《『宮沢賢治 その理想社会への道程 改訂版』(上田哲著、明治書院)》
そして、上田は
賢治が入信間もなくの『天業民報』の大正十年一月一日付九十一号から同年十二月二十八日付第三百九十号まで、毎号の巻頭を大々的に飾って『日本国体の研究』という五篇二十五章百七十節に及ぶ国家主義的長編の論文が発表されている。
〈12p~〉と述べ、続けて、
「準備講述」の中で、「国体の根元は天祖の神勅より発す」と大提題をかかげ、これまでに自らなした国家主義的教説を要約再述した上で論を進めている。…(投稿者略)…『日本国体の研究』は国柱会の国家観の総集編とも言うべきものである。
このような国柱会をの性格を承知した上で、賢治は<今度私は/国柱会信行部に入会致しました。即ち、最早私の身命は/日蓮聖人の御物です。従って今や私は/田中智学先生の御命令の中に丈あるのです>と言い切り、<別冊勅教玄義に研究案内がありますからその順序におよりなさったらいゝかと思ひます差し当り一番緊要なのは天業民報でせう>と『天業民報』を奨めている。ちょうどそのころの『日本国体の研究』が大々的に連鎖されていたのである。そして智学の国体学の完成期でもあり頂点でもあった時代にあたるのである。
〈13p〉このような国柱会をの性格を承知した上で、賢治は<今度私は/国柱会信行部に入会致しました。即ち、最早私の身命は/日蓮聖人の御物です。従って今や私は/田中智学先生の御命令の中に丈あるのです>と言い切り、<別冊勅教玄義に研究案内がありますからその順序におよりなさったらいゝかと思ひます差し当り一番緊要なのは天業民報でせう>と『天業民報』を奨めている。ちょうどそのころの『日本国体の研究』が大々的に連鎖されていたのである。そして智学の国体学の完成期でもあり頂点でもあった時代にあたるのである。
と論を進めて、賢治が『天業民報』を友達にまで奨めている事実があり、しかもそれには国柱会の国家観の総集編とも言える『日本国体の研究』が連載されていたということだから、賢治が国柱会を深く信仰し、智学に心酔していたということは疑いの余地がなかろう。
ところで、『天業民報』には賢治に関連しては、
第八百六十八号 黎明行進歌
題八百八十二号 青い槍の穂
第九百三十四号 国難救護法宣揚同志結束義金報告
金拾円(救護)岩手 宮沢賢治殿
〈19p~〉題八百八十二号 青い槍の穂
第九百三十四号 国難救護法宣揚同志結束義金報告
金拾円(救護)岩手 宮沢賢治殿
という記事が載っているという。賢治の作品が『天業民報』に載っているということは、いつか何かで見た記憶があるが、初めて知ったのが最後の記事である。
そしてこの記事に関しては、上田によれば、「国難救護法宣揚同志結束義金」とは大正十二年九月一日の関東大震災の際に智学が先頭に立って信徒に呼びかけた支援カンパであり、賢治はこの時に10円もの結構高額の義捐金を送っていたことになる。実は今までは、賢治の詩「宗教風の恋」の中の連「東京の避難者たちは半分脳膜炎になつて/いまでもまいにち遁げて来るのに」が私の頭の中で引っ掛かっていて、賢治は関東大震災の際に救援等をしていないと思っていたし、どちらかという冷ややかだったと思い込んでいたのだが、そうとばかりも言えなさそうだ。
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