みちのくの山野草

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昭和7年1月29日付高橋久之丞宛書簡

2021-02-25 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
〈『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)〉

 さて、前回
 そしてこの〔402〕の1週間後に出した同じく高橋久之丞宛の書簡からは、賢治の大きな心境の変化が読み取れるというのだが、それは次回へ。
と前触れした書簡とは〔404〕のことであり、次のようなことが書かれている。
〔404〕 昭和七年二月五日 高橋久之丞あて 封書
再啓 貴意を参照、左の如く産出仕候
厩肥       弐百貫
硫安       弐貫
魚粕       参貫五百
大豆粕      拾貫
強過燐酸     四貫五百
骨粉(蒸)    弐貫
炭酸石灰(二粍) 七貫五百(半俵)
赤渋の処は硫安の代りにアムモホス弐貫とし過燐酸を参貫とす。
次に昨年の燐酸アルミナは明に効果あり候 それはあの天候にて三石、四等米七分といふことは緩効の燐酸の作用甚大と看做さざるべからず候。
但し右は連用を忌み候間本年は骨粉と致し候、硫酸加里は石灰を厩肥に働かせる事と致し御希望通り除き候。
赤渋地にて燐酸を全廃、石灰代用は不可と存候。赤渋地にはアムモホス最もよく候へ共、単用も又気候に仍ては危険有之候間前記の如く致し置候。
本年の天候略々昨年の型にて、あれよりは暖くと仮想致し置候。
藤助様等厩肥量及米質不明にて一寸設計に困り候へ共一応送り申上べく候。

二伸 御照会の炭酸石灰価格の件、工場と数回打合せ候為、御返事も遅れ候処工場の申し分にては、米価も上り工賃も値上を要し(今まで一人一日五十銭)他肥料も一般に三割高なれば、工場製品も十貫に付五銭(叺も三銭高)の高価に非れば本年は間に合はずとの事に候。即ち右にては当地は十五貫一俵に付七銭五厘高の六拾銭内外と相成る次第に御座候。(一車以上の値段)
然れども当地には作冬の製品三車ばかり有之候間右ある間昨年通り
花巻倉庫渡し十五貫一俵(一車値段) 五拾弐銭五厘
に願ひ上候。小売は盛岡、花巻、水沢、一ノ関みな七十五銭乃至八十銭に御座候
貴下御口添の分何俵にても右一車価格にて差上申すべく候。何分ぎりぎりの価格に候間折角御奔走御取纏め被下候も更に割引といふ事は六ヶ敷く何卒御用の分丈け御無理なきやう御世話下さらば幸甚に御座候。
実は工場との関係甚うるさく私も今春きりにて経済関係は断つ積りに有之、当地にて多く売れたりとも少しも私の得にならず候間決して御無理無之様重ねて願上候。
              <共に『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡本文篇』(筑摩書房)>
 ここで私がまず目を引かれたのは、「炭酸石灰(二粍) 七貫五百(半俵)」という記述であり、それは、賢治は個人農家に対してこの時期でも炭酸石灰の施用を奨めていたことが確認できたからである。そして次が、「然れども当地には作冬の製品三車ばかり有之候」という記述にであった。それは、東北砕石工場花巻営業所としては前年「製品三車ばかり」を売り残していたということになりそうだからである。ちなみに、「一車」は10㌧だというから、30㌧の売れ残りがあったということになる。どうやら、炭酸石灰は入荷すれば直ぐに捌けるというような代物ではなかったようだ。

 それから、〔402〕と〔404〕の間の〔403〕も、高橋久之丞宛の書簡であり、
〔402〕 昭和七年一月二十九日 高橋久之丞あて 封書
〔403〕〔昭和七年二月初め〕高橋久之丞あて 封書
〔404〕 昭和七年二月五日 高橋久之丞あて 封書
ということになるから、賢治は病身を押して高橋久之丞に肥料設計の指導をしていることが窺えて、賢治の熱心さに私は感心させられる。
 なお、賢治はこの高橋に対しては上掲書簡以外にも以下の4通の書簡も出していていたという。
〔〔450〕 昭和八年二月四日 葉書
〔451〕 昭和八年〔二月四日〕 封書
〔452〕 昭和八年二月九日 封書
〔455〕 昭和八年二月十九日 封書
              <『新校本宮澤賢治全集第十五巻 書簡本文篇』(筑摩書房)>
 したがって、これらのことからは、賢治は高橋に対しては懇切丁寧に指導していたし、高橋は賢治の肥料設計等に素直に従っていたと言えるだろう。

 少し話が横道にそれてしまった。元に戻そう。そもそも、「高橋久之丞宛の書簡からは、賢治の大きな心境の変化が読み取れるというのだが」が懸案事項だったのだから、このことを以下に少し述べてみたい。といっても、それは私の考えなどではなくて伊藤良治氏の見方であり、同氏は書簡〔404〕から賢治の心境の変が読み取れるということで、以下のように論じていた。
 昭和七年二月五日付け高橋久之丞宛賢治書簡で、東山町側にすればショッキングな内容が書き送られている。

「実は工場との関係甚だうるさく私も今春きりにて経済関係は断つ積りに有之、当地にて多く売れたりとも少しも私の得にならず候間決して御無理無之様重ねて願上候。」と。

 高橋久之丞は湯本村在住の方で、賢治の羅須地人協会時代に農事講習を受けて以来、肥料設計の指導を受けたり、賢治が扱う炭酸石灰の斡旋販売をしたりする間柄にあった。その高橋宛ての書簡に、賢治と東北砕石工場の関係変化示す内容がこのように書かれている。これをどう読みとれば良いのだろか。…投稿者略…社運挽回は賢治、東蔵共々乗り越えなければならない緊急課題だったのだ。
 それなら何故「経済関係を絶つ」と賢治が書いたのだろうか。そのわけを私は、気力の衰え、家族への遠慮によるものと憶測している。
             〈『宮澤賢治と東北砕石工場の人びと』(伊藤良治著、国文社)188p~〉
 最初私は、「ショッキングな内容」とあるが、なぜそれほどまでに「東山町側」、いわば東蔵にとって「ショッキングな内容」となるのか、あまりよく解らなかった。が、考えてみれば、「経済関係を絶つ」と賢治は意思表示したわけだから、当たり前か。東蔵は今まであれやこれやと賢治及び政次郎から援助を受けていたわけだから、それを東蔵が知ったならばたしかにショックであろう。また、なぜ賢治がそうしたのかという理由の一つとして、伊藤氏が「気力の衰え」と憶測するのは宜なるかなと思ってしまう。それは、あの昭和3年6月の上京後の帰花直後の賢治の「しばらくぼんやりして居りました」<*1>を思い出すと、それによく似た状況にあった私には思えたからだ。

<*1:投稿者註> 帰花後の賢治は伊藤七雄あて書簡(240)の下書(一)の中で、
 こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。
              <『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)>

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