みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

第七章 敢えてした「粗雑な推定」(テキスト形式)

2024-03-16 18:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
第七章 敢えてした「粗雑な推定」

〈仮説〉の反例現る?
 これで残された「年」についてはほぼ調べ尽くしたのだが、思わぬ伏兵が潜んでいた。 
鈴木 もちろんこの「昭和7年」が最後に残された年だったので、結局最後までこの<仮説>は検証に耐え続けてくれたということになる。ということは、高瀬露の全生涯にわたって〈仮説:高瀬露は聖女だった〉は成り立つことになった。
荒木 いやちょと待てよ、その他にもまだいくつか検討すべき資料や証言があるだろうに。
鈴木 それはないわけではないが、ここまでの分で私の知る限りの「高瀬露関連」の証言及び資料による検証作業は実質終了したと思っている。なぜなら、残っているものの全ては今まで検討してきた森の「昭和六年七月七日の日記」等の引用やその孫引きと言えるからだ。新たなことが述べられている論考や知られていなかった証言などが紹介されているものは私の管見のゆえか、他にはまずないと認識している。
吉田 僕もそうは思うのだが、ただ一つだけ気になっているものが残っている。ほら鈴木、あれがあるじゃないか。例の〈「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ「悪女」〉が。
鈴木 あっ…、そうか、そうだった。
荒木 なんだ、その〈「押しかけ女房」的な痴態云々〉ってのは?
吉田 それは、上田が例の論文の中で、
 高瀬露の場合は、小倉豊文のことばを借りれば〈「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ「悪女」〉とされているのである。
<『七尾論叢 第11号』(七尾短期大学)89pより>
と述べていることなんだ。しかも、他ならぬあの「小倉豊文のことば」であればその信憑性は高いぞ。
荒木 やべぇ。実際にもしそのようなことが本当にあったとすれば露にとってはかなり不利なことだぞ。もしかすると、折角いままで耐え抜いてきた<仮説:露は聖女だった>が、この小倉の一言でぐらついてしまうのか。
鈴木 そのことは私も気になっていたので、以前、それが書かれているであろうはずの小倉の著書『宮澤賢治の手帳 研究』『「雨ニモマケズ手帳」新考』『解説 復元版 宮澤賢治手帳』には目を通してみたのだが、見つからなかったから諦めていた。
 ただし、その中の一つに似たような事は述べられていて、「高橋氏の話によれば」と前置きした後で、
 高瀬さんの強引な単独訪問はその後もしげしげ続いたが、
とか、
 関徳弥氏夫人に、賢治を悪しざまに告げ口した。その前に賢治は「自分の悪口をいいに来る者があるだろう」と、関氏と同夫人に話に来たという。このことは関氏と同夫人から私も聞いている。
<『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉著、筑摩書房)47p~より>
というようなことは記述されていた。
荒木 するとますますやばいぞ。「露の強引な単独訪問はその後も」続いたり、「賢治を悪しざまに告げ口した」りしたというんだべ。もしそのとおりだったとすれば、〈「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ〉と似たり寄ったりで、どっちにしても、このことが本当であれば露のこのような行為は<仮説:露は聖女だった>の反例となる虞があるべ…。
鈴木 私もちょっと油断していた。以前話し合った「全てが皆繋がった」と同じことを言っているのかなと思ってあまり深刻に受け止めていなかったが、改めて吉田に指摘されて少し甘かったと今思っってる。
