みちのくの山野草

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変化の切っ掛けは光太郎の随筆『獨居自炊』のようだ

2024-02-20 08:00:00 | 独居自炊の光太郎
《『随筆 独居自炊』(高村光太郎著、竜星閣 )》

 ところが、高村光太郎がそのものズバリのタイトルの『獨居自炊』という随筆集を昭和26年6月に出版していたことを私は知った。そして、光太郎は昭和20年花巻に移り住んでいたから、いわゆる「自己流謫」していた時の太田村山口での出来事などを綴った随筆集かと当初理解した。
 ちなみに、この随筆集の巻頭を飾るのが、まさに「獨居自炊」という随筆であった。
   獨居自炊
 ほめられるやうなことはまだ為ない。
 そんなおぼえは毛頭ない。
 父なく母なく妻なく子なく、
 木っ端と粘土と紙屑とほこりとがある。
 草の葉をむしつて鍋に入れ
 配給の米を餘してくふ。
 私の臺所で利休は火を焚き、
 私の書齋で臨濟は打坐し、
 私の仕事場で造花の營みは遅々漫々。
 六十年は夢にあらず事象にあらず、
 手に觸るるに隨って歳月は離れ、
 あたりまへ過ぎる朝と晩が来る。
 一二三四五六と或る僧はいふ。
             ―昭和一七・四・一三―
               <『獨居自炊』(高村光太郎著、龍星閣)より>
 しかしあれっ、よくよく見てみると、この「獨居自炊」が書かれ時期は「昭和一七・四・一三」ということになる。そこで私は誤解していたことに気付く。この随筆集の発行は昭和26年だから、この巻頭の「獨居自炊」は太田村山口にいわば疎開している頃に書いたものだろうと当初は思っていたのだが、これは昭和17年にしたためたもののようで、光太郎は早い時点から自分の生活を「獨居自炊」と規定していたということになるだろう。実際調べてみると、たしかに光太郎は昭和14年から、つまり花巻疎開以前から、東京のアトリエで既に独居自炊生活を送っていたのだった。

 もちろん花巻に疎開してからも光太郎は太田村山口で、まさしく「獨居自炊」生活をしていたわけだから、疎開7年目の昭和26年に『獨居自炊』という随筆集を出版するのは至極自然で、そのタイトルはさもありなんと当時の人たちは思ったに違いない。  
 そこで私に直感が働いた、
   この昭和26年の随筆集『獨居自炊』が〝この変化の切っ掛け〟だったのではなかろうか?
と。つまり、当初は賢治の下根子桜時代の修辞としては使われていなかった〝独居自炊〟の四文字であったが、この光太郎の昭和26年随筆『獨居自炊』の出版が切っ掛けとなり、この時を境にして賢治の「下根子桜時代」に対しても使い出されたのではなかろうかと。

 そこで、前回の一覧表にこの〝昭和26年の随筆集『獨居自炊』〟も組み入れて再整理をしてみれば下掲のようになる。
*************************主な著書の「下根子桜時代」の説明の仕方*************************
(1)『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、昭和13年、羽田書店)
1p 故あつてそこを辭されて自ら鍬取る一個の農夫として、郊外下根子に『羅須地人協會』といふを開設して、自ら農耕に從つた。毎日自炊、自耕し、或は音樂、詩作、童話の研究に餘念なく、精根の限りを盡された。

(2)『宮澤賢治名作選』(松田甚次郎編、昭和14年、羽田書店)
3p (宮澤賢治略歴)
大正十五年四月 花巻町下根子櫻ニ羅須地人協會開設。同所ニ於イテ農耕ニ從事、自炊ス。

