みちのくの山野草

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田中智学の再検証が必要ではなかろうか

2018-03-13 14:00:00 | 法華経と賢治
《『イーハトーブと満州国』(宮下隆二著、PHP)の表紙》

 さて、上田哲によれば、
 しかし、国柱会の運動が国体中心主義となり、軍部のファッショ化に信念を与える役目を果たすようになったので、賢治はこれに批判的となり、国柱会を離れるようになったとか、羅須地人協会の実践は、国柱会運動のアンチテーゼであるとか、賢治は完全に智学の影響を脱し、純粋な法華経信仰に生きるようになったなどと説く人々が、かなりいる。けれどもそれらの説は、実証的裏付けに乏しく主観的である。
             〈『宮澤賢治 その理想世界への道程 改訂版』(上田哲著、明治書院)71p〉
ということだが、宮下隆二氏によれば、
 国柱会は、戦中に智学を喪い、多くその影響力を減じた。戦後もその命脈は保たれてはいるものの、もはやかつてのような存在感はない。
             〈『イーハトーブと満州国』(宮下隆二著、PHP)106p〉
ということで、私はどうも違和感を感じていた。そこで、そう感じたのは何故だったのだろうかということを、少しく考えてみた。

 まず、そもそも田中智学はいつ亡くなったのかといえば、昭和14年11月17日(享年77歳)だという。そして、太平洋戦争(≒ 大東亜戦争)がいつ始まったのかというともちろん昭和16年12月8日だ。ということは、太平洋戦争が始まる約2年前に智学は既に亡くなっていたことになる。ということであれば、「国柱会の運動が国体中心主義となり、軍部のファッショ化に信念を与える役目を果たすようになった」ということであったとしても、智学が直接的に影響を及ぼしたということは物理的にはあり得ない。あるいはそうではなくて、大東亜戦争は昭和12年7月7日の蘆溝橋事件に端を発したという見方であれば、もちろんその時点では智学はまだ存命中だから直接影響を与えてということはあり得るだろうが、この日からの翌々年の11月17日までの2年ちょっとの期間で、智学独りだけが「軍部のファッショ化に信念を与える役目を果たすようになった」とは言えないだろう。よって、智学がではなくて、智学の国体思想が戦争遂行のために利用されたというのが大体妥当な判断ではなかろうか。

 そこでこのことを賢治に当て嵌めてみれば、賢治も没後に太平洋戦争下で戦意高揚に利用されたわけだから、智学の場合とは全くちがうとは言い切れない。そうではなくて、どちらかというと既に亡くなった身でありながら共に戦意高揚に利用されたという同じ構図にあるとも言えそうだ。さて、ではこの場合の両者の違いは何か。

 それは、(智学自身ではなくて)智学の唱えた国体中心主義が「軍部のファッショ化に信念を与える役目を果たすようになった」が、一方の賢治はそのような主義を掲げたわけでもなければそのよう運動をしたわけでもないからそれが違いだ、という人もあろう。たしかにそれが両者の違いと言えるが、賢治が望んでいたわけではもちろんないにしても、「雨ニモマケズ」が戦意高揚に利用された事実は否定できない<*1>わけだから、両者が全くちがうとは言い切れない。なおかつ、あの「雨ニモマケズ」は国柱会の影響をかなり受けて書かかれたものであるということは、ほぼ疑いようがない<*2>。よって、「雨ニモマケズ」と「国柱会の国体中主義」とは通底していた。言い換えれば、「雨ニモマケズ」は「国柱会の国体中主義」を内包していたと言えるのではなかろうか。だからこそ逆に、「雨ニモマケズ」は戦意高揚のために利用されたのだ、とも。

 さてこれで、「私はどうも違和感を感じていた。そこで、そう感じたのは何故だったのだろうか」という自問に対してのおぼろげな回答が見つかり始めた。それはまず、智学と賢治に対する評価は公平ではないからだということである。ではもっと賢治も厳しく評価されねばならぬのかというと、そんなことを私は今更言いたいわけではない。二人は似たような点がありながらも賢治は相変わらず高く評価され続けているのだから、それは、智学に対しても同様な論理を一度は適用してみる必要があるのではなかろうかということを言いたいのだ。まして智学は、賢治が少なくともある時期崇拝し切っていたほどの人物<*3>なのだから、智学はかなり魅力的な人物であるとも言えそうなので、現在はほぼ全否定されている智学といえども、一度冷静になって智学を再検証してみることが必要なのではなかろうか、と私は言いたいのである。これが現段階での自問に対する自答となった。 

<*1:投稿者註> 小倉豊文は、論考「宮沢賢治の「雨ニモマケズ」と彼の供養塔について」において、
 各地に「宮沢賢治の会」(地方によって名称異なる)の生まれたのは早くからであるが、詩人・文学者としてよりも第二次世界大戦敗戦までの日本の小学校では必ず「修身」の教材になり、校庭に必ずその銅像があった二宮金次郎の如く、農業・農民の方面から神格化が著しかった。これは賢治が農学校教師であり、農村の技術指導者であったが故ばかりではなく、前述したように当時の日本政府が満州の勢力確保の為に国民の満州移民を強行し、強引に設立した満州国が、「王道立国・五族協和」をスローガンとしていた為に、これら新古・内外の農民の精神的支柱に賢治が利用されたからである。そして、その中心材料が賢治の詩「雨ニモマケズ」であって、それが島崎藤村の「千曲川古城のほとり……」と並んで現代詩の代表として漢訳せられ、「北國農謡」と題せられたのは、一九四一(昭和十六)年だったのである(北京大学教授銭稲孫訳、北京近代科学図書館編)。日本においても時局に伴う農村・工場・事業等の強制労働鼓舞の為に、「雨ニモマケズ」が利用されたことが頗る多く、詩集・童話集・伝記的著作の出版も枚挙に暇がなき程だったのである。
              <『雪渡り 弘前・宮沢賢治研究会誌』(宮城一男編、弘前・宮沢賢治研究会、平成5)51p~>
と論じていた。
<*2:投稿者註> 宮下隆二氏によれば、「雨ニモマケズ手帳」の冒頭の句は、
 国柱会会員必携の『妙行正軌』の巻頭にある句で、法華経の「如来神力品第二十一」からの引用である
ということだし、「雨ニモマケズ手帳」の末尾には曼荼羅が書かれているからだ。
<*3:投稿者註>  大正9年12月2日付保阪嘉内宛書簡(178)には、
  今度私は
  国柱会信行部に入会しました。即ち最早私の身命は
  日蓮聖人の御物です。従って今や私は
  田中智学先生の御命令の中に丈あるのです。
     …(投稿者略)…
  田中先生に 妙法が実にはっきり働いてゐるのを私は感じ私は信じ私は仰ぎ私は嘆じ 今や日蓮聖人に従ひ奉る様に田中先生に絶対に服従致します。御命令さへあれば私はシベリアの凍原にも支那の内地にも参ります。乃至東京で国柱会館の下足番をも致します。それで一生をも終ります。
            〈『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)〉
とあるからだ。

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