みちのくの山野草

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思考実験<賢治ちゑに結婚を申し込む>

2024-02-12 08:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露

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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 思考実験<賢治ちゑに結婚を申し込む>
吉田 さて思考実験の続きだが、昭和6年9月 賢治が東京に「家出」をしようと思ったのは、もちろんちゑと結婚しようと思ったからだ。
鈴木 確かにそう言われてみれば、『宮澤賢治』(佐藤隆房)や『宮澤賢治と三人の女性』によれば、
   伊藤さんと結婚するかも知れません
と賢治がほのめかし、ちゑのことを
 ずつと前に話があつてから、どこにも行かないで待つてゐるといはれると、心を打たれますよ。
と認識し、しかも、
 禁欲は、けつきよく何にもなりませんでしたよ、その大きな反動がきて病氣になつたのです
と悔いていたようだから、この頃になると賢治は独身主義を棄て、賢治はちゑならば
   自分のところにくるなら、心中のかくごで
来てくれると思っていた節もあり、この頃の賢治はいよいよちゑと結婚しようと決意した、という可能性はないとは言えない。
荒木 しかも森の「『三原三部』の人」によれば、
 けれどもこの結婚は、世の中の結婚とは一寸ちがつて、一旦からだをこわした私ですから、日常生活をいたわり合う、ほんとうに深い精神的なものが主となるでせう。
<『宮澤賢治と三人の女性』(森荘已池著、人文書房)115p~より>
というようなところまでも賢治は考えていたようだからな。 
吉田 一方、昭和3年の「逃避行」とも見られる上京の場合と同じように、東北採石工場の仕事も約7ヶ月が過ぎた頃からその仕事も行き詰まってきたのでそこから逃れたくなったこともあって、賢治はちゑとの結婚を決意、東京に出て「東北砕石工場」の代理店を開いて化粧煉瓦を売ったりしながら生計を立て、「日常生活をいたわり合」いながらちゑと一緒に暮らそうと計画した。そしていよいよ昭和6年9月19日、化粧煉瓦を詰めたトランクを持って花巻を後にした。
荒木 どうだべがな?
吉田 まあまあ、単なる思考実験だ。続けよう。
 もちろん、上京した賢治はいの一番にちゑの許を訪ねてその決意をちゑに伝え、結婚しようと切り出した。ところが、「ずつと前に私との話があつてから、どこにもいかないで居るというのです」と認識していたのは賢治の方だけ。先に明らかにしたように、一方のちゑはもはや賢治と結婚するつもりは全くなかったからきっぱりと断った。
荒木 しかも兄七雄が急逝したばかりだから、なおさらきっぱりとその申し出を断ったということもありかもな。
吉田 それもあると思う。
 もちろん、賢治の方は予想だにしていなかったちゑの拒絶にすっかり打ちのめされてしまって茫然自失、途方に暮れた。  しかし賢治とすれば「家出」の覚悟だったから、今更直ぐおめおめと実家に戻るというわけにもいかず、とりあえず貸屋探しを菊池武雄に依頼。
荒木 そうか。「家出」の覚悟だったからこそ、上京して直ぐに熱発しても頑なに実家に戻ることを当初は拒み、なおかつ東京で住む家まで探していたということか。
鈴木 それにしてもなあ、ちゑとならば結婚してもいいと覚悟を決めて折角「家出」までして来た賢治とすれば、もちろんちゑにその責任がある訳ではないが、賢治としては完全に裏切られたと受けとめただろうな。
荒木 結果、緊張の糸が切れてしまった賢治はその反動でもともと体調不十分だったこともあって途端に熱発、床に伏したということか。するとやはりあれは「遺書」だったかもしれんな。これで何もかも終わり、賢治は夢も希望も失ってしまってもはや生きる望みもなくなり、あの「遺書」を書いた。
吉田 なるほどな。そう言われてみると、荒木のその見方もありかもな。たったあの程度の発熱で着京直後に即「遺書」を書くのかということと、ちゑからの結婚拒絶で受けたショックが元で厭世的になって「遺書」を書いたということとを比べてみれば、後者の方が確かに説得力があるからな。
荒木 なっ。そうとも思えるべ。
吉田 うん、確かに。で、連日の高熱で床に伏しながら賢治は今後のことに思いを巡らした。もはやちゑとの結婚計画も頓挫したから「家出」をする意味もなくなってしまった。当然東京にいる必要もなくなってしまった。切羽詰まってしまった。
鈴木 そこで、9月27日に賢治は父政次郎へ
 もう私も終わりと思いますので最後にお父さんの御聲をきゝたくなつたから……
<『宮澤賢治の手帳 研究』(小倉豊文著、創元社)22pより>
と電話した。その時にどれほどの病状だったかはわからないにしても、精神的にはとことんまで追い詰められていたということだけはたしかであっただろう。
吉田 さあそれはどうだろう。賢治は泣きを入れただけのことかもしれんぞ。というのは、この電話の内容は9月21日付のいわゆる「遺書」の内容と矛盾しているからな。
 とまれ、その電話を受けて父は即刻帰花するようにと厳命。賢治は後ろ髪引かれる思い、あるいは逆に「渡りに舟」だったかもしれないが、いずれにせよ帰花。実家にて病臥した。
鈴木 ちなみにこの時、花巻に戻った賢治は父政次郎に何と言ったか。小倉豊文は『「雨ニモマケズ手帳」新考』に、
 賢治はこの時はじめて父に向って「我儘ばかりして済みませんでした。お許し下さい」という意味の言葉を発したという。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)24pより>
と記している。
荒木 そっか、この謝罪の文言「我儘ばかりして済みませんでした。お許し下さい」がそのとおり事実であったとすれば、この時の賢治は「家出」という決意をして上京したという吉田の「私見」が、俄然説得力を持ってきたな。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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