みちのくの山野草

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一次情報に立ち返って自分の頭と足で

2021-02-01 16:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
〈『【賢治】の心理学』(矢幡洋著、彩流社)〉

 続けて矢幡氏は、
 これを見ると、賢治も露に対してかなり歓待している。しかも、この後も、露の単独訪問は続くのである。清六が人を紹介しに行ったとき、賢治が露と二人だけでいたことがあった。また、森佐一がこの年の秋、初めて訪問したとき、道で偶然、たった今賢治の許を辞してきた露とすれ違っている。森は、露は上気した顔色で美しく、派手な着物を着ていたと回想している。森を迎えた賢治は、「女の人とすれ違ったでしょう。女臭いから、いま風を入れます」と言った。
             〈148p~〉
と、相変わらず断定調の記述をしている。しかし、たとえば「森佐一がこの年の秋、初めて訪問したとき、道で偶然、たった今賢治の許を辞してきた露とすれ違っている。森は、露は上気した顔色で美しく、派手な着物を着ていた」は、先に述べたのと同じ理由で、この現場に居合わせることは矢幡氏にはできない。では同氏は、一体何を典拠にしているのか。残念ながらそれを明らかにしていない。が、考えられるものはこれまた先に揚げた森荘已池の追想「昭和六年七月七日の日記」でしかあり得ない。すれ違ったのは森と露の二人だからだ。
 ではその当該部分はどのようなものかというと、下掲の通りだ。
 一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。國道から田圃路に入つて行くと稻田のつきるところから、やがて左手に藪、右手に杉と雜木の混有林に入る。靜かな日差しのなかに木の枯れ葉が匂い、堰の水音がした。
 ふと向こうから人のくる氣配だつた。私がそれと気づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。(濕つた道と、そのひとのはいているフェルトの草履が音をたてなかったのだ。)私は目を眞直ぐにあげて、そのひとを見た。二十二三歳の女の人で和服だった。派手ではなかったが、上品な柄の着物だった。私はその顔を見て、異常だと直感した。目がきらきらと輝いていた。そして丸顔の両頰がかっかっと燃えるように赤かつた。全部の顏いろが小麦いろゆえ、燃える頰はりんごのように健康な色だった。かなりの精神の昂奮でないと、ひとはこんなにからだ全体で上気するものではなかつた。
 歓喜とか、そういう単純なものを超えて、からだの中で焰が燃えさかつているような感じだった。
 私はそれまで、この女の人についての知識はひとかけらも持ち合わせていなかつた。――が、宮沢さんのところを訪ねて帰つてきたんだなと直感した。私は半身、斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振り返らなかつた。
 畑のそばのみちを通り過ぎ、前方に家が見えてきた。二階に音がした。しきりにガラス窓をあけている賢治を見た。彼は私に氣がつくと、ニコニコツと笑つた。明るいいつもの顔だつた。私たちは縁側に座を占めた。彼はじつと私の心の底をのぞきこむようにして
「いま、とちゆうで会つたでしよう?」
といきなりきいた。
「ハアー」
と私が答え、あとは何もいわなかつた。少しの沈默があつた――。
「おんな臭くていかんですよ。」
彼はそういうと、すつぱいように笑つた。彼女が残して行つた烈しい感情と香料と体臭とを、北上川から吹きあげる風が吹き拂つて行つた。そして彼はやつと落ちついたらしかつた。
             〈『宮沢賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)74p~〉
 すなわち、これが今回の場合の一次情報である。そして私たちは、論考する際には必ず一度一次情報に立ち返る必要があるはずだ。それは、あの石井洋二郎氏の式辞における
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、「教養学部」という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。
という警鐘を重く受け止めねばならないはずだからだ。さもないと、「肥った豚よりも痩せたソクラテスになれ」の三つの間違いにも気がつかないのと同様に、この前掲の引用文の中の間違いにも気付かないことになる。つまり、
 森佐一がこの年の秋、初めて訪問したとき、道で偶然、たった今賢治の許を辞してきた露とすれ違っている。森は、露は上気した顔色で美しく、派手な着物を着ていたと回想している。森を迎えた賢治は、「女の人とすれ違ったでしょう。女臭いから、いま風を入れます」と言った。
が事実であると思ってしまう。しかしこれが事実でないことは、拙論「私たちは今問われていないか― 賢治と〈悪女〉にされた露 ―」で実証したとおりである。また、そこまでせずとも、「昭和六年七月七日の日記」で確認すれば、たとえば、「派手ではなかったが、上品な柄の着物だった」と森は言ってはいるが「派手な着物を着ていた」などとは言っていないことは直ぐ判るから、これは推測じゃないですかとか、風聞じゃないですかとか、訝られることを防げるからだ。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
            ☎ 0198-24-9813
 なお、目次は次の通り。

 〝「宮澤賢治と髙瀨露」出版〟(2020年12月28日付『盛岡タイムス』)
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