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『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』はじめに(テキスト形式)

2024-03-19 10:00:00 | 賢治渉猟
       目      次 
はじめに                      1
第一章 「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い        3
 賢治が甚次郎に贈った『春と修羅』再発見 3
 賢治の最も短い詩「草刈」? 5
 賢治の「訓へ」(小作人たれ/農村劇をやれ) 6
 賢治の「訓へ」の矛盾 10
 「賢治精神」を実践しようと努力し続けた甚次郎 12
 大正十五年の未曾有の旱害と多くの救援 15
 賢治一ヶ月弱もの滞京 18
 当時の旱魃被害の報道 21
 「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」 24
 帰花後の賢治の無関心 27
 「本物の百姓」になりたいわけではなかった? 34
 抜きがたい「農民蔑視」 37
 昭和二年は「ひどい凶作であつた」という誤認 41
 昭和二年は「非常な寒い氣候が續いて」という誤認 44
 昭和三年の「ヒデリ」 49
 昭和三年の賢治の稲作指導 54
 「涙ヲ流サナカッタ」ことの悔い 59
第二章 「羅須地人協会時代」終焉の真相        63
 「演習」とは何か 63
 「かつての賢治年譜」の検証 64
 「逃避行」していた賢治 67
 「演習」とは「陸軍大演習」のことだった 69
 八重樫賢師について 72
 警察からの圧力と賢治の対処 73
 「自宅謹慎」 78
 書き残していなかったという事実 80
 論じてこられなかった理由と意味 83
 仮説を裏付けている賢治自身 87
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》 89
第三章 伊藤ちゑと高瀬露              92
 「伊藤ちゑから見た賢治」 92
 思考実験「悪女にされた切っ掛け」 94
 賢治宛来簡が実は存在している 98
おわりに                      101
《用語について》
・「下根子桜」=下根子桜の「宮澤家別宅」のあった場所
・「羅須地人協会時代」=「下根子桜時代」
      =宮澤賢治が「下根子桜」に住んでいた2年4ヶ月
・『校本全集第14巻』=『校本宮澤賢治全集第十四巻』
(筑摩書房)
・『新校本年譜』=『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)
年譜篇』(〃)
・帰花=花巻に帰ること
《引用文について》ゴシック体にしてある。

はじめに

 実は、私は宮澤賢治の妹シゲの長男岩田純蔵教授の教え子である。その岩田先生が今から約50年ほど前、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋られなくなってしまった。
というような意味のことを私たちの前で嘆いたことがあったのだが、当時私の尊敬する人物は他ならぬ賢治であり、甥にあたる岩田先生のその話がずっと気になっていた。
 そこで、九年程前に定年となってやっと時間的余裕が生じたので少しずつ賢治のことを調べ始めた。すると、『新校本年譜』等において、常識的に考えればこれはおかしいという点がいくつか見つかるのだった。それは例えば次のようなものである。
(1) 大正15年7月25日には、
 賢治も承諾の返事を出していたが、この日断わりの使いを出す。使者は下根子桜の家に寝泊りしていた千葉恭で午後六時ごろ講演会会場の仏教会館で白鳥省吾にその旨を伝える。
とあるからだ。もしこれが記述どおり事実であったとするならば、「羅須地人協会時代」の賢治は「独居自炊」とは言い切れないから「通説」とは違うことになる。
 そこで私なりに検証してみたならば、やはりそうだったということを実証できたので、平成23年に拙著『賢治と暮らした男―千葉恭を尋ねて―』(自費出版)でそれを公にした。
(2) 大正15年12月2日には、
 セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れがたく冷たい腰かけによりそっていた。
とあり、その典拠は澤里武治のある証言だと『新校本年譜』は述べている。ところが、その証言に従えば同年譜には致命的な欠陥が存在することになる。そこで、この欠陥を解消できる仮説を立ててみたところそれが検証できたので平成25年に拙著『羅須地人協会の真実―賢治昭和二年の上京―』(自費出版)にてそのことを公にした。
(3) かつての「賢治年譜」の昭和3年8月の記述、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
についてもやはりおかしいと感じたので、そのことを検証して、平成25年に小冊子『羅須地人協会の終焉―その真実―』(自費出版)にてそのことを公にした。
(4) となれば、いわゆる「高瀬露悪女伝説」も然りで、これはおそらく捏造だろうと直感したので、その検証をしてみたところやはりそれは捏造であり、その捏造された伝説を全国に流布させた責任は『校本全集第14巻』にあるということを実証できたので、それを「聖女の如き高瀬露」と題して、平成27年に『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)の中で公にした。
 以上のことなどを通じて、
 とりわけ「賢治伝記」に関しては、常識的に考えておかしいと思ったところは実はいずれもほぼおかしい。
と判断しても間違いないということを確信するようになった。そしてこのようなことが、恩師が私たちの前で嘆いた「いろいろなこと」の具体事例なのだと合点したのだった。
 また一方で、これらのことを調べてみて特に感じたことは、私が理系出身だから特にそう感じたのかもしれないのだが、少なくともかつての賢治研究においては、裏付けも取らず、検証もせずに、しかも典拠を明示せずにいともたやすく断定表現をしている個所が少し多過ぎるのではなかろうかということである。まずは自分で直接原典に当たり、実際自分の足で当地に出かけて行って自分の目で見、現地で直接関係者から取材したりした上で、自分自身も考えるということなどがもっともっと必要だったのではなかろうか。
 さて、前置きが長くなったが、この度このような拙著『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』を自費出版した。実は、拙論「「涙ヲ流サナカッタ」ことの悔い」が平成27年度岩手芸術祭の「文芸評論」部門で「奨励賞」をいただけた。そこでそれに加筆して詳述した拙論「「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い」として書き直して、それを第一章とした。その大きなテーマは二つあり、一つは松田甚次郎に賢治が贈った『春と修羅』が再発見され、その外箱には賢治が詠んだと思われる短い詩「草刈」が手書きされていたということである。もう一つは、賢治が大正15年の紫波郡赤石村等の大旱害に際して一切「涙ヲ流サナカッタ」ことの事実とその悔いについてである。
 第二章は、前掲の『羅須地人協会の終焉―その真実―』の一部分が会話形式になっているので、普通の論述形式のものに仕立て直したものである。澤里武治宛書簡中の「演習」とは「陸軍大演習」のことであったということを手がかりとし、いわゆる『阿部晁の家政日誌』から知ることができる当時の花巻の天気等を基にして、この時に賢治が実家に戻ったのは病気のためというよりは、当時岩手で行われた凄まじい「アカ狩り」に対処するために「下根子桜」から撤退し、豊沢町の実家で謹慎していたためだったということを実証したもので、「羅須地人協会時代」の終焉の真相を探ったものである。
 第三章には、先に『宮沢記念館通信第112号』に拙論「伊藤ちゑからみた賢治」を載せてもらったのだが、それは、今まであまり世に知られていなかった伊藤ちゑのある書簡等を基にして、ちゑと賢治の関係の新しい見方を示したものであり、それを転載した。なおその後、ちゑが賢治との見合いのために花巻に訪れた時期をほぼ確定できたので、そのことを踏まえて高瀬露とも関連するある仮説を見出そうと試みた思考実験等を最後に付け加えてある。
 したがって、第一章~第二章は、基本的には「仮説検証型」の論考であるが、最後の章はまだ仮説の段階であることをお断りしておく。

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