、と。形式論理のロジックほどアブナイコトバはないのだと。「誰にでも誤解誤読なく通じる言語表現」が意義を持つ世界は〈学会〉に際え存在しないのでは…?ギョイイイ…、ギョエー!」、まあ、〈学会のコトバ〉や〈芸術団体のコトバ〉のフンダリーカケッタリーカは東西古今、神代の昔から延々と。
いつも有り難うございます。
そうですよね。
「その2」のことを全く考えてもいなかった私は、辛さんから指摘されてはっとしました。そして、自分の読みの浅さに改めて気付きました。
一方の、「立野信之の『黒い花』と『サキノハカという黒い花』との因縁関係性」につきましては、私から見れば同じものである可能性が高い、という程度のものでしかありません。どうも、詰め切れていません。
これからも、またいろいろと教えてください。
おっと、格調が拡張し過ぎて、……。1922.11.27から三作、1923,9.16から4作鈴木卓内先生が登場する『地蔵堂の五本の巨杉は』の先駆形や、……。〈ドラモンド光〉と〈翁草の冠毛燈〉との間の蒟蒻問答と思しい『柏林の散歩』の推敲変化たるや。『青森挽歌』に始まる『銀河鉄道の夜』での、ヨハネジョバンニとカンパネルラの鐘の声を聞け、などと。声聞から縁覚を経て菩薩に至り、而して〈善逝・スガタ・如来〉に至るとは行かないのが『昴』からの玉響。『何をやっても間にあわないっか『』という悲痛も、〈而今(いまでしょl〉という「玉響閃く」ならば、「元南部藩士、那珂通世から甥藤村操に向けた痛恨の挽歌」が繰り返されることは、……。「噫乎、人間的な、あまりにも人間的な」という嘆きのコトバを超えて行くのはんかなかに。吾はモナド(単独者)なるか。友ヒドリなく、同志ヒデリでいなくなってシマッタか。百姓(ひゃくせい)が希望を託した北の大地に作物など生える訳はないのだ。ロスケを防ぐ防波堤使えない土地であることを気候学や土壌学や地勢学を熟知していた漢なら。莞爾や征四郎や正彦を称える前に、地理学や気候学をオベンキョウすべきでしょ、と。
辛さんの熱い想いが疾風怒濤のように押し寄せてきて、私は圧倒されっぱなしです。
その熱さがありますから、どうか「自死念慮者」等とは仰らないでください。
今度は、直にお会いしてその怒濤を浴びたいと思っております。
で、この関係問題に対する思量として古いところでは、『荘子・外篇・山木篇』にある〈一龍一蛇〉という四文字、つまり、「有時、龍の如く天を駆け、有時、蛇の如く地を這う」と。で、「和を以て量と為し、材と不材の間に浮遊し、物を物として、物に物せられず。」、と。その前に、「誉れなく誹りなく」、と。実をいうと、小生、 哇有時経歴説ある時節から、『老子・1、2、8、30,31』などの思想をまとめたこの『荘子・。山木篇1』を、『雨ニモマケズ』と重ね合わせて遊化遊楽してきました。で、〈遊〉のココロは「逍遥遊にして知北遊。不一不二の乾坤を建立し、我利私慾私欲の羈絆を蕩尽したれば、不羈奔放にして随処作主、一龍一蛇、有時高高峯頂立、有時深深海底行」といった塩梅です。因みに、「高高峯頂立、深深海底行」は、道元希玄が『正法眼蔵』の〈有時(存在は時間なのである)〉している禅語。『荘子』と『『正法眼蔵』との間に千年の時と意識の流れが。で、それからそれへと有時経歴。ウィトゲンシュタインの覚書に、「賢さという山頂から、愚かさという緑なす谷間へ、いつも下って行くことだ。」という自戒を見つけて、昭和60年度の『自彊』へ寄せた『視るものを見えるものに結びちけるために」という『大學』の「視而不見、聴而不聞」という古道にひっかけた題名のワケノワカラナイエッセイ引用したのでした。固より、先ず以て、「愚かさという緑なす谷間をオロオロと歩き廻る試み」が土台。