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「演習」とは「陸軍大演習」のことだった

2024-01-16 16:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》






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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 「演習」とは「陸軍大演習」のことだった
 さて前頁の川村の証言によれば、賢治は昭和2年、川村との「交換授業」が一段落した時に、『日本に限ってこの思想による革命は起こらない』『仏教にかえる』と断言して翌夜からうちわ太鼓で町をまわったいうことだから、賢治はその後すっかり労農党とは縁を切ったものと推測されがちである。
 ところがあながちそうとばかりも言えなさそうだ(後述84p参照)。それは煤孫利吉によれば、
 「第一回普選は昭和三年(一九二八)二月二十日だったから、二月初め頃だったと思うが、労農党稗和支部の長屋の事務所は混雑していた。…(筆者略)…事務所に帰ってみたら謄写版一式と紙に包んだ二十円があった『宮沢賢治さんが、これタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったものだ、と聞いた。……。」(花巻市御田屋町、煤孫利吉談'67・8・8採録)
<『國文學』昭和50年4月号(學燈社)126p~>
ということだし、その後も賢治は労農党の強力なシンパであったといえそうだからだ。
 そしてこのことに関しては、父政次郎も小倉豊文に対して
 それらを知った父政次郎翁が「女に白い歯をみせるからだ」と賢治を叱責したということは、翁自身から私は聞いている。労農党支部へのシンパ的行動と共に――。
    <『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房、昭和58年)48p >
ということであり、川村尚三も、
 賢治と私とは他の人々との交際とはちがい、社会主義や労農党のことからであった。…(筆者略)…
 盛岡で労農党の横田忠夫らが中心で啄木会があったが、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた。その会に花巻から賢治と私が入っていた。賢治は啄木を崇拝していた。昭和二年の春頃『労農党の事務所がなくて困っている』と賢治に話したら『俺がかりてくれる』と言って宮沢町の長屋―三間に一間半ぐらい―をかりてくれた。そして桜から(羅須地人協会)机や椅子をもってきてかしてくれた。賢治はシンパだった。経費なども賢治が出したと思う。ドイツ語の本を売った金だとも言っていた。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)220p~>
と語っているというし、しかも『新校本年譜』によれば、
 昭和二年一一月から三年三月の三・一五事件で検挙されるまで「無産者新聞」の「編集局の一員として、各地の支局通信を管理もしていた」石堂清倫は「岩手の花巻支局員は有能かつ熱心なひとで、一カ月に二回は通信をおくってきました、そのなかで宮沢についての報告が二回あいり、一回は無新の輪転機購入カンパニアに応じて彼から金子をもらったとあります。」「二回目の通信には彼が労農党の支部に印刷器(たぶん謄写版でなかったかと思いますが)をカンパしたとありました。」と栗原敦あての書信(平成八年一〇月二九日消印)で証言している。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)361p>
という。よって、もはやカンパの受け取り側の者までもがこのように証言していることになるから、賢治は労農党の強力なシンパであったことはこれで確定的だし、進歩思想の集まりとして警察から目をつけられていた『啄木会』の賢治は会員でもあったということを川村は証言しているということになる。
 どうやらこれだけの証言が揃った以上、賢治はかなりの期間にわたって労農党の少なくとも「強力なシンパ」以上の存在であったことは間違いなかろうから、官憲からはかなりマークされていたであろうことはもはや疑いようがない。
 そこでもう少し『啄木会』のことを調べてみようと思って資料を漁っていた時、たまたま手に取った『啄木 賢治 光太郎』の中に、
 労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…(筆者略)…
 この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。横田兄弟や川村尚三らは、次々に「狐森」(盛岡刑務所の所在地、現前九年三丁目)に送り込まれたいった。
<『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)28p~>
という記述に出くわした。その途端私は、
 これだっ!、件の「演習」とはこの「陸軍大演習」のことだったのだ。
と直感し、抃舞した。
 そして思い出した。たしか、何かの本に
 八重樫賢師は賢治から教えを受けた若者で、下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていたという。しかもこの八重樫は「陸軍大演習」の直前に要注意人物ということで北海道に所払いとなり、客死した。
というような内容のことが書かれていた(〈注十五〉)ことを。
 それからもう一つ、賢治の教え子の小原忠が論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
 昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらチェックされる今では到底考えられない時代であった。
<『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)4p >
と述べていたことも思い出した。もちろん小原が言うところの「昭和三年の大演習」とはこの「陸軍大演習」のことである(それ以外の「昭和三年の大演習」は考えられないからだ)。
 こうなってしまうとただごとではない。「陸軍大演習」を前にして行われたすさまじい「アカ狩り」で川村が捕まり、八重樫が北海道に追放されたのだから、彼等との繋がりの強かった賢治に官憲の手が伸びないはずがない。そして前述の小館長右衛門は当時戦闘的な活動家だったと聞くが、この時の「アカ狩り」によって彼が小樽に奔ったのも昭和3年8月だった(後述73p参照)はずだが、賢治が「下根子桜」から撤退したのも昭和3年8月だ。となれば、この「撤退」が「陸軍大演習」と無関係だったということはもはや否定しがたい。
 しかもこの「演習」であれば「架橋演習」等とは違って、教え子の小原が知っていたように、このままでも教え子の澤里にも十分意味が通じたであろう(64p参照)。それは、当時の新聞は八月末以降この「大演習」に関してしばしば報道していたからでもある。どうやら、あの「演習」とはこの「陸軍大演習」のことだったとして間違いなさそうだ。

〈注十五:本文71p〉名須川の「賢治と労農党」には次のような注がある。
 八重樫賢師とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えをうけていた若者。下根子に賢治のような農園をひらき労農党の活動をしていた。後に陸軍大演習、天皇御幸のとき昭和三年、北海道に要注意人物で追放され、その地に死す。
  <鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)266p~>
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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