みちのくの山野草

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1 大正15年12月2日の「現定説」

2024-08-17 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)

第四章 「宮澤賢治年譜」の不思議
 ここでは少し視点を変え、「宮澤賢治年譜」という視点から考察してみたい。

1 大正15年12月2日の「現定説」
 先の〝1「新校本年譜」による検証〟において、既に『新校本年譜』による、
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に沢里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。………………♣
という「仮説♣」の検証は一通り終わっているが、ここではその中の大正15年12月2日の現定説に焦点を当ててもう少し考えてみたい。

 「現定説❎」による検証
 それはとりもなおさず、次の「現定説❎」に焦点を当てるということである。
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*65)。 ……………❎
 そしてこの註釈には次のようになことが書かれている。
*65 関『随聞』二一五頁をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされる年次を大正一五年のことと改めることになっている。
      <それぞれ「新校本年譜」(筑摩書房)325p、326p~より>
 当然この「現定説❎」に従えば「仮説♣」は危うい。霙の降る寒い日にチェロを持って上京する賢治をひとり沢里武治が見送った日として大正15年12月2日が既にあるとしたならば、その上にさらに同じようなことが、翌年の昭和2年11月の霙の日にまたもやあったということはまず99%ありえないからである。
 したがって、真相はおそらくそのいずれか一方だけが起こり、他の一方は起こっていなかったということであろう。つまり、私の立てた「仮説♣」が間違っているか、あるいは畏れ多いことではあるがこの「現定説❎」が間違っているかのいずれかであろう。
 しかし、私としては前章における検証の結果、「仮説♣」は思いの外検証に耐え得ることを知ったので。ここは逆に、不遜ながら「現定説❎」について少しく考察してみたい。

 註釈(*65)の意味
 まずは(*65)の註釈について少し調べてみたい。参考のために「旧校本年譜」の同日の記載内容と『新校本年譜』のそれとを比べてみる。すると、註釈(*65)があるかないかの違いだけで他は基本的には違っていないことが分かる。ということは、この註釈は『新校本年譜』担当者(以降A氏とする)が付けた註釈であるということが明らかになる。
 そして次のことも言えそうだ、A氏は註釈(*65)において次のように言いたかったのであろうということが、である。
・まず、この「大正15年12月2日」の中身については「旧校本年譜」担当者(以降B氏とする)が何を典拠としていたかはA氏にはしかとわからぬが、それは関登久也著『賢治随聞』を元に要約したのであろうとA氏自身は推測している、と。
・そして、『この日付については、沢里は「昭和2年11月頃」と証言しているがそれは「大正15年12月2日」と改めることとすること』というB氏からの申し送り事項があったので、A氏はその指示に従ったまでだ、と。
 そこには以上のような経緯があるのだということを私個人は悟り、この註釈(*65)の仕方の意味が自分なりに解明出来た。そして、そうか、だからこそ「…ものと見られる」とか「…ことと改めることになっている」というもどかしい言い回しをしていたのだ、とここに至って私は初めて腑に落ちた。言い方を変えれば、『校本全集』は、石井洋二郎氏の鳴らすあの警鐘
   あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
とは無縁の世界なのだと。

 現通説「大正15年12月2日」の典拠
 さて、私はここではっきりしておきたいことがある、それは、この日のことを『新校本年譜』がこう書いている以上その典拠は沢里のあの証言以外にはない、ということをである。
 それは『新校本年譜』にある大正15年12月2日の記述についての註釈(*65)に、
   関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。
とあることからも自ずから明らかであろう。
 もちろんこの〝関『随聞』〟とは関登久也著『賢治随聞』のことであり、その「二一五頁」には次のようなことが書かれている。
○……昭和二年十一月ころだったと思います。当時先生は農学校の教職をしりぞき、根子村で農民の指導に全力を尽くし、ご自身としてもあらゆる学問の道に非常に精励されておられました。その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
 「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅までセロをもってお見送りしたのは私一人でした。駅の構内で寒い腰掛けの上に先生と二人並び、しばらく汽車を待っておりましたが、先生は「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」とせっかくそう申されたましたが、こんな寒い日、先生をここで見捨てて帰るということは私としてはどうしてもしのびなかった。また先生と音楽についてさまざまの話をしあうことは私としてはたいへん楽しいことでありました。滞京中の先生はそれはそれは私たちの想像以上の勉強をなさいました。最初のうちはほとんど弓をはじくこと、一本の糸をはじくとき二本の糸にかからぬよう、指は直角にもってゆく練習、そういうことにだけ日々を過ごされたということであります。そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
      <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215pより>