荒木 いよいよ足下に火が付いてきた感じだ。最後にどんでん返しを喰らうのか……。
吉田 すまん、折角ここまで頑張ってきたのに。変なことを言ってしまって。
荒木 いや、それはない。大事なことは何が真実かだ。もしそおであったとすれば、今までのことは徒労に終わってしまうかもしれんが、また一つ真実が明らかになるのだからそれはそれで甘受する。
鈴木 おっ、格好いいことを言ういうじゃないか。
荒木 実は、ちょっと強がってみた。
吉田 しかし、ここまでこの<仮説>はどんなことがあっても検証に耐え続けてきたのだから、最後の土壇場でどんでん返しはなかろう。少なくとも、僕らがここまで調べてみた限りでは露はそんなことをするような人ではないということを確信できたのだから、ここで諦めてどうする。
荒木 そおだよな……。よしっ、ここはあまり悲観的にならずに、露のことを信じて闘い続けるべ。
鈴木 それじゃこうしよう。ここは一度冷静になって小倉の先ほどの著書等を読み直して、一週間後にまた集まって検討してみようじゃないか。
荒木 よし、ここは東北人の粘り強さを発揮してみるべが。
‡‡‡‡
 さて、二人が帰ってから少し心を落ち着けて小倉の本を読み直してみた。すると先ず気になったのが次の一文だった。
 私は本書初版で森・関両氏の著によって以上の件の大略をこの詩のテーマと推考して述べたが、私の行文が不備だった為に高橋氏から批難を受けたので、その後手帳複製版解説では一応全面的に取消した。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)115pより>
かつて読んだ時には軽く読み流していたのだろう。余り気にも留めていなかったのだが、読み直してみたならば、
 ・行文が不備だった
 ・為に高橋氏から批難を受けた
 ・その後手帳複製版解説では一応全面的に取消した。
とは一体どういうことなんだ、と一気に疑問が膨らんだ。
 そこで、まずは小倉の「雨ニモマケズ手帳」に関する著書を並べてみると次のようになる。
  (1)『宮澤賢治の手帳 研究』(創元社、昭和27年)
  (2)『宮沢賢治『手帳』解説』(生活文化社、昭和42年)
  (3)『「雨ニモマケズ手帳」新考』(東京創元社、昭和53年)
  (4)『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(筑摩書房、昭和58年)
 さて、では小倉が言うところの「本書初版」とは何を指すのかだが、それは〝(3)『「雨ニモマケズ手帳」新考』〟の初版のことを指しているから、当然〝(1)『宮澤賢治の手帳 研究』〟を指している。
 そして、小倉はその〝(1)『宮澤賢治の手帳 研究』〟に載せた「大略」が不備だったので「手帳複製版解説」では「全面的に取消した」ということだから、この「手帳複製版解説」とは〝(2)『宮沢賢治『手帳』解説』〟を指していることが判る。
 そこで、これらの中で私が持っていないものは〝(2)『宮沢賢治『手帳』解説』〟だから、これを見てみる必要があると思ってあちこち探してみたがなかなか見つからなかった。が、やっとのことでそれをある場所で見ることができた。

 「粗雑な推定」とは
 一週間後三人はまた集まっていた。
鈴木 知ってのとおり、昭和42年に生活文化社から最初の『雨ニモマケズ手帳』の複製版が出たわけだが、その解説書『宮沢賢治『手帳』解説』において、
 拙著研究では、この詩のテーマになっていると思われる一人の女性について粗雑な推定を敢えてした。しかしその後思うところあり、右の推定は取消((ママ))にする。
<『宮沢賢治『手帳』解説』(小倉豊文著、生活文化社)39頁より>
と小倉は妙なことを述べていた。
荒木 俺も『「雨ニモマケズ手帳」新考』を調べていたら、やはりそれと似たような内容の、
