《創られた賢治から愛すべき賢治に》
『病床の賢治』より大八木敦彦氏は著書『病床の賢治』において次のようなことを紹介していて、その内容は大八木氏が2007年(平成19年)10月に、かつて賢治の付き添い出張看護をしたという当時98歳の女性Tさんから聞き取ったものであるという。
たとえば、Tさんは
(1) 二十歳になったばかりの頃、宮澤さんが病気になったのでそちらへの付添の話が来たんです。
宮澤さんは私より、歳は十二、三くらい上でないかなあ。友達のAさんとふたりでいくことになって、交代で付き添いしましたね。宮澤さんのお宅に泊まり込みでした。宮澤さんは家の二階に寝ておられました。私たちは六畳か八畳か忘れましたが、部屋をもらいました。付添といってもたいした用事はありませんでしたねえ。宮澤さんは風邪をひいて、肺炎をおこして寝ていらっしゃるようでした。
<『病床の賢治』(大八木敦彦著、舷燈社)10pより>宮澤さんは私より、歳は十二、三くらい上でないかなあ。友達のAさんとふたりでいくことになって、交代で付き添いしましたね。宮澤さんのお宅に泊まり込みでした。宮澤さんは家の二階に寝ておられました。私たちは六畳か八畳か忘れましたが、部屋をもらいました。付添といってもたいした用事はありませんでしたねえ。宮澤さんは風邪をひいて、肺炎をおこして寝ていらっしゃるようでした。
とか、
(2) 花巻共立病院の院長先生が、自宅と病院の行き帰りに必ず宮澤さんのお宅の前を通るわけです。院長先生と宮澤さんと親しくなっていて、それでちょくちょく宮澤さんの所へ寄って診察なさってました。そういう時に私たちが介助しました。
<『病床の賢治』(大八木敦彦著、舷燈社)11pより>ということなどを大八木氏に語ってれたという。
また、『看病はどのくらいの間なさってましたか?』という大八木氏の質問に対しては
(3) 十二月から一月くらいまでだったでしょうか。二ヶ月ほどやっていたわけですね。
<『病床の賢治』(大八木敦彦著、舷燈社)13pより>と、同じく『他に賢治のことで覚えていることは何かありませんか?』という質問に対しては
(4) 付き添いが終わって最後に帰る時に、宮澤さんが本を下さいました。いろいろお世話になりました。とおっしゃってね。私とAさんとふたりで交代に付き添いをしていたんですが、本をもらったのは私だけでしたよ。どういうわけでしょうかねえ……。
<『病床の賢治』(大八木敦彦著、舷燈社)14pより>と、それぞれ証言してくれたということになる。
Tさんの証言から言えること
さて、前々回投稿した安藤のぶ看護婦の場合には、その付き添い出張看護期間については安藤自身は語っていないし、その確定はなされていないようだが、こちらの看護婦Tさんの場合には、〝付き添い出張看護期間=昭和3年12月~昭和4年1月の約2ヶ月間〟であるということを具体的に答えている。
なお、この期間について大八木氏は
(5) Tさんが看護にあたったのは一九二八年(昭和三年)の十二月から翌一九二九年(昭和四年)二月にかけてであった。
<『病床の賢治』(大八木敦彦著、舷燈社)27pより>と修正している。それは、Tさんが証言の中で「花陽館」の火事に触れていたことによる修正であるから、この大八木氏の判断
付き添い出張看護期間=昭和3年12月~昭和4年2月にかけてである。
の方がより正確であろう。
また安藤の場合、付き添い出張看護を2人でしたということには言及していないが、「友達のAさんとふたりでいくことになって、交代で付き添いしましたね」とか「私とAさんとふたりで交代に付き添いをしていたんですが、本をもらったのは私だけでしたよ」というようにAさんに関する具体的なTさんの証言がいくつかあるので、
付き添い出張看護は2人行った。
ということも、ほぼ事実であったであろうと考えられるし、実際そうせねば大変であったであろう。
またもちろん、
付き添い出張看護をしていた頃の賢治は重篤であった。
ということも言えよう。そして、その頃佐藤隆房は共立花巻病院への行き帰りにしばしば賢治の容態を診ていたということもほぼ事実であったであろう。
現時点での判断
ところで、『宮沢賢治の道程』によれば、
安藤のぶは三十日間の出張看護を務め、賢治の危急に付添い看護したあと白鳥みさおと交替したのであった
<『宮沢賢治の道程』(吉見正信著、八重岳書房)260pより>ということでもある。
したがって、賢治の付き添い出張看護をした看護婦としては
・安藤のぶ看護婦
・白鳥みさお看護婦
・A看護婦
・T看護婦
の4人が考えられるし、この中には重複している人物もいるかもしれないが、この4人のうちの白鳥は安藤の後任であるということであり、他の3人の看護婦は前任者から付き添い出張看護を引き継いだということは証言していないし、検証もされていないようだから、
付き添い出張看護が始まったのは昭和3年の12月である。
という可能性がかなり高いと判断できる。
よって、
八月十日からの《四十日》は、佐藤隆房花巻病院長の判断で、看護婦を宮沢家に派遣することにしたのである。……①
というこはなさそうだ。つまり、この〝①〟については、佐藤隆房も、前掲の看護婦のいずれも証言していなようであり、〝八月十日からの《四十日》は、〟部分はどうやら吉見正信氏の判断によるものであるようだ。また、
8月10日~9月20日の40日間のうちの30日間を看護婦安藤のぶは賢治に付き添って出張看護したが、賢治の病状はかなり重篤だった。……②
とも言えないであろうこともわかる。したがって、あくまでも、
佐藤隆房花巻病院長の判断で、賢治の付き添い看護婦を宮澤家に派遣することにしたのは昭和3年12月に入ってからのことであり、その頃以降賢治の病状はかなり重篤であった。
というのが現時点での私の判断である。私はとりあえず安堵
ということで〝三十日間の出張看護〟において、私は
賢治は昭和3年8月10日から実家にもどって蟄居・謹慎していた。……③
というこれまで私が掲げてきた仮説があえなく棄却されてしまうのではなかろうかと一時不安になったが、ここまで調べてみた結果、どうやらその不安は払拭できたようだ。私はとりあえず安堵したし、改めて〝③〟は検証に耐えうるであろうことを確信した。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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