みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

忖度せずによく調べた上で核心に迫ってほしかった

2018-01-21 10:00:00 | 「賢治研究」の発展のために
H29,11,24 20時~ BSプレミアム“英雄たちの選択”「本当の幸いを探して 教師・宮沢賢治 希望の教室」
 そしてナレーションは次のように続く。 
 賢治は農民たちに広く声をかけ、稲作や土壌の改良、農作物に有効な化学肥料の使い方など多彩な講義を開いては新しい農業の可能性を農民たちに説いた。
 学校では監視の目が光った芸術の交流会も開催。自ら立ち上げた私塾を農民の文化サロンにしたい。賢治は 農民芸術と銘打った精力的な活動にまい進する。
 また、自らクワを持ち、畑を開墾。トマトやチューリップなど当時は珍しかった商品作物の栽培にも挑戦。農家の副収入の道を探った。
 更に、無償の支援活動にも打って出た。最も力を入れたのは化学肥料の普及。賢治は 実に2, 000件にも上る肥料設計を無料で行い、地元の農民たちを驚かせた。化学の力で農村を救うという自らの信念を推し進めていったのである。
 さて、ここで私が悩んでしまうことの一つが、「賢治は実に2, 000件にも上る肥料設計を無料で行い、地元の農民たちを驚かせた」だ。かつては、賢治年譜には「昭和2年の6月末までに賢治の肥料設計2,000枚を超えた」というような記述がたしかによく載っていたが、この枚数ははたして事実かという疑問があるからだ。それはとりわけ、いわゆる「校本年譜」の担当者である堀尾青史自身が、この「昭和2年の6月末までに賢治の肥料設計2,000枚を超えた」については、
 二千枚を超えたかもしれませんが、よくわかりません。田圃一枚ずつ作っていくのだったらそうなるかもしれません。これも正確にしにくいので迷った末、やめました。
              <『國文学 宮沢賢治』(昭和53年2月号、學灯社)より>
と境忠一のインタビュー(昭和52年11月12日)に答えていたからであり、他ならぬ堀尾が〝2,000枚〟かどうかは定かでないと言っているからだ。おのずから、「賢治は実に2, 000件にも上る肥料設計を無料で行い、地元の農民たちを驚かせた」が歴史的事実だったという保証はない。一方、このインタビュー後にそれはやはり歴史的事実だったということが裏付けられたということを私は聞いていない。となれば、この番組はその裏付けを取ったということになるのだろうが、そのことの言及はなかった。したがって、私としてはこれは事実であったとは現時点では言えそうにない。だから。もしかするとよく調べもせずに、固定観念や先入観でこの番組を創っているのではなかろうかと訝る視聴者もいるかもしれない。

 ナレーションはさらに次のように続く。 
 こうした賢治の活動は新聞でも取り上げられた。過酷な農村の営みを独力で変えまるで理想郷を作ろうとするかのような試みに、周囲からは賛否両論のまなざしが向けられた。一人の農民として大地に立ち現実に立ち向かう賢治。そんな賢治の力強い言葉がある。

 『農民芸術概論綱要』より
 俺たちは皆農民である
 ずいぶん忙しく 仕事もつらい
 もっと明るく生き生きと
 生活をする道を見付けたい

 世界が
 ぜんたい幸福にならないうちは
 個人の幸福はありえない

 われらは
 世界のまことを索ねよう
 求道 すでに道である

 ここで私は、この「過酷な農村の営みを独力で変えまるで理想郷を作ろうとするかのような試み」というナレーションに違和感を感じ、同時に先程の、「最も力を入れたのは化学肥料の普及」を思い出し、悩んでしまった。それは、過酷な農村の営みを独力で変えまるで理想郷を作ろうとするすることと、化学肥料の普及に最も力を入れたということは、次のような理由から、始めからかみ合っていないと私には考えられるからだ。
    
