みちのくの山野草

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「賢治通説」の危うさ

2015-09-20 09:00:00 | 賢治渉猟
 後々、「平成27年9月19日は一度議会制民主主義が死んだ日だった」と歴史から裁きを受けるでしょう。

 先日N氏の論考「「雨ニモマケズ」再論」を読んでいた。するとそこには、例えば次のような、
(1) わたしたちにはすぐに、一九二七年の冷温多雨の夏と一九二八年の四〇日の旱魃で、陸稲や野菜類が殆ど全滅した夏の賢治の行動がうかんでくる。当時の彼は、決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった。「オロオロアルキ」ばかりしてはいない。
             <『宮沢賢治 その独自性と同時代性』(N著、翰林書房)173pより>
(2) 一九二八年の旱魃の際も、東京・大島旅行の疲れを癒やす暇もなく、イモチ病になった稲の対策に走りまわり、その結果、高熱を出し、倒れたのである。
             <上掲書の174pより>
(3) 一九二七年、二八年の天候不順による農作物の被害と、二八年の発病に始まった病苦、死苦の体験は、賢治に自分の力の限界を感じさせ、
             <上掲書の176pより>
という記述があった。言い換えれば、これが巷間流布しているいわゆる「賢治通説」であろう。しかし、自分の手で検証していない「賢治通説」には危うさがあり、その扱い方は難しいと私は肝に銘じている。

 さて、私はこれらの記述に出会って二つの疑問を抱いた。その第一は、
 「「雨ニモマケズ」再論」ということでN氏は時代的には「羅須地人協会時代」を対象として論じているから、それは大正15年~昭和3年、すなわち一九二六年~一九二八年に相当するわけだが、この3年間の中で近隣農家が一番辛かったのは大正15年の飢饉にも近かった大干魃であるはずだが、どうして一九二六年のこの大干魃に関わる部分の論考をしていないのだろうか。
ということである。
 そしてその第二は、
 N氏ははたして自分の手で、一度「一九二七年、二八年の天候不順」や賢治の営為を検証しているのだろうか。
ということである。

 そしてもしN氏がこれらのことを行っていれば、その結論は大分違ったものになったのではなかろうかと私には思われる。ちなみに、前者の大正15年の大干魃に際しては既に何度か拙論を投稿している(例えば〝「涙ヲ流サナカッタヒデリノトキ」〟や〝当時の賢治の社会認識〟)ように、全国から陸続とこの大干魃に対して救援の手が差し伸べられていたというのに、賢治は何一つこの時の大干魃に対して救援の活動も、詩に詠むことさえもしていなかっと言ってもいいくらいだからだ。そして、このN氏のみならずなぜ賢治研究家の誰一人としてこのことについて論じていないのだろうか。少なくとも、当時の新聞報道等で検証してみた限りでは、この時の大干魃による被害は「一九二七年、二八年の天候不順による農作物の被害」とは比べも似にならないほどの惨憺たるものであったというのに<*1>。
 だから私とすれば、大正15年のこの大干魃の際の賢治については、
 「決して「ナミダヲナガシ」ただけではなかった」ということではなくて、それよりは残念ながら、「決して「ナミダヲナガシ」はしなかった」ということの方がより真実に近い。
ということに目を背けてはならないということだと言いたい。
 それから、後者については私が検証してみた限りではどうやら歴史的事実とは違っている部分も少なくないようなので私見を述べてみたいのだが、それは次回へ。

<*1:註> まるでそのような惨状などなかったかの如きこの年12月の約一ヶ月の滞京を含む賢治の大干魃の完全無視、誰一人として当時そのような大干魃があったということで言及している賢治研究家がいないという完全無視、これらが私には二重写しに見えてしまう。

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