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みちのくの山野草

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斉藤宗次郎の「宮沢賢治父子」より

2015-03-08 08:00:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
大正15年3月4日の賢治の決意表明
 『四次元150号』(宮沢賢治研究会)所収の斎藤宗次郎の「宮沢賢治父子」に次のようなことが述べられていた。
 余は未だ諸新聞取次業の労働に当たつて居る昭和元年三月四日集金のため市内の西部なる購読者を廻り、三時半には雪路を踏んで郊外なる農学校に達した。此処何時でも清心の気分漲る別天地である。学校の先生は皆予の知人友人のみであるから心易く接することが出来た。
 職員室に入るや直ちに宮沢先生の好意に依り蓄音機で名曲を聞かせられた。…(投稿者略)…二人は黙して各々幻想の迸るを縦いまゝにした。将に妙境と称すべきか。
 先生は近々自らベートーヴェン百年祭を催すに就いて其の集会に出席するやう望まれた。予は快諾した。…(投稿者略)…同僚の諸先生が帰られて後は二人で盛んに人生を論じた。信仰に就いても重要な問を発せられた。先生は近日中に決意を実行して愈活動生活に入らんとする旨を告げられ、最後に不日出版に附すべき農民芸術概論の序文の批評を乞われた。賢治先生の朗読する一句一句を傾聴し不肖ながら誠実の同意を表した。一般社会の目より見れば或いは過激思想として眺めるかも知れない。然し現代に対しての鋭利なる達観者宮沢賢治の構想としては一々首肯すべきものと感じた。相互の観喜と満足とは無垢の微笑の交換となつて現はれた。
             <『四次元150号』(宮沢賢治研究会)103p~より>
 そこでこの記述の中の「昭和元年三月四日…(略)…農学校に達した…(略)…先生は近日中に決意を実行して愈活動生活に入らんとする旨を告げられ」に従えば、
 賢治は昭和元年(大正15年)三月四日、宗次郎に対して、「近日中に花巻農学校を辞して新たなる活動に入るつもりだ」という意味の決意を述べていた。
ということになりそうだ。それも、「同僚の諸先生が帰られて後」に宗次郎に打ち明けた様子だししかもそれは3月に入ってからのことなので、これで堀籠文之進の
 大正十五年三月の春休みに入ってから、
 ――こんど、私学校をやめますから……とぽこっといわれました。学校の講堂での立ち話でした。急にどうして、また、もう少しおやりになったらいいんじゃないですか、といいましたら、新しく、自営の百姓をやってみたいからといわれました。
            <『野の教師 宮沢賢治』森荘已池著、普通社、昭和35年刊)231p~より>
という証言はやはり信憑性が高いものであったと言えるだろう。言い換えれば、賢治はあれだけ親しかった同僚の堀籠に対してさえも直前まで学校を辞することを話していなかった可能性がかなり高いことをこの宗次郎とのエピソードは裏付けているようだ。
 また、「一般社会の目より見れば或いは過激思想として眺めるかも知れない」という宗次郎の推断からは、やはり当時の賢治の言動は過激だと見られていたであろうことも窺い知ることができる。そして、そのような見方は私にも肯えるものである。

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