 よって、この「沢里武治氏聞書」の記述内容を見ても、『新校本年譜』がこの聞書をその典拠としていることは明らかである。なぜならば、『新校本年譜』の大正15年の12月2日については、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。……………❎
となっていて、この日の記載内容は皆この「沢里武治氏聞書」の中にあるからである。
 併せて、沢里の証言のどの部分が「現定説❎」では使われていないかも同様に明らかになる。例えば「少なくとも三か月は滞在する」や「そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました」などがそうである。これらのことは極めて重要なことであり、普通は絶対省略できな事柄であるはずなのに。
 そしてもう一つ見過ごせないことがある。それは他でもない、
   みぞれの降る寒い日、セロを持って上京して行く賢治をひとり花巻駅で見送ったのは昭和2年の11月頃であったと思う。
という意味のことを沢里は証言しているということである。あくまでもこの「見送った」日は昭和2年の11月頃だと沢里は言っているのである。そもそも、それは大正15年12月のことであったなどというようなことを沢里は一言も言っていないのである。
 言ったことが言っていないことになり、言っていないことが言ったことになっているという摩訶不思議な現象がここでは起こっている。ついてはその現象が起こっている理由や原因を、「旧校本年譜」の「大正15年12月2日」を編纂した担当者B氏は読者に是非明らかにしていただきたかった。
 まして、そのような思いは当事者の沢里にすればなおさらであったであろうが、おそらく担当者B氏から沢里は何も知らされていなかったであろう。そのことは例の岩手日報連載の『宮澤賢治物語(49)』の中の沢里の「どう考えても」という表現の仕方から直ぐに読み取れる。

 少なくとも三か月は滞在する
 さて、これで「現定説❎」の典拠は「沢里武治氏聞書」であることがはっきりしたので、この証言にあってなおかつ「現定説❎」からは抜け落ちている、賢治の言ったと思われる「少なくとも三か月は滞在する」の「三か月」に関連して少しく考察してみたい。
 まずは、この際の上京が大正15年12月2日であれば、それから約3ヶ月間の滞京が、定説となっている「現年譜」にはたして時間軸上で当て嵌るかということを調べてゆきたい。
 ではそのために、「新校本年譜」を基にして「大正15年12月2日」前後の賢治の動きを拾ってみよう。
【大正15年】
11月22日 この日付の案内状発送、また伊藤忠一に配布依頼。
11月29日 羅須地人協会講義
12月1日 定期の集りが開かれたと見られる。
12月2日 セロを持ち花巻駅より沢里武治ひとりに見送られて上京。
12月3日 着京し、神田錦町上州屋に下宿。
12月12日 東京国際倶楽部の集会出席。
12月15日 政次郎に二百円の送金を依頼。
12月20日  〃 に重ねて二百円を無心。
12月23日  〃 に29日の夜発つことを知らせる。
【昭和2年】
1月5日 伊藤熊蔵、竹蔵来訪。中野新佐久往訪。
1月7日 中館武左エ門、田中縫次郎、照井謹二郎、伊藤直美等来訪。
1月10日 羅須地人協会講義が行われたと見られる。
1月20日 羅須地人協会講義。土壌学要綱を講じる。
1月30日    〃    「植物生理学要綱」上部。
1月31日 本日付「岩手日報」夕刊に賢治の写真入り『農村文化の創造に努む』という記事が出る。
2月10日 羅須地人協会講義「植物生理学要綱」下部。
2月17日 本日付「岩手日報」に1/31付記事を受けて「農村文化について」という投書掲載。
2月20日 羅須地人協会講義「肥料学要綱」上部。
2月27日 「規約ニヨル春ノ集リ」の案内葉書発送。
2月28日    〃       〃  下部。
        <「新校本年譜」(筑摩書房)より>
となっている。
 これら及び以前に投稿した【表4】~【表5】から判断して、どうみても3ヶ月間は滞京できない。もし当て嵌めるとすれば、この大正15年12月2日上京の際の滞京期間として12月内の一ヶ月弱はさておき、それ以外のある期間、東京にいる賢治と岩手にいる賢治の二人の賢治が存在することになるからである。
 もちろん賢治はその上京の際に「少なくとも三か月は滞在する」と言っただけのことであり、実際そのとおり滞京していたとは限らないという可能性もあろうが、典拠となっているこの「沢里武治氏聞書」において、沢里は引き続いて、
 そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。……○三
   <『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~より>
と証言している。沢里はこの「三か月」を再びここで駄目押ししていて、沢里の証言は一貫しているのである。したがって、先ほどの「可能性」はほぼ否定されるだろう。
 ここは合理的に考えるならば、沢里の証言するところの約3ヶ月間の賢治の滞京は、現在定説となっている「宮澤賢治年譜」には時間軸上で当て嵌めることがどう考えてもできないことが明らかになった。それゆえ沢里のこの証言「○三」がもし正しいとするならば、言い換えれば、「沢里武治氏聞書」を「現定説❎」の典拠とするならば、霙の降る日にひとり賢治を見送った日を大正15年12月2日とすることにはかなり無理があろう。
 それとも『新校本年譜』や「旧校本年譜」の担当者は、それ以外の部分についての沢里の証言は正しいのだが、この証言「○三」の部分だけは沢里が偽っているとでもいう確証等を掴んででもいるのだろうか。もしそうであるならば、それこそそれらを我々読者の前に明らかにして欲しいものだ。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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