《『批評空間 Ⅱ 14』(太田出版)の表紙》
村井氏はこんなこを言った。
…投稿者略…賢治の場合それがない。だから甘ったるいマイナーな解釈がじゃんじゃん出てしまう。それがみんな「わが内なる賢治」ですよ。
〈『批評空間 Ⅱ 14』(太田出版)25p〉私は、うむっ「わが内なる賢治」? どんな意味だろう、と思ったのだが、取り敢えず、これに続く関井氏の次の発言を読み進む。
賢治にかんする雑誌や単行本を出しているマイナーな出版社に「×××××(投稿者伏せ字化。以下も同様)出版」というのがある。ここで出しているものは、村井さんが指摘したようなものばかりです。このようなものが生まれて来る先鞭をつけたのは、「賢治の○○」やHH氏の言説だと思う。
〈同〉そこで私は、そういえば、「×××××出版」の雑誌に載っていた賢治関連の論考をかつて読んだ際に、スピリチュアルなものが少なくなかったからどうも客観性に欠けていのではなかろかと思ったことがあったので、そっか、そのようなものも「わが内なる賢治」について論じている一例か、と解釈した。あるいはまた、HH氏の著書『宮沢賢治の△△△△ 』は著者の想像を論じたものであり、実証されたものではなかったと記憶していたので、これも言われてみれば、たしかに「わが内なる賢治」と言えそうだ。おそらく、そんな意味だな「わが内なる賢治」とは、と私はその大体のイメージができた。
そして関井氏は、さらに次のように論を進めていた。
最近はそれが宮澤賢治学会にまで及んでいる。そして「わが内なる賢治」の領土戦争みたいなことをやっている。この学会には三つの説があって、この三つの領域以外のことを書くことはできないというんです。これは抑圧ですよ。学会が権力装置になっているんですから。
〈同〉私はこの発言を知って、巷ではそう言っている人もたしかにいたぞ、ということを思い出しながら、「領土戦争みたいなこと」という譬えが上手いなと感心もした。そして、そこには具体的に書かれていなかったので、この「三つの説」がそれぞれどんなものか知りたいものだ。
なお、このような実態がその当時(1996年)同学会に仮にあったとしても、もちろんそこは「宮澤賢治学会」なのだから、少なくともそれはその後改善され、今は完全に解消されているだろうが。
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