権(かり)の力でしかない権威や権力という他人様の背中に乗ってトップダウン的威勢を振り回すだけの賢さは捨てるべし、と。とはいえ、「有時鵬、有時鯤」なる直感直感と分析総合との協働作業は必須、と。因みに、どういう訳か、「愚かさという緑なす谷間を歩き廻れ」というL・Wの自戒と阿修羅賢治の放浪とは直感的に結びついたのは面白かったです。L・Wの『哲学探究』の序文を読んで、〈賢治の旅〉と重なったのも。賢治童話をメルフェンとしてではなく寓意小説と読みたいという小森陽一氏の『最新宮沢賢治講義』以後の試みも面白いですが、賢治お詩ならぬ賢治詞を、『青森挽歌』の〈万象同帰(万法帰一)の声〉なる、概念言語分節以前のランガージュとラングとの間の因縁話として遊戯三昧に及ぶというのは如何、などと。賢治が、漱石の『文学論』での天才論を読んで「宜なるべし」と悟っていたなら、……。賢治と漱石の間を結ぶ鍵は、所謂賢治研究者が殆ど注目することのない橘川眞一郎と秋皎内田直という二人の盛中教師です。特に、大正三年に長年患った結核によって二十九歳で逝った内田秋皎は一級上の啄木とは違って、『ホトトギス』などにに俳句作品を寄稿していた人です。16歳の時、漱石の談話記録『俳句と外国文学』を自らが編集していた盛岡の俳誌『紫苑』第四号に掲載しています(このエピソードは未だ漱石研究者も不知なようで)。つまり、内田秋皎は、自作が掲載されている『g母校批判や国家の教育批判を論じた啄木の『林中書』を編集を担当していた校友会雑誌に掲載したのは、橘川と内田です。明治40年度までの〈不羈奔放の白堊校〉はそんな学校だったのですが、賢治が入学する前年、『時代へ閉塞の現状』が〈忠実自彊の白堊〉へと。明治45年、26歳で盛中英語教師として帰って来た内田に、橘川は十年間担当した校友会雑誌部長を委ねたのですが、生徒編集担当したのが、金田一平井直衛の弟の金田一他人(たびと)と同様、賢治の同級の「ガマ仙に似た阿部の孝」。担任は「ヨハネ眼の橘川先生」。賢治が校友会雑誌に作品を寄せていなかった因縁の背後には左様な状況が。尚、大正十五年度の生徒編集委員は森佐一と石上玄一郎。石上は森より後日評価が高い小説家になりました。賢治在学時代はもとより、昭和大正後期以後の教師と生徒の大多数派は体制派です。今日と違って、「言論表現の自由」には文字通りの意味で、「命がかかっている」、のでしたから。大正八年、原敬によって送りこまれたと噂されたリベラルの春日重泰校長が昭和二年12月に追放され、翌年平井がクビを切られたワケです。時代の波は、春日が大正10年に招いた太田達人(漱石『硝子戸の中』のO)や岩手中校長の鈴木卓苗、農学校長藤根吉春にも襲いかかります。この三人は、昭和二年10月、新渡戸稲造を招いて講演会を実現させましたが、その際に揮毫した「君子不器」の額は盛岡農高遺りましたが、盛一には遺りませんした。明治期に贈られた山屋他人の〈和而不流〉は遺ったんですがねぇ。因みに、25年間白堊校に勤めた橘川が亡くなったのは昭和2年10月です。
記載されていますが通史には書かれていないエピソードです。『白堊校百年史』は、アメリカ公文書館からも十冊の注文があった史料ですが、その史的価値は年表にあります。年表や年譜がしっかりしていれば通史は如何様にも書ける。「年表の信頼性と情報量を上げる」のが玄人の仕事としての〈年史〉、グラビアで素人の眼を楽しませるのが〈記念誌〉、吾等は、〈記念誌ではない年史〉の編纂を目指そう」、というのが、事務局長で、「『太平記』研究の碩学」として、「知る人のみ識る」なる石田洵先生からの教えなのでした。
