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《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》
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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
「かつての賢治年譜」の検証
そこで『新校本年譜』を再び見てみると、昭和3年の
八月一〇日(金) 「文語詩篇」ノートに、「八月 疾ム」とあり。高橋武治あて手紙に八月一〇日から 丁度四〇日間熱と汗に苦しんだとあるので、この日からと推定する。病室は別棟二階建て階下西向きの部屋である。
となっており、この記述の仕方は不完全だがそれはさておき、賢治が「下根子桜」から撤退して実家に戻って病臥するようになった日はこの10日であると推定すると述べていると言えるだろうし、「通説」もそうなっている。
一方、「かつての賢治年譜」ではおしなべて、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
となっていると言っていい。つまり、賢治が「下根子桜」から実家に戻ったのは病気になったためであり、それを引き起こしたのは「氣候不順に依る稲作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し」たためであった、となっている。
ところがこの両者を比べてみると、「かつての賢治年譜」のような記述内容は『新校本年譜』からはほぼ消え去っているし、注意深く比べてみれば、かつては断定していたものがいつの間にか推定に変わっていることにも気付く。ということは、「かつての賢治年譜」の記載内容には問題があったということを示唆していると考えられる。そこでこれを、
(1) 心身の疲勞を癒す暇もなかった。
(2) 気候不順に依る稲作の不良があった。
(3) 風雨の中を徹宵東奔西走した。
(4) 遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅した。
の四つに分けてそれぞれ検証してみたい。
それではまず〝(1)〟についてである。さて、この「心身の疲勞」とは一体何を意味するのか。それを癒す暇もなかったということだし、8月10日から賢治は実家に戻っているということであれば、その時よりもしばらく前に蓄積した「疲勞」と考えられる。まして、賢治自身が「六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで」と先の書簡(243)にしたためていたことに鑑みれば、この「疲れ」こそがこの「心身の疲勞」に当たるとほぼ言えるだろう。
一方、先にも引用した伊藤七雄宛昭和3年〔7月はじめ〕書簡(240)の下書㈡の中には、
こちらへは二十四日に帰りましたが、畑も庭も草ぼうぼうでおまけに少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました。いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・校異篇』(筑摩書房)>
とあって、「少し眼を患ったりいたしましてしばらくぼんやりして居りました」と書いているから、帰花後も賢治は心身共に相当疲れが残っていたと思われる。
ところが、時期は〔7月はじめ〕という推定ではあるものの、仮に昭和3年7月始めに賢治が「いまはやっと勢いもつきあちこちはねあるいて居ります」とその下書に書いてあったとおりであるとすれば、この時の上京の際の疲れは7月初め頃にはもうすっかり取れていたと推測できる。
ちなみに、以前に掲げた51頁の「天気一覧表」《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》に従えば、伊藤七雄宛昭和3年〔7月はじめ〕書簡下書(240)に、
こちらも一昨日までは雨でした。昨日今日はじつに河谷いっぱいの和風、県会は南の方の透明な高気圧へ感謝状を出します。
<『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)>
という一文があるということなので、この書簡下書(240)が書かれた日は、「一昨日までは雨でした。昨日今日は…」に注意すれば、この「天気一覧表」からその日は7月5日であるとほぼ判断できるから、上段の「推測」を裏付けてくれる。そして、この頃から賢治は「やっと勢いもつきあちこちはねあるいて居」たということになろう。
したがって、少なくとも7月上旬には「東京行」の際にたまった「疲勞」は癒されていたとほぼ断定できるだろう。しかも、この他に「心身の疲勞を癒す暇もなかった」というような「疲勞」は考えられない。だからもちろん、賢治がこの書簡下書を書いたであろう7月上旬から約一ヶ月もの長時間が経った後の8月10日頃に家に戻った直接の理由に、この〝(1)〟がならないことはほぼ明白である。
次に〝(2)〟についてだが、この「天気一覧表」を見た限りにおいてはそんなことはまずなさそうだと判断できる。それどころか、この時期としては願ったり叶ったりの水稲にはふさわしい天気が続いているということが判るからだ。
もちろん、これだけ雨が降らなければ干魃の心配はある。とはいっても、この時期であればもう田植時及びその直後の水不足とは違って水稲の被害はそれほど心配なかろう。それどころか逆に、この地方の言い伝えである「日照りに不作なし」を農民は唱えながら稔りの秋を楽しみにしていたと考えられる。実際、この昭和3年に岩手が干魃によって水稲が不作だったという記録も資料もないはずだ。
がしかし、水稲はそれでいいとしてもこのような気候であれば陸稲が心配だ。ちなみに、昭和3年10月3日付『岩手日報』によれば
県の第一回予想収穫高
稗貫郡 作付け反別 収穫予想高 前年比較
水 稲 6,326町 113,267石 2,130石
陸 稲 195町 1,117石 △1,169石
であった。なんと、陸稲の収穫予想高は前年比較1,169石減だから予想収穫高は前年収穫高の半分以下の激減であろうことがわかる。とはいえ、当時の稲作における稗貫地方の陸稲の作付け面積は、
195町歩÷(6,326+195)町歩=0.03=3%
だから、稗貫郡内の陸稲作付け割合は稲作全体のわずか3%にしか過ぎないこともわかる。しかも常識的に考えて、この195町歩の陸稲のために賢治一人だけが稗貫郡内全てを東奔西走したとは考えられない。
