みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

鈴木守著 新刊等ご案内

2013-11-01 14:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》

(Ⅰ)新刊『羅須地人協会の終焉-その真実-』

【内容見本】


***********************


(Ⅱ)既刊『羅須地人協会の真実-賢治昭和二年の上京』

(Ⅲ)既刊『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて』

―以上      


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16 コメント

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前回のツヅキです (辛文則)
2013-11-01 18:04:23
  小生、どうやら、投稿の段取りが呑み込めていないようです。何字ぐらいまで可能なのでしょうか。とりあえず、前回のツヅキ書きます。例の件に関わるモッテマワッタイイマワシかは不要ですね。
  で、小生の妄想では、『宗教風の恋』『風景とオルゴール』『風の偏倚』『昴』の四作に付された「1923,9,16という〈日付のコトバ〉」に引っ掛かってシマッタのでした。関東大地震の十五日後の東京でない何が?、「剽悍な刺客に暗殺されてもいいのです」という宣言が冗句ではなく「賢治の真面目(しんめんもく)」だったりしたなら、……。大正デモクラットに通じるリベラル原敬への大正十年十一月へのテロルを賢治はどう受け止めて居たのか…?、と。田中智学との間の因縁とも絡んで悩ましいのですが、佐藤昌介や新渡戸稲造や内村鑑三そして斉藤宗次郎との思想的連関性を妄想すると。幸徳秋水抹殺と大杉栄抹殺と原敬テロルという現象を同一線上に心象化せずにはいられない、となると。
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格調が高いのでお電話します (鈴木 守)
2013-11-01 18:26:40
辛 文則 様
 お晩でございます。
 お世話になっております。
 ところで、今回の辛さんからの「前回のツヅキ」ですが、格調が高過ぎて私には難しすぎますので、後程お電話をいたしますから、いろいろと教えてください。
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ツヅキその2 (辛文則)
2013-11-01 19:52:02
  で、昭和2年に戻ると。「何故に1927年時点での盛岡中学校生徒諸君に寄せる』の盛岡中学校校友会雑誌第38号への寄稿は断念されたのか?」という懐疑へ。同作を、前年の『盗まれた白菜の根へ』、同年の『サキノハカという黒い花と一緒に』、『春の雲に関するあいまいなる議論』、『県技師の雲に関するステートメント』、『藤根禁酒会に贈る』、『何をやっても間に合わない』などに端的に噴出している賢治の〈憤り〉や如何、と。
  因みに、リベラリスト平井直衛のクビキリに先立って、昭和2年10月に岩手中校長の鈴木卓苗、農学校校長藤根吉春と共に、新渡戸稲造を盛岡での講演に招いた春日重泰には12月に佐賀県への追放人事が。校友会雑誌第38号の発行はその半月後。森佐一が盛中生だった頃から反春日派に扇動された対春日ストライキが続き、森は生徒ストに参加しない極少数派でしたが、その辺の顛末については口を閉ざして逝きました。因みに、その長男で精神科医の森荘介氏は『白堊校百年史』の編集委員で大正期通史を担当しました。平井のクビと、竣介の退学から8年後、原敬日記をまとめることになる原圭一郎と野村胡堂の経済的支援を受けて、竣介はリベラルエッセイ誌雑記帳を出し、昭和16年4月に『生きている画家』が書かれた、と。後は、電話でお話した有耶無耶があって…。アブナイ伝記話はフィクションにした方が無難ですしょうから、入沢先生が仰っているように、主体的、間主観的な〈道得・テクスト〉解釈問題に留まっているのが宜しかろうか、などとも。「非戦不拘勝負」なる立処を己が随処作主と為すが「他ノ皆ニ木偶之坊ト誹謗中傷サレル者ニ私ハナリタイ」という心意気なのか不識などとも。尤も、小欲か大欲かは定かではないですが、未だ〈知己足欲〉は残っているようなので。
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先程は有り難うございました (鈴木 守)
2013-11-01 21:38:35
辛 文則 様
 先程はいろいろ教えていただき大変有り難うございました。
 また、長電話になってしまって申し訳ございませんでした。
 さて、その際の辛さんのお話は、まるで空翔る鳳の如く総てを俯瞰した上で迸り出てくるものでしたから、私はただただ圧倒されるばかりでした。
 実は、私の大きな悩みの一つに、賢治が書いたものがどれくらい彼の営為に還元できるのだろうかということがあります。そのせいか、この頃の私は賢治の書いたものは措いておくきらいがあり、いわば芋虫のように地べたをはいずりまわりながら賢治のことを知ろうとしています。
 しかし先程のお話を聴きながら、たまには鳥の眼になって、賢治の書いたものを地べたに投影させることもたまにはしなければならないのだ、と感じました。
 近いうちに、松本の例の作品を見てみたいと思っておりますので盛岡に行くかもしれません。その際は、空の飛び方を是非教えてください。
 それでは、夜寒の候、どうぞご自愛下さい。
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賢治はそれをいつ知ったか (辛文則様へ(鈴木守))
2013-11-03 07:03:08
辛 文則 様
 過日はいろいろなことを教えていただきまして有り難うございました。
 さて、今朝布団の中でうつらうつらしていたとき、以前辛さんからのコメントの中にあった
  “「1923,9,16という〈日付のコトバ〉」に引っ掛かってシマッタのでした。”
に関してある気になることをふと思い出しましたので、関係ないことかもしれませんがとりあえずコメントしております。
 