 私は本書初版で森・関両氏の著によって以上の件の大略をこの詩のテーマと推考して述べたが、私の行文が不備だった為に高橋氏から批難を受けたので、その後手帳複製版解説では一応全面的に取消した。
 <『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)115pより>
が気になった。
吉田 やはりな、僕もそうだった。
鈴木 それでは先ず
   「拙著研究」=『宮澤賢治の手帳 研究』
ということは決まりでいいだろ。そして、おそらく次のような顚末だったということになろう。
(a) 小倉は最初に出版した『宮澤賢治の手帳 研究』において、「森・関両氏の著によって以上の件の大略をこの詩のテーマと推考して述べた」。
(b) ところが、この「大略」は「行文が不備だった為」に高橋慶吾から強く批難された。
(c) そこで、次に出版した『宮沢賢治『手帳』解説』において、先の「大略」では「一人の女性について粗雑な推定を敢えてした」ということを公に認め、かつその「粗雑な推定」を「取消し」た。
荒木 そこまでは納得。ただし「取消し」たというところのその中身そのもの、つまり「粗雑な推定」が見えない。
鈴木 それなんだが、私にもこの先がよく見えてこない。ただわかることは、小倉は『宮澤賢治の手帳 研究』の中で、例の詩〔聖女のさましてちかづけるもの〕をまず取り上げ、
 この詩を讀むと、すぐに私はある一人の女性のことが想い出される。
と前置きして、続けてそれこそ「大略」を述べてはいるのだが、そのうちのどの部分が「粗雑な推定」に相当するのかわからんのだ。ほらこれが小倉が言っているところのその「大略」だからよく見てくれ。
荒木 どれどれちょっと読ませてくれ。…………………… いやあ、これじゃちょっとやそっとのことではどれが「粗雑な推定」なのかわからんべ。
吉田 そこでだ、実は僕は今回その分析をしてみたからこのプ
リントを見てくれ。
│ 大正十五年四月、花巻郊外の櫻で自耕自炊の獨居生活をは│
│じめた賢治は…(略)…農業技術の講話をしたりはじめた。そ│
│の頃、協會員の一人の紹介で、花巻の西の方の村で小學校教│
│師をしている若い一人の女性が賢治の家に出入りするように│
│なつた。彼女はその勤めている學校で賢治が農業の指導講話│
│をした時に、はじめて彼を見たのである。當時田舎には珍し│
│いクリスチャンであつたと言う彼女であるから、①恐らく新│
│しい科學や藝術にあこがれていた女性であり、それ故に、賢│
│治のはじめた仕事にも深い關心を抱いたであろうことは當然│
│であろう。更に想像をたくましくすれば、當時田舎には數少│
│ない高等教育を受けていた賢治であり、田舎はもとより都會│
│を含めて日本にも珍しい科學と藝術の天才であり、世界でも│
│珍しい仕事をはじめた賢治であり、當時三十一歳の獨身生活│
│者であつた賢治であるから、彼女の關心は賢治の仕事よりも│
│賢治その人にあつたのであるかも知れない。 │
│ とにかく、②クリスチャンらしい「聖女」として、新しい科│
│學や藝術を探究する「弟子」として、賢治と彼女との交渉はは│
│じまつたのである。男だけの集まる協會であるから、一人の│
│女性のいることは室内の整備にも、劇の出演者に女の必要な│
│場合にも便利であつた。賢治もはじめは「しつかりした人だ」│
│と協會員にも語つてよろこんでいたらしい。ところが、この│
│女性は來る每に花や食物やいろいろの品物を持つて來るよう│
│になつた。賢治は他人に物をやつたり御馳走したりすること│
│は好きだが、他人からそうした心配をされることは大きらい│
│であり、そうした行為には必ず過分の返禮するのを忘れなか│
│つた。こうした賢治の片意地と思われる程の「義理堅さ」につ│
│いては、實に多くの逸話があるが、こゝでは割愛する。とに│
│かく賢治はこの女性に對してもその都度何かしらきつと返禮│
│していた。しかし、③彼女の贈物と訪問は加速度に激しさを│
