みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

次第に受動的な姿勢に変化していった

2021-02-26 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)〉

 前回、「二 帰花後の賢治と工場の関わり」において伊藤良治氏は、
 昭和七年二月五日付け高橋久之丞宛賢治書簡で、東山町側にすればショッキングな内容が書き送られている。
「実は工場との関係甚だうるさく私も今春きりにて経済関係は断つ積りに有之、当地にて多く売れたりとも少しも私の得にならず候間決して御無理無之様重ねて願上候。」と。
と述べていたことを紹介したが、このことを受けて、同氏はこう続けていた。
 それ以後、賢治は東北砕石工場との関係に変化が見られたか。宮澤家の工場に対する方針変更による変化と見られる動きが、賢治書簡の文体をとおして見えてくる。積極的、共同経営者的だった賢治が、受動的な受け答え姿勢に移り変わっていくという変化である。病床から立ち上がることも出来ないままの賢治だったからと言えないでもない。その変化がうかがえる賢治書簡若干をあげてみよう。
・七年三月一三日
 「先方へ価格御通告奉願候」
・同年三月二十日前後
 「新価格及び運賃による花巻レール渡し十頓の表記価格……至急手紙にて御一報奉願候」
 …投稿者略…
・八年三月一五日
 「昭和六年よりの計算書、近日中に御送付致し、右受取等整理致し度存居候」
・同年三月二〇日
 「誠にお気の毒乍ら今回は貴意に副ひ兼ね候間、証券同封御返送申上候儀、何卒不悪御諒察奉願候」
・同年三月二七日
 「何卒この度は横屋の方にても御工夫願上度由再度迄貴意に副ひ兼ね甚小生も面目無之候」
・同年八月四日
 「尚御詞の残金の儀大体計算致置候へ共、行違ひ有之てはお互不快に有之候間、一度全部引合せの上決算致存居候」
             〈『宮澤賢治と東北砕石工場の人びと』(伊藤良治著、国文社)192p〉
というようにである。
 そこで私は、特に「同年三月二〇日」以降の書簡内容を知ってなるほどそういうことか、と伊藤氏の「受動的な受け答え姿勢に移り変わっていくという」という指摘に納得した。それはもちろん、まさに同氏が挙げた理由「病床から立ち上がることも出来ないままの賢治だったから」のとおりであったであろうと。

 そう納得しかけた時に思い出した。それは、昭和10年代の露の教え子である、菊池忠一郎氏から教わったあのこと、つまり、
 (同氏の) 妹に露先生の次女が、
    母が、『賢治さんが遠野の私の所に訪ねて来たことがある』と言っていた。
ということを話したことがある。
ということを教えてもらった(平成26年7月14日)ことをである。
 そしてこのことを受けて私は荒木や吉田と次のように話し合ったことがあったことも、またである。
吉田 じゃじゃじゃ、凄いじゃないか。なんと、遠野に嫁いだ露を賢治がわざわざ訪ねていたいうのか。確かにこれは初耳だ。ところでこの遠野訪問時期だけど、それは何年のことだと言ってた?
鈴木 それははっきりは判らないと言っていた。とはいっても、露が遠野に嫁いで行ったのは昭和7年の春で、賢治が亡くなったのが昭和8年9月だから、少なくともそれは昭和7年か8年かのどちらかの年となるだろ。そして、どちらかといえば昭和7年だろう。「賢治年譜」等からは、昭和7年であれば賢治は多少は外に出かけられたようだが、昭和8年はほぼそうとは言えなさそうだからな。
荒木 いやそうであったとするならば、「どちらかといえば」ではなくて、ほぼ間違いなく昭和7年だべ。
鈴木 なんでまた?
荒木 だって、さっき引用した関登久也の追想「面影」の中に、「亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました」とあったじゃないか。となれば、「昭和7年であれば賢治は多少は外に出かけられたようだ」ではなくて、同年のある時、賢治は「病氣がひとまづ良くなつて」実際関の家に「一應の了解を求めに來た」と関がそう証言していることになるのだから、「昭和7年であれば賢治は多少は外に出かけられた時期もあった」ということだべ。
鈴木 あっそうだよな、一本取られた。確かに荒木の言うとおりで、
  「賢治が遠野の露に会いに来ていた」という意味の露本人の証言があり、それはほぼ昭和7年のことであった。
ということか。
 そしてまた、次のように話し合った
鈴木 念のため、当該個所をもう一度見てみよう。昭和7年6月の出来事の一つとして、このようなことがそこには述べられている。
 二二日 中舘武左衛門(盛岡中学の先輩で、自称「行者」)宛返書。賢治の病気の原因が、父母に背いたことや女性との関係にあるというような内容の手紙がきたらしい。「大宗教」の教祖、中舘に対して、言葉は丁寧だが厳然たる調子<*1>で反発している。
              <『年表作家読本 宮沢賢治』(山内修編著、河出書房新社) 197pより>
荒木 そうそう思い出した。ここには露の名は出てこないが、その頁の下段のところに註釈があってそこに露の名が出ていたはずだ。どれどれ、やはり
 一時噂のあった高瀬露との関係についても「終始普通の訪客として遇したるのみ」と一蹴している。普通こうした中傷めいたことは、一笑に付して黙殺するはずだが、わざわざ反論しているのは、妹の死・父母への反抗・高瀬との関係、それぞれが、賢治の心の傷だったからかも知れない。
              <『年表作家読本 宮沢賢治』197pより>
となっている。
こともだ。
 さてこうなると、「病床から立ち上がることも出来ないままの賢治だった」という期間はいつまでだったのだろうか、ということを次回少し考察し直さねばならないようだ。かつて、私は「 「賢治が遠野の露に会いに来ていた」という意味の露本人の証言があり、それはほぼ昭和7年のことであった」と判断したわけだが、この「昭和7年」の自信と根拠がちょっとぐらついてきたからだ。

