みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「宮沢先生が石灰岩抹といわぬ日はなかった」

2021-01-24 18:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
〈『宮澤賢治と東北砕石工場の人々』(伊藤良治著、国文社)〉

 ある時、次の記述内容を知って私はハッとしたことがある。それは『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)の中の「肥料展覧会と石灰工場の技師」という章に述べられていた次の記述にである。
 このような両者(賢治と鈴木東蔵のこと:投稿者註)の交流は、昭和の初年に羅須地人協会で活躍していた宮沢賢治が花巻地方の農民たちに石灰肥料の施用をひろく奨励していたことが要因となっているのである。
 しかし宮沢賢治が炭酸石灰の効用を説いたのは更にふるく、すでに花巻農学校の教師時代からであった。当時の在校生たちは「カラスの鳴かない日はあっても、宮沢先生が石灰岩抹といわぬ日はなかった」と語っており、口の悪い生徒は「また先生の岩抹か」とさえ言うほどだったといわれている。
            〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)215p〉
 そうか、賢治は花巻農学校勤務時代から既にそうだったのか、ということでハッとしたのだった。そして私は、「宮沢先生が石灰岩抹といわぬ日はなかった」という当時の生徒たちの証言内容は否定できないぞと覚った。それは、著者の菊池忠二は実証的な賢治研究家としてよく知られているし、私も何度か直接指導していただいたこともあり、その実証的な研究姿勢を私は肌でひしひしと感じたいたからだ。したがって、これらの生徒の証言もそのような研究姿勢によって得られたものであるということは間違いないはずだ。
 そこで、さらに同書を読み進めると、
 大正十三年五月に行われた、農学校生徒たちの北海道修学旅行の「復命書」にも、
「北海道石灰会社石灰岩抹を販るあり。これ酸性土壌地改良唯一の物なり。米国之を用ふる既に年あり。内地未だ之を製せず。早くかの北上山地の一角を砕き来りて我が荒涼たる洪積不良土に施与し、草地に自らなるクローバーとチモシーの波を作り、耕地に油々漸々たる禾穀を成ぜん。」
と石灰岩抹の効果と、その施用について、つよい願望が記されている。これをみても宮沢賢治の石灰肥料に寄せる関心の深さが知られるのである。
             〈同215p〉
と続けられていた。そこで、「証言内容は否定できないぞと覚った」ことはどうやら間違ってはいなかったようだと安堵した。
 そして私は膝を叩いた。これだなと。「クローバーとチモシーの波を作」るためには「石灰岩抹」を施用することが一番だと、花巻農学校勤務時代に既に賢治は確信していたに違いない、と。つまり、牧草を沢山収穫するためには「石灰岩抹」を牧草地に撒かねばならないのだと賢治は確信していたに違いない。そしてまた、「復命書」には「耕地に油々漸々たる禾穀を成ぜん」とも賢治は書いていたのだから、その「石灰岩抹」は「禾穀」にもいいものだと認識していたということも解る。しかも、「禾穀」とは稲のこと、あるいは穀物の総称のことだというから、稲にもその他の穀物にも「石灰岩抹」はとてもいいものだと認識したいたということも解る<*1>。賢治は「石灰岩抹」に相当の思い入れがあったと言えそうだ。
 だがしかし、このことに関してはたとえば以前の投稿、〝稲の最適土壌は中性でも、ましてアルカリ性でもない〟でも取り上げたように、それぞれの作物の最適な土壌のpHは下表の通りだから、

岩手の「洪積不良土」の「酸性土壌地改良」のためにむやみやたらに「石灰岩抹」を撒けばいいというわけではないことは明らか。過ぎたるは及ばざるがごとしはこの場合でも当然であろう。
 言い換えれば、賢治は「石灰岩抹」の施用は薦めていても、私は今まで賢治が「作物に最適な土壌のpH」について言及している資料や証言を私は見つけられずにいるが、それは何故なのだろうか。そして、その答のヒントは「宮沢先生が石灰岩抹といわぬ日はなかった」という生徒たちの証言に隠されていそうだと私はふと思った。

<*1:投稿者註> ところが、羅須地人協会時代になると、賢治はこれが間違っていたことに気づいていたはずだ。というのは、
 羅須地人協会時代に用いた資料『土壌要務一覧』の中で、賢治は、
 耕土ノ反応ハ中性ヲ望ム。洪積台地ハ、殆ド酸性デアル。…筆者略…尤モ水稲陸稲小麦蕎麦ハ酸性ニモ耐ヘル。………②
と書いていたことを私は知ったからである。なんと、「水稲陸稲小麦蕎麦ハ酸性ニモ耐ヘル」と書いているわけだから、賢治もまた「稲は酸性に耐性がある」と認識していたということになる。よって、稲の場合にはあえて石灰岩抹を施与する必要はないと判断していたので、「賢治は、石灰岩抹を使わなかったり、使用量もまちまちだったりした」ということは当然あり得ることだと
             〈『第73回岩手芸術祭県民文芸作品集第51集』105p~所収の「宮澤賢治の「稲作と石灰」について」(鈴木 守)より〉
からである。
 さらに、羅須地人協会時代に使っていた〔教材絵図 四九〕を賢治は作ったわけだが、この絵図からは、
    石灰を施与することはかえって害になるとか、せいぜい加えないことと同じだったということがある。………③
ということが導かれるし、このことを賢治が気づかぬはずがなかったはずだ。したがって、東北砕石工場技師時代の賢治はかなりの葛藤があったことであろう。つまり、
  …投稿者略…同工場技師時代の賢治は自身の石灰岩抹施用の理論等についての葛藤や後ろめたさ、そして苦悩等があったと思われるからだ。
 どういうことかというと、羅須地人協会時代に既に「稲は酸性に耐性がある」ということを賢治は知っており、石灰施与のリスク〝③〟も知っていたはずなのに、同工場技師時代になってからは、それらのことを等閑視せざるを得ないという現実、はては枉げたり話を盛ったりせざるを得ないという現実から賢治は逃れられなかったはずだ。つまり、羅須地人協会時代までは不羈奔放に生きてきた賢治だったが、炭酸石灰を大々的に宣伝・販売するという商行為に携わるようになってからは売らんが為に、それは社会人であれば誰でも経験することではあると思うのだが、綺麗事だけでは済まなくなったはずだ。ちなみにその一例が、「オールマイティで、いいことずくめの炭酸石灰」の宣伝広告の作成だと私は思う。
            〈同113p~〉

 続きへ
前へ 
 〝賢治の「稲作と石灰」〟の目次へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。

《新刊案内》
 『宮沢賢治と高瀬露―露は〈聖女〉だった―』(「露草協会」、ツーワンライフ出版、価格(本体価格1,000円+税))

は、岩手県内の書店で店頭販売されておりますし、アマゾンでも取り扱われております
 あるいは、葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として当該金額分の切手を送って下さい(送料は無料)。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
            ☎ 0198-24-9813
 なお、目次は次の通り。

 〝「宮澤賢治と髙瀨露」出版〟(2020年12月28日付『盛岡タイムス』)
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 雪宝頂山麓(7/10)青いケシ... | トップ | 松田甚次郎の「滿州移民」論 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

賢治の「稲作と石灰」」カテゴリの最新記事