とまあ、またまた長くなってしまいました。で、「年表を具に辿れば仕事の質とその精神態度への明らめが働く」、と。なにしろ、〈年表のコトバ〉には、「巧言令色としてのレトリック」が介在する余地はない筈ですから。
という次第で、「年譜・年表の改竄・書き換え・抹消」は「辜が重くて辛い」のですね。で、「一番〈辜〉が重くて一番やられやすい」のが〈抹消という強権〉。改竄や書き換えは〈前後関係(コンテクスト)〉読みや論理矛盾への批判手駅検証からの復元も可能ですが、抹消されたmコトは、……。『知の考古学』という着眼や、〈知という権力〉の行使は〈帝辛(殷の紂王)〉に対けた周の時代以前から始まっていた、と。つまり、史が甲骨文字で書かれていた時代から。
おっと、ついつい、シッタカブッダやっちゃいました。道(いわ)く、「釈迦に説法、難有々々々々。」、と。〈吾輩猫〉あるいは〈山猫軒主人〉にだって嗤われますね。
で、要になるのが、橘川眞一郎。橘川先生は、内田の恩師で。長岡拡(長岡照子の父。はタピングを盛中英語授業に招いた人。盛中生賢治はタピング親子には教わっていません)とも親密で、明治40年、同じ年に盛中を卒業した小野清一郎(島地大等に心酔。一高に主席合格。願教寺での夏季仏教講座は小野の以来始まったという説も。刑法学の碩学。文化勲章受章。)とも親密。
盛中生賢治が、保守反動化した盛中で、橘川と内田から密伝密教を受けていたと妄想すると、……。盛中三年頃から書き始めている短歌のコトバを読み込んでみると、「柏影霜葉喃語を捨てず」風の息吹が感じられて仕方ないのですが、……。
ともあれ、かくなる妄想は、あくまでもksy資料的実証の不可能な問題。教え子や友人、親兄弟にさえ秘密にしなければならない思想というのは……。因みに、〈桐下倶楽部〉のイワレを存命だった清六さんに取材したところ、「兄が作った」と仰られて、それを真に受けて写真帳キャプションに使ったのですが、桐下倶楽部は賢治入学以前からあったという情報も。
内田秋皎は、明治39年に、根岸派俳句の重鎮で新聞日本記者だった河東碧梧桐を盛中に招いて、「俳句連続三日講義」を開いていますが、〈碧梧桐下〉と妄想してみたくもなって。まあ、『花やさい』に書かれている「やはり紫苑の花びらは生きていた」という文則(レトリック)を過剰読みを加えて。
おっと、性懲りもなく。これでホントにホントにおしまいです。御免下さい。
今日は圧倒され続けて、脱帽です。
また、いろいろと教えてください。
鈴木 守
2013,11,4という有時、而今(にこん)、仙台に行って来ました。仙台駅で古田敦也と、帰りには嶋とすれ違いました。つまり、前の晩、「おしまいに」を投稿して階下に降りた而今(今でしょ!)に田中が仁王立ちして巨人を睥睨している姿を眼にし、「勝ってる」ということに気付いたのでした。つまり、「野球のことはスッカリ忘れていた」という次第。言ってみれば、「忘我遊戯三昧」、と。そんな感じ、何十年ぶりだったかしらん、などと。
で、その日は、将(まさ)に「11月3日という時点」だったのですね。昭和6年時点では明治節、つまり『雨ニモマケズ』が書かれた日。で、その直ぐ後に、「友ヒドリもない、同志ひとりもなし。見知らぬ人に玉響閃く「」、などと。『くらかけ山の雪』と名指された「唯ヒトリのアテニナルヒト」って誰だったのでしょう。
小生の妄想は、〈ドラモンド光〉の相棒なる「くらかけ山の冠毛燈の質直」なる〈青い照明〉なのでは、などと。で、その2年後の昭和8年、両人は共に帰らぬ人に。縁は異なもの味なもの、されど、「心不在焉、食不知其味。」、などと遊楽(ゆらく)して。