 それは、1923,9,16時点で賢治は大杉栄、伊藤野枝、橘宗一が虐殺されたことを知っていたかということです。
Ⅰ これに関しての新聞報道は
◇同9月21日の報道
 ・関東戒厳令司令官福田雅太郎本職罷免。
 ・甘粕正彦大尉、9月16日職務執行の際に違反行為があったので9月20日軍法会議に附された。
ということのようですし、
◇同9月24日の報道
 ・甘粕大尉は、大杉等3人を殺害した。
ということらしい。
Ⅱ 一方、立野信之著『黒い花』によれば、大杉等が9月16日の午後二時頃行方不明になったことは、村木源次郎や和田久太郎らの同志間では知れわたっていた。

 となれば、アナーキスト大杉等が惨殺されたことを賢治はいつ知ったかとなると
(1) 後に新聞報道によって知った。
(2) 賢治は隠語としての「黒い花」の意味を知っていた可能性がかなり高いくらいだから、賢治はアナーキスト等との繋がりがかなりあり、早い時点でこのことをアナーキストの誰かから知らされていた。

ということが考えられと思いますが、この3人が行方不明になったのが同日午後2時であれば、賢治がこのことを知り得たのは少なくともこの日ではなく、この日以降であった可能性の方がかなり高いと私は直感したのですが、さてはたして真相はどうだったのでしょうか。
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日付のコトバをどう読むか (辛文則)
2013-11-03 15:22:38
  先程はお電話ありがとうございました。
電話でお知らせ戴いたことにはついては、「むしろ矢張り」の感の方が。しかし、コメントの方には、〈想定外〉のことがかかf書かれていたのでした。立野信之の『黒い花』と『サキノハカという黒い花』との因縁関係性についてでした。
  で、先ず、「賢治作品における〈日付のコトバ〉」の意味解釈についてです。つまり、「賢治作に付された〈年月日〉は如何なる日付を示しているのか?」という問いに対する考え方についての両つの観方に関わる問題。その1は、作品制作日あるいは推敲完了日。その2は、作品のモティーフあるいはテーマの着想日。それが事件なら事件が起こった日。小生はその2を択って来ましたが、守先生は何方だったのでしょうか。
  その1を択ると、「賢治あるいは辻潤が事件を知ったのは何時か?」が要石になって、〈大正12年9月16日〉という日付は宙に浮いてしまう訳ですが、その2の観点を択ると、話は逆になり、「事件が起こった9月16日」こそが要石になりますよね。「宮澤トシが息を引き取った日の〈1922,11,27〉」が付されている『永訣の朝』『無声慟哭』『松の針』と翌〈1923,6,4〉が付されている『風林』と『白い鳥』をどう読むか、とも関わってきます。
  で、作品完成日は作者の私事ですがテーマ着想日は作品メッセージに直結するのでは、と。〈『無声慟哭』の章〉と〈『オホーツク挽歌』の章〉と〈『風景とオルゴールの章』〉との間の因縁性起という問題とも。
  で、これは、賢治の常軌を逸脱した推敲癖とも密接に絡みますね。御承知のように、賢治の推敲は、常道の意味での「作品完成に向けた推敲」というのではなく「永遠に未完成の完成なる創造不断としての推敲」という趣があります。つまり、年譜に作品日付を配置するのは便宜的措置にならざるを得ない、と。「永遠の未完成、これ完成である「」問題は、件のM台先生によるブルカニロ博士問題こも関連します。世に有名な〈猶太人の陰謀〉説を引っ張り出すまでもない事柄、と。
  で、この考えを進めると、「賢治は何故にかくまで推敲・書き直しにこだわったのか?」というプロブレマティークに行き着きます。「賢治はその都度の霊感的感性の導きによって詩のコトバを紡いだのだ」といった見解がその立処を失うことに。〈賢治のコトバ世界〉を、「メッセージ解釈がナンセンスな音楽的抒情あるのみ」と捉えるのか、叙事的、思想的メッセージも含む、きわめてレトリカルな譬喩世界なのだ、と。それは、『ナムサッダルマフンダリーカスートラ』を文彩物語として読み込むか、「ナンミョーホーレンゲーキョー」という呪文を唱えるだけでよいのか、という問いにも関わります、よね。
    