(3)『宮澤賢治研究』(草野心平編、昭和14年、十字屋書店)
175p 谷川徹三
 大正十五年四月花巻町下根子字ニ羅須地人協會開設。同所ニ於テ農耕ニ從事自炊ス。
284p 三浦參玄洞
 大正十五年四月花巻町の片ほとりに羅須地人協會といふのを設けて自炊生活を營みながら農耕に從事した。
324p 菊池武雄
 私が藤原君の案内で賢治さんのあの自炊の家(適當でないが)を訪れたのは…
436p 白藤慈秀
 宮澤君は或る事由によりて大正十五年三月偶然にも私と同時に退職した、彼は花巻の郊外都塵も通はぬ静閑の地にある同家の別邸に只一人住むことになつた。
年譜13p 四月、花巻町下根子櫻の假偶(ママ)に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。

(4)『宮澤賢治』(佐藤隆房著、昭和17年、冨山書房)
257p (宮澤賢治年譜)
大正十五年 三十一歳(二五八六)
四月、花巻町下根子櫻の假寓(ママ)に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。(宮澤清六編)

(5)『宮澤賢治覚え書』(小田邦雄著、昭和18年、弘學社)
206p 大正十五年農學校を退職し、花巻町の櫻に自炊生活をしながら本格的開墾に入り、農耕に從つた。

(6)『雨にもまけず』(斑目榮二著、昭和18年、富文館)
158p 賢治は、學校を止めてほどなく、亡妹とし子が、いたついて臥つてゐた下根子櫻の、から松の林の丘のうへにある、柾葺屋根の二階建ての別宅に、一人、居をかまへた。

(7)『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局)
<昭和19年9月20日の講演「今日の心がまえ」より>
17p ―賢治は大正十五年三十一歳の時、それまで勤めていた花巻農学校教諭の職を辞し、町外れの下根子桜という地に自炊しながら、附近を開墾し半農耕生活を始めた…

(8)『宮澤賢治素描』(関登久也著、昭和22年、眞日本社)
6p 花巻農學校を依願退職したのは三十一歳の昭和(ママ)十五年三月三十一日で、四月にはこの櫻の家に地人協會を開設しました。……
 賢治はこの家にゐて自ら農耕に從事し、農村の求めに應じて農事講演を行ひ……

(9)『宮澤賢治の肖像』(佐藤勝治著、昭和23年)
宮澤賢治略年譜
125p 大正十五年(三十一歳)
四月、花巻町下根子に獨居。農耕自炊の生活に入る。

(10)『宮澤賢治研究』(古谷綱武著、昭和23年発行、26年再版、日本社)
8p 三十八年の生涯を通じて獨身であつた賢治は、三十一歳の三月末には、農學校教師の職をしりぞいて、ひとり農耕し自炊する生活をはじめた。
275p (宮澤賢治略年譜)
大正十五年(一九二六)三十一才
四月、花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事する。

(11)『雨ニモマケズ』(小田邦雄著、昭和25年発行、酪農学園通信教育出版部)
172p 宮澤賢治が野の人として、こうして全農民の「病苦」をいやすべく、花巻、下根子に自炊生活を始めることになったのは大正十五年、三十一才の四月である。
261p (宮澤賢治年譜)
大正十五年 三十一才
四月 花巻町下根子櫻の假寓に自炊生活し、附近を開墾し、農耕に從事す。

  『獨居自炊』(昭和26年6月発行、高村光太郎著、龍星閣)

(12)『文学全14集宮澤賢治』(昭和28年発行、角川書店)
376p 大正十五年三月農學校教諭を辭職した彼は、四月から自耕自活の一農民の姿になり、花巻郊外に獨居自炊の生活を始めた。…小倉豐文

(13)『宮沢賢治物語』(関登久也著、昭和32年、岩手日報社)
134p 四月には、花巻の郊外下根子桜の地にある宮沢家の別宅に ただ一人移り住み、自炊の生活を始めました。

(14)『宮澤賢治全集十一』(昭和32年、筑摩書房)
496p (年譜) 大正十五年四月、花巻下根子桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。

(15)『高村光太郎・宮澤賢治』(伊藤信吉編、昭和34年、角川書店)
372p (宮沢賢治年譜) 大正一五年・昭和元年(一九二六)三一歳
 四月、花巻町大字下根子小字桜に自炊生活を始め、附近を開墾し畑を耕作した。