│加え、賢治の寢ている内に訪ねて來たり、遠いところを一日│
│に二度も三度もやつて來たりするようになつた。賢治はほと│
│ほと困つてしまつた。「本日不在」と貼紙をしたり、顏に墨を│
│塗つて會つたりしたこともあるという。だがこうした賢治の│
│態度は益々彼の女の彼に對する思慕愛戀の情を燃えさからす│
│ばかりであつた。賢治は返禮の品物に行きづまつたのであろ│
│う。ある時は布團をお返しにおくつたこともあるという。こ│
│うしたことは、賢治にとつては全く他意のあることではなか│
│つたのであるが、常識的にそうは思われない。彼女はその勤│
│めている村に新しい家を借り、世帶道具を調えて、いつでも│
│彼との結婚生活がはじめられるように設計もしていたとい │
│う。 │
│ ある時、近郊の村の人々が數人、賢治の家―羅須地人協會│
│―を訪ねた。賢治はその人たちを二階に招じて談笑していた。│
│その時、この女性はすでにそこに來ていて、しきりに台所で│
│何か體を動かしていた。間もなく彼の女はその手料理のライ│
│スカレーを二階の客の前に運びはじめた。全く新家庭の新婦│
│人振りである。賢治はほとほと困つてしまつて「この方は○│
│○村の小學校の先生です」と人々に紹介した。人々はぎこち│
│なく默つて彼と彼の女とライスカレーをぬすむように見まわ│
│した。そして、とにかくライスカレーを食べはじめた。しか│
│し賢治だけは食べない。彼女は勿論彼にもたつてすゝめた。│
│だが彼は「私にはかまわないで下さい。私には食べる資格が│
│ありません」と答えて頑として箸をとらなかつた。彼女は │
│④ヒステリックに身體をふるわせ、顔面蒼白になつて物も言│
│わずに階下にかけ下りてしまつた。と間もなく、荒れ狂う野│
│獸の⑤咆哮のような、オルガンの音がきこえはじめた。賢治│
│が注意深く外に音のもれないように工夫し、毎夜人がねしず│
│まった頃を見計らつては練習していたオルガンを、その女性│
│が無茶苦茶にやけに鳴らしているのである。彼は急いで下に│
│降りて行つて言つた。 │
│ 「みんなひるまは働いているのですからオルガンは遠慮し│
│てください。止めて下さい。」 │
│ 賢治にしては珍しく高くてするどい叱聲であつた。しかし、│
│オルガンの⑥「狂想曲」は中々やまなかつた。再び二階に上つ│
│て來た賢治の顏の表情は押え切れない怒りに燃え、蒼黑くさ│
│え見えて人々はどうにもならぬ困惑を感じたということであ│
│る。 │
│ この事件は、昭和三年の八月、彼が病氣で倒れたのを機會│
│に自然に終末をつげたが、熱中した戀愛が成就しなかつたこ│
│の女性は、その後、賢治について惡口をいろいろ觸れ廻つた│
│らしい。⑦無理もないことであろう。「外面菩薩内面如夜叉」│
│と言う佛教のいい古された格言がかなしく思い出される。 │
│ この事については賢治もながく隨分氣にかけていたらし │
│い。その最期の一年間ばかり前、一時病氣が輕くなつていた│
│頃、彼は關登久也氏を訪ねて、知人が自分をいろいろ中傷す│
│ることについて、事のいきさつを語り、了解を求めたと言う。│
│こんな、自分の言動について他人に了解を求めるようなこと│
│は、賢治の生涯には絶えてなかつたのに――。 │
│  以上の事件に關しては、私は森荘已池氏の「宮澤賢治と三│
│人の女性」及び關登久也氏の「宮澤賢治素描」の記事、乃至兩│
│氏の實話によつてその大體を述べただけである。この女性が│
│果たして「聖女のさましてちかづけるもの」であつたかなかつ│
│たか。それは神のみぞ知ることであろうが、この詩を讀む度│
│に思い出されるまゝに記しておく。 │
│    (筆者註:原典には傍線部は一切なし) │
│  <『宮澤賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社)101p~より>│
荒木 それで、この傍線部の意味と違いは何だ?
