みちのくの山野草

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「獨居自炊孤座默念」

2024-02-03 14:00:00 | 独居自炊の光太郎
〈『山荘の高村光太郎』(佐藤勝治著、現代社)〉

『山荘の高村光太郎』(佐藤勝治著、現代社)の中の項「雪白く積めり」において、こんなことを佐藤勝治は紹介していたことに気付いた。

 その頃私は友人間に、「ポラーノの広場」というパンフレットを出しておりましたが、先生はその紙上に、「消息」として二度、次の文章を載せて下さいました。

 小屋のまわりの積雪は、既に平均二尺に及んでいますが、小屋がよい山懐にあるので存外風當りは尠し。寒さの厳しさは一月にならないと分かりません。雪中生活の新鮮さ、小屋をとりまく潮騒のやうな風聲の物凄さ、皆生れて初めての體驗です。この大摩詰が詩中の天地に、今日の場合、安全に生きてゐられるありがたさと濟まなさを痛感してゐます。
 勉強あるのみ。(十二月十九日 太田村山口にて)

 何もかも生れてはじめての新年を迎へました。祖國の運命は開闢以来の難關にさしかかつてゐるし、私自身としては自分の故郷を離れて新年を祝つたのは、これまでたつた一度銚子の海岸へ初日出を拜みに行つたことがあるだけで、毎年必ず自分の家の神だなの下で祖先を偲びながら、お雜煮をいただいたものでした。しかし私は今希望に滿ちてゐます。
 山に來てから健康は倍加するし、未來の仕事は大きいし、獨居自炊孤座默念、胸の膨らむ思ひです。
 謹んで諸兄に年頭の賀をおくります。(昭和二十一年一月二日 太田村山口にて)
             〈『山荘の高村光太郎』(佐藤勝治著、現代社)58p~〉

 先ずは前半についてだが、この時思い出すのは『啄木 賢治 光太郎』の中の次の記述だ。
 岩大教授の佐々木一郎(六一)は、小屋にたどり着いて「高村先生」と声をかけ、例の声で「おう」という返事がなければ、凍死してしまったんじゃないかと本気で考えたという。山口の冬はきびしかった。光太郎がふとんの上に軍隊毛布をかけ、さらにその上にゴザで覆って寝ても、朝目が覚めるとそのゴザの上にはうっすらと雪が積もっていた。
             〈『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)219p〉
 これに似た光太郎のふとんのかけ方は他の著書でも書いてあったはずだから、これはそれほど間違ってもいなかろう。にも拘わらず光太郎が「今日の場合、安全に生きてゐられるありがたさと濟まなさを痛感してゐます」と謙虚に述べているところに、私はまたまた光太郎の魅力を知ってしまった。
 次に後半についてだが、そこに「獨居自炊孤座默念」という記述を見つけて嬉しくなった。というのは、羅須地人協会時代の賢治が「独居自炊」はあったと広く言われるようになったのは昭和52年以降である。一方で、それ以前に詩人等で「独居自炊」であったと言っていたのは光太郎であり、それは昭和26年発行の光太郎著『獨居自炊』によってであろう、と私は今まで考えていた。ところが実はそうではなくて、それ以前の昭和21年に光太郎は既に公的に自分は「獨居自炊」であると言っていたことになることを知ったからである。

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 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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