みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「逃避行」していた賢治

2024-01-16 12:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》






 続きへ
前へ 
『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』の目次(改訂版)〟へ。
********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 「逃避行」していた賢治
 ところで、昭和3年6月の賢治の上京は実は「東京への逃避行」だったという見方もあるという。それは、佐藤竜一氏が自身の著書『宮沢賢治の東京』の中で主張していることなのだが、
  東京へ逃避行
 一九二八年六月八日夕方、賢治は水戸から東京に着いた。一年半ぶりである。…(筆者略)…
 東京に着いてすぐ書かれた(六月一〇日付)「高架線」という詩には、世相が表現されている。
「労農党は解散される」とあり、次のフレーズが続く。
  一千九百二十八年では
  みんながこんな不況のなかにありながら
  大へん元気に見えるのは
  これはあるいはごく古くから戒められた
  東洋風の倫理から
  解き放たれたためでないかと思はれまする
  ところがどうも
  その結末がひどいのです
 国家主義が台頭してきていた。その動きは当然、羅須地人協会の活動に影を落とした。このときの東京行きは、現実からの逃避行でもあったに違いない。…(筆者略)…
 伊藤七雄は日本労農党に属しており、賢治は活動に理解を示していたからふたりには接点があった。
〈『宮沢賢治の東京』(佐藤竜一著、日本地域社会研究所)166p~〉
という見方である。
 一方、名須川溢男の論文「宮沢賢治について」によれば、
 (昭和2年の)夏頃、こいと言うので桜に行ったら玉菜(キャベツ)の手入をしていた、…(筆者略)…その頃、レーニンの『国家と革命』を教えてくれ、と言われ私なりに一時間ぐらい話をすれば、『こんどは俺がやる』と、交換に土壌学を賢治から教わったものだった。疲れればレコードを聞いたり、セロをかなでた。夏から秋にかけて読んでひとくぎりしたある夜おそく『どうもありがとう、ところで講義してもらったがこれはダメですね、日本に限ってこの思想による革命は起らない』と断定的に言い、『仏教にかえる』と翌夜からうちわ太鼓で町をまわった。(花巻市宮野目本館、川村尚三談、一九六七・八・一八)
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~>
ということであり、賢治と二人で交換授業をしたと証言している川村尚三なる人物がいて、この川村は当時労農党稗和支部の実質的な代表者であったという(〈注十四〉)。
 そうすると、先の佐藤氏の引用文によれば、伊藤七雄は当時労農党員であったということでもあるから、賢治はこのような労農党の幹部等とかなり親交があったと言えそうなので、賢治は労農党の単なるシンパであったというよりはそれ以上の存在だったと考えた方が自然だろう。
 それは当時の労農党盛岡支部役員小館長右衛門の次のような証言、
「宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。…(筆者略)…いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった」(S45・6・21採録)
〈『鑑賞現代日本文学⑬宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)265p~〉
からも裏付けられるだろう。
 そういえばこの昭和3年とは、3月15日にはあの「三・一五事件」が起きて共産党員が一斉検挙され、労農党等も捜索されたというし、4月11日には同事件及び労農党等の解散命令が報道されたという年だ。となれば、前頁で述べたような「存在」であった賢治は6月に岩手から一時逃避したということは十分にあり得る。さらには、草野心平が『太平洋詩人』二巻三号(昭和2年3月)において、『(賢治は)岩手県で共産村をやつてゐるんだそうだが』と述べていることは周知のとおりであり、当時の賢治は少なくとも一部の人からはそう見られていたということ、逆に言えば賢治は当時官憲から厳しいマークを受けていたことはほぼ疑いようがない(後述「論じてこられなかった理由と意味」、83p~参照)から、なおさらにあり得たことだろう。
 しかも、これがもし「逃避行」でなかったとするならば、この時の上京によって賢治は農繁期に半月以上もの期間花巻を留守にしてしまったのだから、帰花後賢治はそのことを気に掛けながら、早速周辺の農家の水稲の生育状況等を大車輪で見廻っていたはずだ。ところが賢治は、花巻に戻ってからも約10日間ほどをぼんやりと無為に過ごしていた(65p参照)と言える。したがって、昭和3年の賢治は農繁期に半月以上もの間上京していて花巻を留守にしていたから、結局その農繁期に稲作指導等をまったくしない計約一ヶ月間もの空白を作ってしまっていたことになる。この点からいっても、佐藤氏の「東京への逃避行」だったという見方はたしかに頷ける。しかもこの時期、当時の賢治は高瀬露との関係でトラブルをかかえていたからそこからも逃げ出したかったという可能性も否定できないので、「東京への逃避行」はなおさらにあり得た。

〈注十四:本文68p〉名須川溢男は同論文「宮沢賢治について」において、
 昭和二年(一九二七)労農党稗貫(ママ)支部は、二十歳前後の若者たちで結成された。…(略)…支部長には泉国三郎がなったが、花巻にはあまりいないので実質中心になったのが川村尚三であった。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)219p~>
ということも述べている。
******************************************************* 以上 *********************************************************
 続きへ
前へ 
『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』の目次(改訂版)〟へ。
 〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
 
***********************************************************************************************************
《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「かつての賢治年譜」の検証 | トップ | 光太郎の山口での自炊生活(... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治渉猟」カテゴリの最新記事