吉田 それは、僕が分析してみようと思って勝手に付け足したもので、具体的には、小倉が述べているように、
 森・関両氏の著によって以上の件の大略をこの詩のテーマと推考して
ということだから、小倉が引用したであろうと思われる個所にそれぞれ次のように出典の違いによって、
・『宮澤賢治と三人の女性』: 〝  〟
・森と関の両著から   : 〝  〟
と区別して傍線を付けてみた(註: 〝  〟については後程説明する)。なお、関の『宮澤賢治素描』が単独で引用されている個所はないということもこれで判った。
鈴木 するとそのことからは逆に、関の『宮澤賢治素描』(協榮出版)の出版は昭和18年で、森の『宮澤賢治と三人の女性』(人文書房)の出版が昭和24年ということも併せて考えれば、『宮澤賢治素描』に出てきている証言の多くがは殆ど皆、『宮澤賢治と三人の女性』において使われているということも導かれるということか。
吉田 そう、確かにそうだった。では、この分析結果から何が読み取れるか。もちろん、小倉自身が「粗雑な推定を敢えてした」と言っている部分は少なくとも傍線〝  〟や〝  〟が付かなかった残りの部分にあることになる。
 そこで次は、残りの部分の中で僕からすれば「粗雑」と見える個所に今度は傍線〝  〟と番号をさらに付け足してみよう。するとそのようなものとしてはこのように<①>~<⑦>の7個所がある。
 まず驚くのが傍線部<⑦>である。「外面菩薩内面如夜叉」という痛烈で辛辣な言葉を用い、しかもこれは前段の推定「この事件は、…賢治について悪口をいろいろ觸れ廻つたらしい」に対しての小倉自身の評価に過ぎないわけだから、そのことをこのようにを活字にしてしまったならば、『小倉豊文は高瀬露に対しては研究者としての立場を逸脱している』等と誹りを受けてしまうのではなかろうかと、ついつい危惧してしまう。
鈴木 そうか、やっと私にも少しずつ見えた来たぞ。となれば、露を『最初に先生のところへ連れて行つたのが私であり、自分も充分に責任を感じてゐるのですが』(『イーハトーヴォ(第一期)創刊号』)と語っている高橋慶吾からすれば当然不満を抱くこともあろう。とりわけ、「粗雑」すぎるこの<⑦>に対してはその可能性が極めて大だろう。
 そしてそれほど極端ではないにしても、森・関の両著に述べられていないことでなおかつ「粗雑」と思われる個所としての <①>~<⑥>には小倉豊文らしからぬ表現がある。特に、「ヒステリック」とか「咆哮」とか「狂想曲」という表記は森も関も自身の著作ではしていないはずで、これは小倉独自のものと考えられるから、高橋のみならず私だっておかしいと思う。
 小倉は研究に対してはいつも厳しい態度で臨む((註十四))人だったから、かなりの程度検証した上で論じているだろうと思っていただけに、この論考における「敢えてした」とまで語る小倉の姿勢は私にとっては極めて意外だ。
荒木 となれば、小倉が「乃至兩氏の實話」とも言っているのだから、これらの<①>~<⑦>も森や関から直接聞いたとでもいうのだべが。
吉田 それはあり得るが、もしそうであったとしても、<②>~<⑦>は皆「粗雑な断定」でこそあれ「粗雑な推定」ではないから、小倉の「粗雑な推定を敢えてした」というこの言に従えば、その候補は唯一<①>しかないから、当然それはどう転んでも当選するので、「敢えてした」という粗雑な推定は<①>でしかない。
鈴木 あっそうか、候補者は一人だから無投票で当選するんだ。
荒木 なあるほど。かといって、<①>であったならば取りたてて慶吾が批難するほどのものでもなけれな、批難されて「取消し」をするほどのことでもなかろう。取消すのであれば、それよりもはるかに<②>~<⑦>の方だろう。
 もちろん、そうなるとこれらは「粗雑な断定」だから小倉の言っていることとは矛盾するけどもな。それにしても、「協奏曲」ならぬ「狂想曲」には流石の俺も負けてしまった。
吉田 ある面では、森や儀府のゴシップ記事のような扱いにも辟易とするが、この小倉の「粗雑な推定と断定」にもそれと似たところがないわけでもなく、僕も驚きを隠せない。
荒木 どうやらこのことに関しては、小倉は冷静さを失っている。すると、〈「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ「悪女」〉はさておき、少なくとも小倉が活字にした
  露の強引な単独訪問はその後も続いた
とか、
  露は賢治を悪しざまに告げ口した
とかは、果たして真実かどうかは危うい。
