みちのくの山野草

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在家で活動することを決意

2018-02-27 14:00:00 | 法華経と賢治
《『大凡の日々-妹尾義郎と宗教弾圧』(理崎 啓著、哲山堂)の表紙》

 さて、すっかり元気になった妹尾について、
 友人たちに日蓮の話をし、国柱会新聞を送った。…(投稿者略)…多くに信仰を勧めていった。…(投稿者略)…
 ついに長兄が、国柱会にゆくのを許してくれた。智学に胸中の煩悶を相談したい。法華経の質問をして信仰の教化を受けよう、と満々たる意欲が漲ってきた。大阪の国柱会員から紹介状をもらって上京、東京・鴬谷の国柱会館を訪問した。智学に面会を希望するが、多忙と断られた。何度も会館に通って雑務を手伝い、幹部の話を聞いて法要や大会に参加した。その上で再び智学に会いたい申し出るが、今度は病気と言われた。こうして幾度も適当にあしらわれ、智学や幹部たちの尊大さに嫌気がさして諦めることになった。
          〈43p〉
と、理崎氏は書き記していて、妹尾は「友人たちに日蓮の話をし、国柱会新聞を送った」という。そういえば、当時の賢治にも似たようなことがあったはずだ<*1>。

 引き続いて同氏が述べているのだが、妹尾に対する智学のあしらい方は賢治の場合と同様だったという。そこで妹尾はその後どうしたのかというと、理崎氏は、
 妹尾は知人に、本多日生の『日蓮主義の心髄』と言う書物を送られた。統一閣に行って、日生の講義を聴いて…(投稿者略)…講演会後の晩餐会に出席、紹介してもらうが、敢えて話しはしないで帰った。その後、日生に直接手紙を出すと、翌日すぐに返事が来て二日後に会うことになった。…(投稿者略)…信仰上の煩悶を聞いてもらい、指導を乞うと、日生は僧にならず信仰していくことを進言した。そこで、妹尾は在家として活動していこう、と決心するのである。
          〈44p〉
と述べていて、本多の教えに従ったということのようだ。

 周知のように、賢治の場合は国柱会を訪れて智学から門前払いをされ、その後、高知尾智耀に法華文学を目指すようにと言われてそうしたようだが、妹尾の場合は在家で活動する決意をしたということか。しかしよくよく考えてみれば、国柱会はそもそもが「在家の法華経教団」のはずだから、もともと出家する必要などはないということであり、要は、己の決意と自覚次第だということになるのだろうか。

<*1:投稿者註> 上田哲によれば、
 (賢治は)しばしば友人たちに、『世界統一の天業』(明37)、『勅教玄義』(明38)や智学の国体学と称する国家主義思想の集大成『日本国体の研究』が連載されていた時機の『天業民報』の閲読を奨めているのである。
              〈『宮沢賢治 その理想世界への道程』(上田哲著、明治書院)74p〉
 具体的には、例えば大正10年3月10日付宮本友一宛書簡(191の1)に、 
お手紙ありがたく拝見いたしました
別冊勅教玄義に研究案内がありますからその順序におよりなさったらいゝかと思ひます 差し当り一番緊要なのは天業民報でせう
信さんにも宜しく願ひます 只今は大切の時です 切にあなたの憤起を望みます
はやくお取り掛り下さい。
どの宗教でもおしまひは同じ処へ行くなんといふ事は断じてありません。間違った教による人はぐんぐん獣類にもなり魔の眷属にもなり地獄にも堕ちます。
今回は私も小さくは父母の帰正を成ずる為に家を捨てゝ出京しました父母にも非常に心配させ私も一時大変困難しました 今は午前丈或る印刷所に通ひ午后から夜十時迄は国柱会で会員事務をお手伝しペンを握みつゞけです。今帰った所ですよ
冗談ではありません。しっかりしっかり頼みますぜ。
    大正十年三月十日夜
          <『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡本文篇』(筑摩書房)>
とある。

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 なお、ブログ『みちのくの山野草』にかつて投稿した
   ・「聖女の如き高瀬露」
   ・『「羅須地人協会時代」検証―常識でこそ見えてくる―』
   ・『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』
等もその際の資料となり得ると思います。
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