 いずれ、東北砕石工場との関係については、賢治の方は次第に受動的な姿勢に変化していったと言えそうだし、賢治に残された日々はもはやあと僅かになってしまった。

<*1:投稿者註> ちなみにこの手紙とは、昭和7年6月22日付中舘宛書簡下書〔422a〕のことであり、
  中舘武左衛門様                          宮沢賢治拝
     風邪臥床中鉛筆書き被下御免度候
拝復 御親切なる御手紙を賜り難有御礼申上候 承れば尊台此の度既成宗教の垢を抜きて一丸としたる大宗教御啓発の趣御本懐斯事と存じ候 但し昨年満州事変以来東北地方殊に青森県より宮城県に亘りて憑霊現象に属すると思はるゝ新迷信宗教の名を以て旗を挙げたるもの枚挙に暇なき由佐々木喜善氏より承はり此等と混同せらるゝ様有之ては甚御不本意と存候儘何分の慎重なる御用意を切に奉仰候。
 次に小生儀前年御目にかゝりし夏、気管支炎より肺炎肋膜炎を患ひ花巻の実家に運ばれ、九死に一生を得て一昨年より昨年は漸く恢復、一肥料工場の嘱託として病後を働き居り候処昨秋再び病み今春癒え尚加養中に御座候。小生の病悩は肉体的に遺伝になき労働をなしたることにもより候へども矢張亡妹同様内容弱きに御座候。諸方の神託等によれば先祖の意志と正反対のことをなし、父母に弓引きたる為との事尤も存じ候。然れども再び健康を得ば父母の許しのもとに家を離れたくと存じ居り候。
 尚御心配の何か小生身辺の事別に心当たりも無之、若しや旧名高瀬女史の件なれば、神明御照覧、私の方は終始普通の訪客として遇したるのみに有之、御安神願奉度、却つて新宗教の開祖たる尊台をして聞き込みたることありなどの俗語を為さしめたるをうらむ次第に御座候。この語は岡つ引きの用ふる言葉に御座候。呵々。妄言多謝。  敬具
              <『新校本全集第十五巻 書簡本文篇』(筑摩書房)407p~>
という内容である。たしかに賢治の文体は慇懃であり、「言葉は丁寧だが」、その中身は私には「厳然たる調子」とは見えず、逆に、〔聖女のさましちかづけるもの〕におけるあの「憤怒」の賢治を彷彿とさせられてしまう。
 そう、佐藤勝治が追想「賢治二題」の中で、
 彼が書き遺したものの中で、誰にもふしぎな感を与えるのは次の文である。
   聖女のさましてちかづけるもの
   たくらみすべてならずとて
   いまわが像に釘うつとも
   乞いて弟子の礼とれる
   いま名の故に足をもて
   われに土をば送るとも
   わがとり来しは
   ただひとすぢのみちなれや
 「雨ニモマケズ」の書かれた十一月三日の十日前、十月廿四日の手記である。『決シテ瞋ラズ、イツモシヅカニワラツテ』いたいと祈る十日前に、彼はこのように瞋り、うらんでいる。さればこそ、彼は痛切に瞋るまいとしたのであろう。が、彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない。
 これがわれわれに奇異な感を与えるのである。
             <『四次元44』(宮沢賢治友の会)10p~>
と述べている、「このようななまなましい憤怒」を、である。

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