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ツヅキ その1 (辛文則)
2013-11-03 15:52:12
  この問題設定に関わる思量は、以下延々と続いて仕舞うのでひと間づ一先ず切り上げて、最初の案件に戻ります。
  小生には、『黒い花』なるアナーキズム関係の書への知は全く欠けていました。大杉栄、幸徳秋水、北一輝がかっての同志であり、幸徳秋水抹殺の時に、大杉も殺されずに済んだのは獄につながれていたから、とか、北が幸徳事件で逮捕された人々の中で雄いつ唯一釈放され、田中智学や甘粕正彦や石原莞爾らと関わりを持ちながら生き延び、遂に2・26でヤラレテシマッタ、というナリユキは知っていたのですが。
  因みに、〈心象スケッチ『春と修羅』〉を、ニーチェの『ゾロアスターは斯く語り給う』に擬えて激賞した辻潤が、伊藤野枝の前夫で、橘宗一が、野枝と辻の間にできた〈辻一(まこと)、警句戯画榎家.エッセイスト.)と気遣われたエピソードは、……。という次第で、辻の激賞の裏には〈9・16〉があったのではというのが小生の妄想の裏にも。尾形亀之介にさえ。なにしろ、幸徳秋水事件と大杉事件は、アナルコサンディカリストやコミュニストのみならず、リベラルな言論表現者たちの本音本位を黙らせてしまった〈圧倒的権威主義軸〉だったのですから。〈文切り形の言語動作〉でリベラルな言語ゲームに遊んだならヤラレル、と。形式論理のロジックほどアブナイコトバはないのだと。「誰にでも誤解誤読なく通じる言語表現」が意義を持つ世界は〈学会〉に際え存在しないのでは…?ギョイイイ…、ギョエー!」、まあ、〈学会のコトバ〉や〈芸術団体のコトバ〉のフンダリーカケッタリーカは東西古今、神代の昔から延々と。
  
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言われてはっとしました (鈴木 守)
2013-11-03 16:09:48
辛 文則 様
 いつも有り難うございます。

 そうですよね。
 「その2」のことを全く考えてもいなかった私は、辛さんから指摘されてはっとしました。そして、自分の読みの浅さに改めて気付きました。

 一方の、「立野信之の『黒い花』と『サキノハカという黒い花』との因縁関係性」につきましては、私から見れば同じものである可能性が高い、という程度のものでしかありません。どうも、詰め切れていません。