(16)『宮沢賢治』(中村稔著、昭和47年、筑摩叢書)
258p 大正十五年(一九二六年)三月農学校を退職した彼は花巻校外下根子桜の宮沢家の別宅に独居して自炊し、付近を開墾、耕作することになった。

(17)『こぼれ話宮沢賢治』(白藤慈秀著、昭和47年、トリョウーコム)
67p 学校を退かれた宮沢さんは、実家から約二キロ離れた花巻市桜町の一角、閑静の地にある宮沢家の別宅に羅須地人協会を設立し、ここで自耕自炊の簡単な生活をするようになった。 

(18)『宮沢賢治修羅に生きる』(青江瞬二郎、昭和49年、講談社現代新書)
130p 大正十五年四月、賢治は下根子桜の別荘を手入れしてそこに入り、ひとり住まい自炊生活に入った。

(19)『校本宮澤賢治全集第十四巻』(昭和52年発行、筑摩書房)所収年譜
593p 四月一日(木)豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊の生活に入る。

(20)『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、昭和53年、東京創元社)
22p 退職すると彼はすぐ郊外の大字根子桜(現在の花巻市桜町)の宮沢家の別宅を多少改造して入り、近くの北上川岸の土地を開墾して畑を作り、独居自炊・自耕・自活の生活に入った。

(21)『宮澤賢治論』(西田良子著、昭和56年、桜楓社)
「雨ニモマケズ」論
172P 賢治はそれまで勤めていた花巻農学校をやめて、四月から花巻町のはずれの大字下根子小字桜に小屋を建てて、晴耕雨読の独居自炊生活を始めた。

(22)『新編銀河鉄道の夜』(平成元年発行、新潮文庫)
355p 大正十五年・昭和元年(一九二六)三十歳 四月一日から下根子桜で独居自炊を始める。

(23)『宮澤賢治に聞く』(井上ひさし著、平成14年第1刷、平成22年第3刷、文春文庫)
185p 一九二六(大正十五)年三月、花巻農学校を退職した三十歳の賢治は、花巻川口町下根子の宮澤家別宅で独居自炊の生活に入った。

(24)『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房、平成13年版)
311p 一九二六(大正十五年四月一日(木) 豊沢町の実家を出、下根子桜の別宅で独居自炊生活に入る。
********************************************************************************************
 よって次のような可能性があることに容易に気付く。

 この一覧表の中に初めて「独居自炊」が現れるのは『文学全14集宮澤賢治』(昭和28年発行、角川書店)においてであり、小倉豊文が初めて用いた。つまり、昭和26年の高村光太郎の随筆『獨居自炊』の発売直後に初めて、下根子桜の別宅で賢治は独居自炊生活に入ったと修辞された。そして、その修辞独居自炊は昭和52年の『校本宮澤賢治全集第十四巻』(昭和52年発行、筑摩書房)所収の年譜以降定着して行った。
 
 言い方を換えれば、
1.著書を発行年順に並べてみると、早い段階では〝独居自炊生活〟というフレーズは使われていない。当初は殆ど〝自炊生活〟であり、〝独居〟の部分はない。
2.一方、年代が下って昭和52年以降はこのフレーズ〝独居自炊生活〟が「下根子桜時代」を修辞する用語として定着してしまった、の感がある。
 そこで私が特に思うことは次の二つである。
ア.まず一つ目は、早い段階ではどの著書も揃って〝独居〟という説明はないから、実は「下根子桜時代」に賢治が〝独居〟生活をしていたという周りの認識はなかったのではないかということである。つまり、〝独居〟ではなかった可能性がやはりあるのではないこということであり、結構長期間賢治と一緒に暮らしていた人物(千葉恭)がいたことはもしかすると周知の事実ではなかったのではなかろうか、ということである。
イ.そして二つ目は、少なくとも昭和28年より前には〝独居自炊生活〟という言いまわしは使われておらず、多くは〝自炊生活〟という言いまわしが多い。この変化の切っ掛けはやはり高村光太郎の随筆『獨居自炊』であったという蓋然性が極めて高いということだ。


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 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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