「青年ラワラフ,土偶ノ坊石ヲ投ゲラレテ遁ル.老人死セントス.ヒデリ.」から「われは厳頭にあり、飛瀑百丈、側より落つ.」などと。『マグノリア(辛夷)の木』は華厳の事理無礙法界の、『インドラ(天帝釈)の網』は事事無礙法界、「万象同帰にして万法帰一なる苹果の薫る渾沌という緑なす谷間に自在自由にして融通無礙なる声をとりに遊ぶ」なんてね。「青い森へのレクイエム」をナーガラが歌えば「中観なる空の色」もまたかぐわしき哉、などと。しかし、サハリンの風は冷たかった。求める人は既にモーリオに居たのだから、などと妄想にに耽って遊ぶはをかし。
1931年から82年の有時経歴が逝き過ぎた夜の遊戯三昧から覚めて、仙台のメディアティークに足を運んだのは、その時と場に、文遊と遊理なる二人の吾子の絵画作品が、〈ゼロ〉と名付けられたグループのメンバーと共に並べられていたからでした。まあ、そのグr-ㇷ゚名を「己が身心をゼロと作す」などというネーミングなのか、などと妄想して。
固より、不貪慾戒は不瞋恚戒と不愚癡無明戒と切り離して実践できる筈もありませんし、さもなければ、白隠慧鶴の道(い)うように、『ナムサッダルマフンダリーカスートラ』を四弘誓願の糧と作すことも出来ない相談。
1931年から15年の月日を遡った日、23歳の賢治は、後のその〈無二の心友〉と目される漢に対けて、「これから20年黙って音なく一生懸命勉強しよう」と呼びかけていますよね。それが実行されていたなら、私たちは〈宮澤賢治という現象〉が遺した〈道の道〉に遊戯遊化(ゆげゆけ)することはできず、その〈文(あや)〉とも〈理(ことわり)〉ともコラボレーション(協働)することは叶わなかった訳ですね。幸いにして、その直後、賢治は己が宿痾に出遭っていることを自覚し、「俺の命も長くてあと15年」と預言して、その預言通り逝ったのですから、その「不幸而幸」は新渡戸稲造のそれと似て、……。
小生、「他人に殺られるならソイツを先に殺るべし」を義と為すのか、「他人を殺らねばならぬのなら己を殺るしかないか不識」と苦しむ心を愛でるのかは、その人の人世人間観や宙宇観の根源性に向かわざるを得ない難有い問題なのだ、として生き延びてきました。そして、そんな、楽天的な他者からは、「ネガティブで後ろ向き」と誹られそうな自意識過剰の故か、己を霊魂病y者と自覚した新渡戸稲造や神経衰弱兼瘋癲病者と見性した夏目金之助という師弟を敬愛して来ました。問題は、十九歳の頃、「俺は脳病者なんだ。」という絶望に臨んだ漢が、その後、「おれは自殺者ではなのだぞ!」(宗谷挽歌)と呟いたモナド(単独者)が、「人人(にんにん)の生死(しょうじ)「」を如何様に思量し続けて善逝(スガタ)に対ったのか、という難有いプロブレマティーク。
小生、幸か不幸か、「戦勝を美と為すは殺人を楽しむなり」という、新渡戸稲造や夏目漱石そして米内光政が生涯座右に置いたという『老子』の、第31章を(吾が道の理〉と作してシマッタのが運の尽きだったのかもしれません。その因縁は、十五歳の時、松本竣介の『生きている画家』と遭遇し、その聴覚を失った画工とその無二の心友である舟越保武の両人の仕事を心の糧にしてシマッタツケに始まっているようにも思われます。道く、「不思量底を思量するは非思量なら」、などと。つまりは、〈アンノウン(不識)〉。尤も、「吾不識と作す」と「汝不知と為す」とでは天地乾坤の差異があるのかもしれませんが。
話はいきなり跳びます。前に書いた、「賢さという山頂から云々」というL・Wのアフォリズム、「賢さという禿山」の〈間のチガイ〉でした。尤も、丘静也氏による日本語訳文は後に、「利口さという禿山」に訳しなおされています(『反哲学的断章』)から。因みに、L・Wの『論理哲学論考』は論理学の面白紹介者の野矢茂樹氏による訳しなおしの方が解り易かった気がします。それにしても、数学者に向かって論理定項の初歩の初歩について講釈するという「釈迦に説法」を犯す愚癡無明には、「嗤って哂ってワライがとまらず、可笑しくやがて哀しい日暮れかな」、でした。「アンノウンも主客が顚倒すると喜劇が悲劇になりかねません」、ということで、相応のケリも入ったのかと。尤も、勝負勝敗に拘ると悪感ばかりが残るが故に不f瞋恚戒、ということではないでしょうか。憤怒という情は時が薄めてくれますが、瞋恚という恨妬は時がアンプリファィして不快極まりないですから。