鈴木 それはそうだよ、少なくとも慶吾から批難されて、その後、「手帳複製版解説では一応全面的に取消した」というわけだから。
吉田 しかしあの小倉が、よりによって自嘲的な「粗雑な推定」という表現をし、続いて次に今度は一転して「敢えて」というような開き直りともとれる表現をし、しかも実際に「取消し」たというわけだ。となれば、「一応」と書き添えてはいるものの、小倉の内心は屈辱と悔しさとで一杯であったろう。

 曖昧すぎる小倉の記述
鈴木 そうか、そういう心理だったのか。だからこそ、その次に出版した『「雨ニモマケズ手帳」新考』では、
 しかし其の後、新資料も出て来、諸家の研究も進展して来たので、主として原資料提供を主とした解説を改めて述べた次第である。
と断り書きを前置きしながら、同書では、
㈠ 賢治のT女史宛の手紙下書によれば、二人の手紙の往復は賢治の発病後も継続しており、クリスチャンのT女史は法華経信者となって賢治の交際を深めようとしたり、持ち込まれた縁談を賢治に相談することによって賢治への執心をほのめかしたりしたが、賢治の拒否の態度は依然変らなかったらしい。その結果T女史は賢治の悪口を言うようになったのであろう。この点、高橋氏は否定していたが、私は関登久也氏夫人(賢治の妹シゲの夫岩田豊蔵氏実妹ナヲさん)から直接きいており、賢治が珍しくもこの件について釈明に来たことも関氏から直接聞いている。
<共に『「雨ニモマケズ手帳」新考』115pより>
と、またぞろぶり返したのか。
荒木 あっ、そっか。小倉はまだまだこの事に関して強い拘りや未練があったというわけだ。
吉田 しかしこのような記述の仕方をされると困るんだよな。この文中の指示語「この点」が何を指しているかはっきりしていないから。一体、小倉はナヲから直接何を聞いたのか、それがはっきりしない。どうも、この「粗雑な推定」に関しての小倉の文章は切れ味の良さが感じられず、小倉らしからぬ曖昧な表現が目立つ。
鈴木 まさにそのとおりで、その後に出版した『解説 復元版 宮澤賢治手帳』の中でもまたして、
㈡ 高橋氏の話によれば、高瀬さんの強引な単独訪問はその後もしげしげ続いたが、賢治のその都度かくれたり、顔に灰を塗ってレプラだと偽ったりするつれなさに、女学校時代の同級生で宮澤家の親戚である関徳弥(筆名登久也)氏婦人(賢治の義理の兄妹)に、賢治を悪しざまに告げ口した。その前に賢治は「自分の悪口を言いに来る者があるだろう」と、関氏と同夫人に話に来たという。このことは関氏と同夫人から私も聞いている。彼女の協会への出入に賢治が非常に困惑していたことは、当時の協会員の青年達も知っており、その人達からも私は聞いた。それらを知った父政次郎翁が「女に白い歯を見せるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている。労農党支部へのシンパ的行動と共に―。             
<『解説 復元版 宮澤賢治手帳』47p~より>
と、似たようなことを記述していてこちらも曖昧だ。とりわけ、肝心の「賢治を悪しざまに告げ口した」には主語すらない。
吉田 先の指示語の曖昧さしかり、今回の主語のないことしかり、小倉豊文の文章は肝心なところが曖昧になっている。
鈴木 さらに注意深く読んでみると、ある微妙なしかし重要な違いにも気付く。それは小倉は、
 ㈠の『「雨ニモマケズ手帳」新考』の場合
 その結果T女史は賢治の悪口を言うようになったのであろう。……○ア
と推定表現で述べていたのに、
 ㈡の『解説 復元版 宮澤賢治手帳』の場合:
    賢治を悪しざまに告げ口した。……○イ
と断定表現に変えているという違いにである。それも、
   前者㈠:「悪口を言う」 
    → 後者㈡:「悪しざまに告げ口した」
というように、より印象の悪い「告げ口」という表現に変えている。しかも前者㈠においては出だしに、
    この点、高橋氏は否定していたが、……○ウ  
と言い添えていたのに、後者㈡には〝○ウ〟が見当たらないという違いもある。
吉田 さらに、小倉は㈡においては、「高橋氏の話によれば」と前置きしているから、誰が言ったかはさておき、
「賢治を悪しざまに告げ口した」ということを高橋慶吾が証言した。……○エ
ということになるから、小倉の曖昧な表現は誤解を生みかねない。
荒木 そうだよな、これじゃ㈡の『解説 復元版 宮澤賢治手帳』の方を読んだ人は、記されていない主語を「露」と思い込み、
 露は賢治を悪しざまに告げ口した。
は事実だったと普通は受け止めがちだろう。
鈴木 また一方、もしその曖昧さを問われたとしたならば、小倉は