 かつての私は、賢治は従来の人糞尿や厩肥等が使われる施肥法に代えて、化学肥料を推奨したことにより岩手の農業の発展に頗る寄与したと思っていた。ところが話は逆で、賢治の稲作経験は花巻農学校の先生になってからのものであり、豊富な実体験があった上での稲作指導という訳ではなかったのだから、経験豊富な農民たちに対して賢治が指導できることは限定的なものであり、食味もよく冷害にも稲熱病にも強いといわれて普及し始めていた陸羽132号を推奨することだったとなるだろう。ただし同品種は化学肥料(金肥)に対応して開発された品種<*1>だったからそれには金肥が欠かせないので肥料設計までしてやる、というのが賢治の稲作指導法だったということにならざるを得ない。したがって、お金がなければ購入できない金肥を必要とするこの農法は、当時農家の大半を占めていた貧しい小作農や自小作農(『岩手県農業史』(森嘉兵衛監修、岩手県)の297pによれば、当時小作をしていた農家の割合は岩手では6割前後もあった)にとってはもともとふさわしいものではなかったということは当然の帰結である(どうやら、賢治が化学肥料を推奨したことにより、彼は岩手の農業の発展に頗る寄与したということは、私の誤解だったようだ)。
 ちなみに、羅須地人協会の建物の直ぐ西隣の、協会員でもあった伊藤忠一は、
 私も肥料設計をしてもらったけれども、なにせその頃は化学肥料が高くて、わたしどもにはとても手が出なかった。
                   〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p〉
と述懐していたという。つまり、賢治から金肥を施用すれば水稲の収量は増えると教わっても、大半の農家は金銭的な余裕がなかったので肥料が容易には買えないというのが実態だったと言えるだろう。まして、金肥を施用して多少の増収があったところで、その当時の小作料は五割前後もあった<*2>から、小作をしている零細農家としてはこの農法にそれほど意欲が湧くはずもない。しかも、その上に冷害や旱害などに見舞われたり、米価が下がったりすればたまったものではない、却って大損する。それもあってか、「当時このあたりで陸羽132号は広く植えられた訳ではなく、物好きな人が植えたようだ」と、賢治の教え子である平來作の子息國友氏が証言していた(平成23年10月15日、平國友氏宅で聞き取り)が、宜なるかなだ。
 よって、「羅須地人協会時代」に賢治が「最も力を入れたのは化学肥料の普及」であったとしても、陸羽132号を推奨する賢治の稲作指導法は貧しかった大半の農家にとってもともとふさわしいものでなかったから、過酷な農村の営みを独力で変えることは元々できない相談であった。この賢治の農法は、当時6割前後もあった小作をする農家を置いてけぼりにしてしまうものであり、それでは「理想郷」などできるはずがないからである。賢治の農法は、「独力で変えまるで理想郷を作ろうとする試み」としては始めから破綻していたのある。そして、私のような者でさえもこのことに気づけるわけだから、当の賢治がそのことを知らないわけがない。

 そこでもう一度先程の、「過酷な農村の営みを独力で変えまるで理想郷を作ろうとするかのような試み」というフレーズに注目してDVDを観直してみてあることに気付いた。私が違和感を感じたのは、「過酷な農村の営みを独力で変えまるで理想郷を作ろうとするかのような試み」の中の「かのような」が原因だったということに気づいたのだった。このフレーズはこの番組担当者の一つの見方であり、賢治自身が、「過酷な農村の営みを独力で変えまるで理想郷を作ろうとする試み」をしようとしていたということを紹介していたわけではなかったのである。私はこの「かのような」という措辞を軽く聞き流していたのであった。
 と言うわけで、「過酷な農村の営みを独力で変えまるで理想郷を作ろうとするかのような試み」はこの番組担当者の忖度であり、なおかつ、賢治のこの時の「試み」そのものがどのようなものであったかを同番組は明らかしていないくらいだから、「周囲からは賛否両論のまなざしが向けられた」ことは当然のなりゆきであろう。したがって、先に賢治を「深掘り」したいと宣言していたわけだからここは忖度などではなく、もっとよく調べた上で賢治自身はどうであったのかという核心に迫ってほしかった。それは次のようなことがあったのだからなおさらにである。