 これからも、またいろいろと教えてください。

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ツヅキその2 (辛文則)
2013-11-03 16:51:15
  やっぱり、「殺れるのはコワイ」のですから、〈テロルの論理〉はいうまでもなく権力の秘密の論理〉に対けても、……。で、〈吾輩猫〉や〈天道公平〉や〈神経衰弱兼狂人〉やら〈霊魂病者〉の〈声〉に耳を澄ま作なければならないのは、精神科医ばかりではなく藝術家や哲学者、だけではなくその研究者や愛好者までも。スキゾフレニアもメランコリアもヒッポコンデリアやエピレプシィなどなど、ゲーテやカーライルやヴォルフガング君やベトにまとわりついているのは過去のオハナシではない筈です、よね。なにしろ、〈コトバ狩り〉が大好きなのは、先ず以て、〈百姓(ひゃくせい)衆生〉なんですから。「〈百姓昭明、万邦協和〉二年の赫い火」への〈青い照明〉を中てるためには、よっぽどの〈見性自覚なる覚悟〉が索められるのでは、と。田中館愛橘や原敬や稲造から春日重泰や鈴木卓苗や太田達人や藤根吉春や米内光政や野村胡堂や平井直衛や松本竣介や舟越保武へと受け継がれてきた地下水脈としての、「不思量底を思量するは非思量なる言語同断」というが如きメッセージや如何、と。「風来る,山鳴らしあるいは箱楊.白楊あるいは庭前の柏樹子なる檜。いざ生き目めやも」、などと。大正生命主義を裏から支えていた、松柏類に托したる賢治阿修羅のコトバとは。インドラ帝釈天に闘いを挑み続ける〈非天生命アスラアフ〉の心意気なるや尋常ではなかるべし、などと。
  おっと、格調が拡張し過ぎて、……。1922.11.27から三作、1923,9.16から4作鈴木卓内先生が登場する『地蔵堂の五本の巨杉は』の先駆形や、……。〈ドラモンド光〉と〈翁草の冠毛燈〉との間の蒟蒻問答と思しい『柏林の散歩』の推敲変化たるや。『青森挽歌』に始まる『銀河鉄道の夜』での、ヨハネジョバンニとカンパネルラの鐘の声を聞け、などと。声聞から縁覚を経て菩薩に至り、而して〈善逝・スガタ・如来〉に至るとは行かないのが『昴』からの玉響。『何をやっても間にあわないっか『』という悲痛も、〈而今(いまでしょl〉という「玉響閃く」ならば、「元南部藩士、那珂通世から甥藤村操に向けた痛恨の挽歌」が繰り返されることは、……。「噫乎、人間的な、あまりにも人間的な」という嘆きのコトバを超えて行くのはんかなかに。吾はモナド(単独者)なるか。友ヒドリなく、同志ヒデリでいなくなってシマッタか。百姓(ひゃくせい)が希望を託した北の大地に作物など生える訳はないのだ。ロスケを防ぐ防波堤使えない土地であることを気候学や土壌学や地勢学を熟知していた漢なら。莞爾や征四郎や正彦を称える前に、地理学や気候学をオベンキョウすべきでしょ、と。
  
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ツヅキその3 (辛文則)
2013-11-03 17:45:02
熱くなって書くき推敲を怠るとワープロミス頻出してしまいます。推敲の楽しみと悲しみ、これもまた。「見つけてみて、初めて、自分が何を探していたのかを識る。」とは、互いに相反しあうかのような〈論理哲学〉と〈言語ゲームの哲学〉との間の因縁関係性を相補協働底(ち)にとらえていた自死念慮者の呟きです。L・Wにとっては、〈幸福〉とは、「生きる意志」であって、それこそが〈美〉なのだと。一方、〈不幸〉とは、「生きる意志の棄却」言語」なのだと。希望と絶望との対なる〈言語ゲーム(作用と反作用の力学)〉で〈幸福〉や〈美〉や〈人間(じんかん)〉を考えていたのでは、いつまで経っても、修羅場は消えない因縁で。とはいえ、「人間という現象は〈ゲームの論理〉を楽しまずにはいられない」、と。で、「ナミアミダブ、ナンミョーホーホッケキョー…、あれがホントウの歌です」、なんてね。那美さんも辛だったんですね。庚と辛との因縁も辯なる辭にて新親なんです。庚金之助さんのトラウマに癇癪発作の芽を探るや如何、H様……。ベイトソンと羅漢を出発点にした環君とたまみ君と空海を考え直してみたい朱理君との間の禅問答などにも。〈コトバ〉という「難有々々々宙宇」に思い惑い始めると「吾、四十而愈々迷惑」という身心境位に。〈匿名のコトバ〉に〈信〉を委ねるのは自業自得。「輝く目と目を対けあってタタカイしかもワラウのだ」と誰かさんも願ってました。「シズカニワラッテイル」とは言っても、〈啖う〉とか〈嗤う〉では。「顔色のコトバを画に画けるようになりたい」というアンビションを懐くと、「他人を馬鹿にする微笑(yウスワライ)」と「共感のびしゃお微笑(ホホエミ)」とを的確に描き分け得なくては。その間の形態的微細な差異を分析的に意識化し形象化するのが画工の仕事。骨の構造と動きのベンキョウが必須なことはレオナルド先生以前からの常識でした。〈音楽のコトバ〈〉だって同じ。バッハの仕事がなければ、聴覚を失ったベトちゃんに『大フーガ』や『カヴァティーナ』や『カンツォネッタ』は書けませんし、ヴォルフガングを科学者と呼ぶ視点も。偶然性に頼っては決して達成できない補色対比効果の活用を他ならないゴッホが多用した因縁を解き明かす為には…、などなど、賢治現象理会に周縁する思量課題は広大なのだ、と。と、まあ、御免下さい。H氏や「シーニュとシニフィアンとシニフェの間の三角関係」と「シグナルとシグナレルスとの間の因縁」などなど、「吾、不識。」なれども。
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