「愚かさという緑なす谷間」という文彩には、「賢さという禿山」という〈辛い文則〉の方が相応しい気が。因みに、〈文則〉という名が、支那宋の修辞書の名として用いられているというエピソードは、佐藤信夫老師の絶筆となった『レトリック消息』で出逢いました。守先生との再会再別の頃に生徒への送別の詞として、次なるL・w警句を贈った三十八歳の機でした。覚えてはいないですよね。
道く、「怖気ではなく怖気の克服が賞賛に値し、人生に生甲斐をもたらす。器用さではなく、ましてた霊感などでもなく、勇気こそが辛子種であり、成長して大きな樹になる。」、と。その樹が、「有用有材なる栢樹即松柏」であるか「無用不材なる白楊ギンドロ」であるかは、世俗の価値から自在自由・融通無礙なれば、理事無礙なるもをかし、と。
「ビー アンビシャス!」に、「ライク ジス オールドマン」と続けるのか、「ライク ザット ヤングマン」と続けるのかで、〈アンビション〉の内容の分別(ふんべつ)も。「護美の分別」を行う訳ではないのですから、〈老いぼれのアンビション〉の〈クウォリティ〉と〈クウォンティティ〉の識別ぐらいはつけて欲しいものです。畢竟するに、唯一性と数多性とのどちらを一大事と観るかのヴァリュー問題な訳ですから、理屈では折り合いがつかないのは已むを得ず、というのは致し方なしなんですね。で、〈老いぼれのアンビギュアスなアンビション〉、これからも「契りと化す」、お願い戴ければこの上なく仕合せと存じます。再会ならぬ参会は、そうある〈因縁性起いんねんしょうき・縁起〉ではない筈ですから。人世人生には「不快な腐れ縁」というのもありますが、「御縁を一大事と作す」は、「人惑を受けることなく、随処作主なれば、立処皆真。」(『臨済録』)ということで。薩摩出身で西郷南洲の部下だったという噂のあった白堊校の初代校長蒲池弥太郎が太田達人や佐藤北江、藤根吉春や横川省三たちに贈った〈不羈奔放〉の四文字を大切だと切なく思量するというのなら。因みに、薩摩と南部とは、江戸期末まで生き延びた源頼朝友加里所縁の二つだけの源朝臣だったという歴史のアイロニー、皮肉とではなく仮対法と読み遊んで、「紫苑の志に遊ぶ」というのも。「コールサック(石炭袋)の彼方」を、〈ブラックホール〉や〈ダークマター〉や〈ダークエネルギー〉の奔流と作す〈レトリカル世界〉として楽しむには、〈科学〉と〈藝術〉と〈哲学〉と〈宗教〉との〈間の因縁関係性〉を、対立背反的な関係性とではなく、相補相依協働的な関係性と観て遊戯遊楽できる身心境位に至りたいものだ、と。
またまた、釈迦に説法、越智東風にして糸瓜先生風流なる道取、失礼仕り候。これにて蒙御免下さい。
仙台行お疲れ様でした。とはいえ、息子さんとお嬢さんはお父さんの血を受け継いで大活躍なのですから、〝おやじ〟は頑張りましょう。そしてこれからも。
さて、今回のコメントは前回にも増して「辛ワールド」が炸裂していて、浅学菲才の私はその目眩く世界にわからぬままながらうっとりしました。ちょっと贅沢をした気分です。
また近々、「辛ワールド」のコメントをお願いします。ただしその際には、私のためにあえて格調を下げたものにして下さい。
なお、「送別の詞」については済みません覚えていませんでした。