それからもう一つ、この時期賢治は稲熱病のことを心配していたと言う人もいるが、この病気は「日照不足」や特に「低温(稲熱病の菌糸の発育適温は25℃といわれている)多湿」の場合に蔓延するものであり、仮に稲熱病にかかった水稲があったにしても、昭和3年の稲作期間は雨の日が殆どなかった(この年は夏に40日を超えるような「ヒデリ」が続いたということは周知の事実)のだから少なくとも多湿とは言えないのでそれが蔓延したということは普通起こり得ない。
実際、「県南地方に予想されたという稲熱病の被害はそれほどではなかった」ということは先に明らかにした(53p参照)ところでもあるし、「昭和3年、花巻で稲熱病が蔓延した」という事実も見つからない。しかも、この年の岩手県の稲作は不作などではなく、稗貫のその作柄も平年作以上であったとほぼ断定できるということも既に明らかにした(52p~参照)ところである。つまり、この年は夏に40日を超えるような「ヒデリ」が続いたという意味での「気候不順」は事実あったのだが、それは「ヒデリに不作なし」というタイプの「ヒデリ」だったから歓迎されこそすれ憂うべきものではなかった。しかも、このような天候だったので稲熱病が蔓延することもなかったので、
昭和3年の岩手県も稗貫郡も共に、米の作柄は実際悪くはなかったのだから、この年は「気候不順に依る稲作の不良があった」とは言えない。
ということになるだろう。
では今度は〝(3) 風雨の中を徹宵東奔西走した〟についてだが、やはり先の《表 昭和3年6月~8月の花巻の天気》一覧表(51p参照)に従えば、帰花後~8月10日の間に「風」が吹いた日は7月26日の一日だけあったが、それは晴れた日にである。「風雨」の日は一日もないし、そもそも「雨」が降った日でさえも、賢治が帰花後やっと活動し出したと思われる7月5日以降は殆どないし、特に賢治が実家に戻る直前の7月28日~8月10日の間にはそのような日は全くない。これではいくら賢治が「東奔西走」しようとしても、それが雨の中でということはこの頃はまず不可能であったということがこれで明らかだ。
しかも、稲熱病の蔓延も、大干魃による水稲の不作も共に心配のない年であったのだから、賢治がそのようなことを心配して「徹宵東奔西走」する必要もまたなかった。したがって、〝(1)〟の場合と同様、実はこの〝(2)〟や〝(3)〟も賢治が8月10日頃に実家に戻る「主たる理由」にはなり得なかったと判断するのが妥当であろう。
となれば、その「主たる理由」は最後の〝(4) 遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅した〟ためだであったということになるのであろうか。このことに関しては菊池忠二氏が次のようなことを述べている。
私がもっとも伊藤さんに聞いてみたかったのは、ここでの農耕生活が病気のために挫折した時、宮澤賢治はどのようにして豊沢町の実家へ帰ったのか、という点だった。それを尋ねると、伊藤さんはふっと遠くを眺めるような目つきをしてから、次のように語ってくれたのである。
「今でも覚えているのは、私が裏の畑でかせいでいた時、作業服を着た賢治さんが『体の工合が悪いのでちょっと家で休んできますから』と言って、そろそろと静かに歩いて行ったことであんす。」
〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)37p 〉
つまり伊藤忠一の証言によれば、少なくとも伊藤の目からはその時の賢治の病状はそれほど極端に悪化していたとは見えなかった、と言えそうだ。しかも、菊池氏はこの日のことについては宮澤清六自身からも直接訊いており、
初めは「どうだったか忘れてしまったなあ」と語っていた清六さんが、だんだんに「特にこちらから迎えに行ったという記憶はないですねえ」ということだった。そして「これは大事なことですね」と二回ほどつぶやかれたのであった。その口調から私は、伊藤忠一の語った事実が本当であったことを、あらためて確認することができたのである。
〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)46P 〉
と述べている。したがって、賢治が実家に帰った時はそれほど重篤であったわけでもなかったということを弟の清六も証言しているということになる。となれば、〝(4)〟も賢治が8月10日頃に豊沢の実家に戻った件の「理由」になる蓋然性はかなり低いことになる。
さて、こうしてここまで「かつての年譜」を検証してみたのだが、〝(1)~(4)〟のいずれにもかなりあやかしな点がある。これではいずれもその「主たる理由」にはならない蓋然性がかなり高いから、賢治が「下根子桜」を撤退して実家に戻ったのにはもっと別の大きな理由があったと考えることはおのずから導かれる道理であろう。
すると、そのヒントとなるのではなかろうかと脳裡をよぎったのが、この章の始めで触れた書簡中の「演習が終るころはまた根子へ戻って云々」の「演習」であった。もし賢治がまた「下根子桜」に戻るとするならば、愛弟子の澤里武治に宛てた手紙には「病気が治ったならばまた根子へ戻って云々」とに書くはずだが、そうではなくて「演習が終るころ」に戻ると賢治が書いているではないか。そのことを私に気付かせてくれた。
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《新刊案内》この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』
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を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。延いては、
小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、 『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。
そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。
そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。
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