 もちろん、賢治が「無償の支援活動にも打って出た」「最も力を入れたのは化学肥料の普及」ということは私も否定はしない。しかし残念なことに、賢治は「過酷な農村の営みを独力で変えまるで理想郷を作ろうと試み」ようとしていたとは、前述の通り私は言い切れない。
 また、私にとっては難しすぎるし、観念的すぎる思ってしまう「農民藝術概論綱要」ではあるが、「一人の農民として大地に立ち現実に立ち向かう賢治。そんな賢治の力強い言葉がある」とそれを評することには、一つの見方としては異議はない。しかしそれと実践は違う。
 もし賢治がこの綱要で謳っている高邁な精神を実践したということであれば、松田甚次郎に「小作人たれ/農村劇をやれ」と迫ったのだから、賢治自身もそのような努力を少なくともせねばならなかったはずだがそんなことはしていない。また、大正15年の大旱害の際に地元のみならず宮城県や東京等から陸続と救援の手が差し伸べられていたのだから、まさに、「過酷な農村の営みを独力で変えまるで理想郷を作ろうとする試み」がその際に多少でも為されて然るべきだと私は思うのだが、その頃賢治は故里を離れてしばらく滞京していたし、明けて昭和2年になると、この旱害の惨状が大々的に報道されていたのだが、その時でさえも賢治は協会員等と「楽しい日々を送っていた」と言う証言はあっても、旱害罹災者の救援に立ち上がったという証言も一切ない

 畢竟、「過酷な農村の営みを独力で変えまるで理想郷を作ろう」と高らかに謳い上げたとも言える『農民芸術概論綱要』ではあったが、それが実践に移されたとは残念なが私には言えない。

<*1:註> 『岩手県の百年』によれば、
 大正末期から「早生大野」と「陸羽一三二号」が台頭し、昭和期にはいって「陸羽一三二号」が過半数から昭和十年代の七割前後と、完全に首位の座を奪ったかたちとなった。これは収量の安定性、品質良好によるもので、おりしも硫安などの化学肥料の導入にも対応していた。しかし、肥料に適合する品種改良という、逆転した対応をせまられることになって、農業生産の独占資本への従属のステップともなった。反面、耐冷性・耐病性が弱く、またもや冷害・大凶作をよぶことになった。(『岩手県農業史』、『岩手県近代百年史』)
           <『岩手県の百年』(長江好道等著、山川出版)124p>
<*2:投稿者註> 『復刻「濁酒に関する調査(第一報」)』(センダート賢治の会)によれば、
 『大正十年府県別小作慣行調査集成』―農林省調査・土屋喬雄編―によると、我が国の小作農家(純小作と自作兼小作農家)の合計戸数は、総農家戸数の約七割を占め、小作地面積は、総耕地面積の約四割七分をしめていた。また収穫高に対する現物納の小作料の割合は、岩手県を例にとると、
  高収穫田  五十六パーセント
  普通収穫田 五十四パーセント
  低収穫田  四十七パーセント
ということである。
 あるいは、大正15年7月29日付『岩手日報』によれば、
 花巻税務署管内の稗貫、和賀郡下の小作料は全部纏まらねば確定的に判明しないが大体において小作料徴収の歩合が地主小作とも五分々々の割合になつてゐるらしい
ということだから、
  大正末期昭和初期に稗貫の小作料は約5割程度であった。
と言えるだろう。

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********************************《三陸支援の呼びかけ》*********************************
 東日本大震災によって罹災したが、それにも負けずに健気に頑張っている(花巻から見て東に位置する)大槌町の子どもたちを支援したいという方がおられましたならば、下記宛先に図書カードを直接郵送をしていただければ、大槌町教育委員会が喜んで受け付けて下さるはずです。新設された小中一貫校・大槌町立『大槌学園』の図書購入のために使われますので、大槌の子どもたちを支援できることになります。

 〒 028-1121
   岩手県上閉伊郡大槌町小鎚第32地割金崎126
        大槌町教育委員会事務局(電話番号0193-42―6100)
                  教育長 様   
 なお、私のところに送って頂いた場合には、責任を持って大槌町教育委員会へ私からお届けします。私の住所は、
〒025-0068     岩手県花巻市下幅21の11
 電話 0198-24-9813    鈴 木  守
です。
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