みちのくの山野草

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2511 10回目の上京の別な可能性(#39)

2012-02-05 08:00:00 | 賢治昭和二年の上京
 〝24.とうとう病気になった賢治〟の続きである。

(4) 賢治自身の証言
賢治の書簡に
 さらには、賢治自身もこのことを傍証していることになると思う。それは次の
【246 〔(1928年)十二月 あて先不明〕下書】
昨日はご懇なお手紙を戴きましてまことに辱けなく存じます。当地御在住中は何かと失礼ばかり申し上げ殊にも私退職の際その他に折角のご厚志に背きましたこと一再ならずいつもお申し訳なく存じて居ります。
この度の自ら招いた病気に就てもいろいろとご心配下さいまして何とお礼の申しあげやうもございません。何分神経性の突発的な病状でございましたためこの八月までもこの冬は越せないものと覚悟いた
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
によるものである。
 つまりこの書簡下書きは、
  ・1928年(昭和3年)の「八月」以前に賢治は〝神経性の突発的な病状〟にあったことを賢治自身が証言している。
ことになると思うからである。これが賢治自身も傍証しているという意味である(まだ説明不足ではあるが)。
 さらにこの下書きは次の2つのことも賢治自身が証言していることになる。その1つ目は
  ・この際の病気は、賢治自身は〝自ら招いた病気〟であると認識していた。…③
ということを、その2つ目は
  ・〝ご懇なお手紙〟を寄越したこの人は賢治が病気であったということを知っていた。…④
ということを、である。
昭和3年8月の発熱病臥
 よく知られていることのようだが、賢治は
   昭和3年8月10日~ 発熱病臥。
であったということは私もたまたま知っていたから、この書簡下書【246】の「自ら招いた病気」(=「神経性の突発的な病状」)とはこの〝発熱病臥〟のこととばかりこれまでは思っていた(〝神経性の〟の部分を私はあまり気に留めなかったからだ)。つまり、この年の6月に賢治は上京して滞京・伊豆大島行から疲れ果てて帰花した賢治だったが、花巻に戻ってからは引き続いて稲作指導のために奔走した結果疲弊、8月に発熱、豊沢町の実家にて同月10日から病臥していたはずなので、
   この〝発熱病臥=〝神経性の突発的な病状
であるとばかり思っていた。
 ところが、もう一度この【246】を読み直してみるとどうもそうではないと考えざるを得えないことに気付いた。それはまず、〝神経性〟に注意すれば
  ・この〝発熱病臥〟≠神経性の突発的な病状
であるからであり、
  ・神経性の突発的な病状にあった賢治はその冬までも命が持たないだろうと、8月までも思っていたという意味のことを書いている。
からである。
2つの書簡の比較
 そこで賢治の次の書簡で確認してみると、賢治は8月10日以降の発熱病臥については
【243 九月二十三日 澤里武治あて 書簡】に  
八月十日から丁度四十日間熱と汗に苦しみましたが、やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすがすがしくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡ねむらず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたい、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
<『校本宮澤賢治全集第十三巻』(筑摩書房)より>
としたためているから、こちらの書簡で言っている賢治の病気はあくまでも〝発熱病臥〟であって〝神経性の突発的な病状〟ではない。病状が違う。その上、この際の病臥は9月中旬までは続いていたことになるのだから、この〝発熱病臥〟に対して「八月までもこの冬は越せないものと覚悟」という表現はまずあり得ないはず。時期的なずれがあるからである。
 念のため、ここでいままで触れきたことを時系列に従って以下に並べてみると
  昭和2年11月頃 チョロを学ぶために上京(と投稿者は思っている)
  昭和3年 1月  病気になって帰花(と投稿者は思っている)
    〃  6/7  上京・滞京・伊豆大島行
    〃  6/24  帰花
    〃  8/10  発熱病臥
    〃  9/23  【243】(発熱病臥)
    〃  12月  【246】(神経性の突発的な病状)
となる。
 よって、これら2つの書簡【246】と【243】で言っているそれぞれの病気は別物であり、
   昭和3年の〝発熱病臥〟は昭和3年8/10以降のこと
であり、一方の
   神経性の突発的な病状〟にあった時期は少なくとも昭和3年6/7以前のこと
となるのではなかろうか。
現時点での判断
 もしそうであるとするならば、賢治が昭和3年6/7以前に病気になったといえば、宮澤清六が編纂あるいは校閲した多くの賢治年譜に載っているあの
   昭和3年1月 …栄養不足にて漸次身體が衰弱…
がその有力な候補となる。
 そこで私は、澤里の証言、かつての賢治年譜、賢治の書簡におけるそれぞれは同一のことを言っていて
   賢治は昭和3年1月とうとう病気になった。
  =賢治は昭和3年1月漸次身體が衰弱していった。
  =賢治は昭和3年1月神経性の突発的な病状にあった。

という等式が成り立つ、と現時点は判断することにしたのである。
 言い方を換えれば  
 昭和2年11月頃にチェロを持って上京した賢治は、在京3ヶ月間チェロのはげしい勉強でとうとう病気になって昭和3年1月に帰花。その病状は身体衰弱(賢治に言わせると〝神経性の突発的な病状〟)であった。……⑤
と言えそうだ、と。
 以上のようなことが賢治がしたためた下書き【246】から言えそうなので、前に私は「賢治自身もこのことを傍証している」と表現したのであった。
 
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