 前置きとして「高橋氏の話によれば」と書いているではないか。
と弁解して、高橋慶吾に下駄を預けるかもしれんが、そうするとそれは〝○ウ〟に全く反している。
荒木 ところで、この㈡の「高橋氏の話によれば」はどこまでの範囲を指しているのだろうか、ちょっとわかりにくいのだが。
吉田 一般には、「高橋氏の話によれば」がどこまでを指すのかは、「高橋氏の話によれば……という」という文章構成になるのが普通だろうから、
 高瀬さんの強引な単独訪問はその後もしげしげ続いたが、……関氏と同夫人に話に来たという。
を指すことになるだろう。
 ところが、先の「この点」がどこまでを指すのかの場合と似たり寄ったりで、今回は今回で、「このことは関氏と同夫人から私も聞いている」の「このこと」がどこからどこまでを指すのかが判然としていない。
鈴木 私もあれこれいろいろな場合を推考してみたのだが、元々が曖昧だから小倉豊文の書いた文章は解きほぐしようのない「盤根錯節」であり、途中で解くのを諦めてしまった。
荒木 結局、曖昧さを解決できない文章表現でしかなかった、というわけか。
鈴木 言い方を換えれば、〝○ア〟は推定、〝○イ〟は曖昧なので検証の際の資料たり得ないということになる。
 もちろん㈡の中にある、
 賢治は「自分の悪口を言いに来る者があるだろう」と、関氏と同夫人に話に来たという。
が、<仮説:露は聖女だった>の反例とならないこともまた明らかだ。
荒木 そうだよな。これじゃ、一体誰がどんな内容の悪口を言いに来るかもわからないからな。
吉田 つまるところ、小倉のこれらの著書に載っている証言内容は、曖昧ながらも基本的には関登久也の「面影」で述べられている例のエピソード、
 亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
の域を出ず、このことについては既に検証作業は終えたのだから、今さらまた繰り返す必要もなかろう。
 したがって、結論を言えば
 小倉豊文の著書に載っている「露関連」の「証言」はあまりにも曖昧すぎてその証言の内容が判然としないから、仮説の検証作業用資料に資することはできない。
ということだ。
荒木 しかも、小倉は高橋慶吾から批難されてそれを引っ込めたりまた出したりしているところもあり、その信憑性は一層薄いと言わざるを得ないからな。
吉田 また百歩譲って、小倉の記述どおりに
「賢治を悪しざまに告げ口した」とナヲが小倉に証言した。
ということであったとしても、このような発言をしている人は誰であるかということは明示されていないし、それどころか、この「告げ口」とはまさしく以前「曾て賢治氏になかつた事」において考察した際の、
 賢治と親しい〝「賢治○○」の著者〟Mが病床の賢治にその後の露に関する「噂話」を告げ口をした
ことを指している可能性も大だ。
鈴木 したがって現時点では、小倉のこれらの著書に載っている「露関連」の「証言」はいずれも皆曖昧すぎるものばかりであり、そのような「証言」を<仮説:露は聖女だった>の検証作業用の資料として資することはできない。はっきり言って、検証以前だ。
吉田 どうやら、先に僕が切り出した〈「押しかけ女房」的な痴態にも及んだ「悪女」〉についても、おそらくこれらと似たり寄ったりで、まあ、それがどこにどう書いてあるかが見つかったならば検討はせねばならぬが、現時点ではこれらも検証用の資料たり得ない、と現時点では判断せざるを得なかろう。
荒木 ということは、現時点では、小倉豊文の著書に載っている「露関連」の証言等による検証作業を経ても、
<仮説:露は聖女だった>を棄却する必要はない。
と言えるということだ。
 いやあ嬉しいね。というか、正直ほっとした。露のことを信じ続けてよかった。一時、これでこの<仮説>の反例がとうとう最後の土壇場で現れて、俺はすごすごと退散するしかないのかと半ば諦めかけ、冷や冷やしていた。
鈴木 うん、私も一時冷や汗をかいたよ。でもまさか吉田、まだ他にもあるなんてことはないよな。
吉田 悪い悪い、冷や冷やさせてしまって。もちろんもう他にはない。「押しかけ女房」の件では大変お騒がせしてしまった。

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 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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