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賢治を中傷する女の人とは?

2019-07-02 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
〈「白花露草」(平成28年8月24日撮影、下根子桜)

賢治を中傷する女の人は?
鈴木 では、いよいよ最後に残った「昭和7年」分についてだ。
 まずは、この『イーハトーヴォ第十號』の四頁~五頁を見てくれ。
【『イーハトーヴォ第十號』四~五頁】

             <『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和15年9月発行)より>
 さて、この五頁には小笠原露<*1>の短歌、
  ・師の君をしのび来りてこの一日
   心ゆくまで歌ふ語りぬ
  ・教え子ら集ひ歌ひ語らへば
   この部屋ぬちにみ師を仰ぎぬ
  ・いく度か首をたれて涙ぐみ
   み師には告げぬ悲しき心
  ・女子のゆくべき道を説きませる
   み師の面影忘られなくに
の四首が載っている。そしてそこには、
右は九月一日菊池暁輝氏を迎へての遠野における賢治の集ひの際の感歌です。
             <『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、昭和15年9月)より>
との註釈が添えてある。
荒木 昭和15年ということだから、賢治が亡くなって7年後に遠野で開かれた「賢治の集ひ」に露は出席していたのか。しかも「教え子ら」とも詠まれているから、賢治の教え子たちと共に賢治のことを偲びながらこれらの歌を露は詠んだりしたわけだ。しかも「み師」というような尊称を用いて。
鈴木 その当時ならそれこそ「教え子」の澤里武治も遠野にいたのだから、武治もその集いに出ていたのだろうか。
吉田 鈴木、その『第十號』の最後の頁を見てみろ。たしか「何とかニュース」とかいうのがあって、そこに「賢治の集ひ」の参加者についても載っていたはずだ。
鈴木 そうかこの「各地ニュース」のことだな、気付いていなかった。そうだそうだ、
□翌九月一日には午後一時より前記小學校圖書室にて菊池暁輝氏を中心に、同校先生にして賢治生前教をうけた小笠原露先生及び阿部さちえ、加藤將、菊池の諸先生、花卷農學校時代の教へ子遠野靑年學校教師小原武治、靑笹靑年學校教師淺沼政規諸氏等と賢治の集ひが催され、賢治の理念、思ひ出、新しき時代に就いて靜かに語られ、また詩を朗讀し、賢治作品を歌ひ樂しい會合であつた。
             <『イーハトーヴォ第十號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會)6pより>
とある。当時武治は遠野で先生をしていたから、この「教へ子遠野靑年學校教師小原武治」の姓「小原」はミスであり澤里武治に間違いなかろう。しかもこの頃は同じく教え子の淺沼政規も遠野にいて、この二人も露と一緒にその集いに出席していたということになるのか。
吉田 それにしても露って立派だよな。あれこれ論われていることを知りながらも、臆することなく「賢治の集ひ」に出席して賢治のことを偲びながら、崇め、讃える歌を詠んでいるわけだから。このことだけからしてみても露の人柄が容易に偲ばれる。
荒木 うん? この当時露は自分が悪し様に言われていることを知っていたのかな。
鈴木 それは、この見開きの右側四頁を見ればある程度、さらに『イーハトーヴォ創刊號』を見ればなおさらに、露がそのことを知っていたと推測できる。
 特に『同創刊號』には、昭和14年10月21日に行われた「盛岡賢治の會」例會における高橋慶吾の談話が、「賢治先生」<*2>というタイトルで載っていて、例の「ライスカレー事件」に関して、
 その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで亂調子にオルガンをぶかぶか彈くので先生は益々困つてしまひ……
などと喋ったことが活字になって載っているからな。
 そしてこちらの『同第十號』のこの右側四頁の「賢治素描(五)」を見てくれ。そこにはどんなことが載っている?
荒木 どれどれ……この関登久也の追想「面影」の中の一節、
 ……亡くなられる一年位前、病氣がひとまづ良くなつて居られた頃、私の家を尋ねて來られました。それは賢治氏知人の女の人が、賢治氏を中傷的に言ふのでそのことについて賢治氏は私に一應の了解を求めに來たのでした。
 他人の言に對してその經緯(イキサツ)を語り、了解を得ると云ふ樣な事は曾て賢治氏になかつた事ですから、私は違つた場合を見た樣な感じを受けましたが、それだけ賢治氏が普通人に近く見え何時もより一層の親しさを覺えたものです。其の時の態度面ざしは、凛としたと云ふ私の賢治氏を説明する常套語とは反對の普通のしたしみを多く感じました。
              <『イーハトーヴォ第十號』4pより>
のことだな。あれ? この「賢治氏を中傷的に言ふ云々」と似たエピソードたしか何かで読んだことがあるな。
鈴木 そう、このエピソードは関登久也の他の著書でも紹介されていたはずだからそちらを荒木は以前に見たんじゃないのかな。
荒木 そうか、「曾て賢治氏になかつた」ような一大事がその時にあり、この「賢治氏知人の女の人」とは露のことなのか。
吉田 まあ一応な。そしてこの『同第十號』の誌面作りは編集者の思惑が見え見えで、当時露の噂は一部関係者には知られていたと聞くから、見る人から見れば見開き両面にこれらの掲載が為されておれば左右全体ではゴシップ仕立てとなっており、露はさらしものにされたと言えなくもない。
鈴木 一方、露はこの『同第十號』のみならず『同第四號』にも短歌を寄せている<*3>から、まず間違いなく露は機関誌『イーハトーヴォ』の読者であったと判断できる。それゆえ、露はこの慶吾の「賢治先生」等を直接目にしていたとほぼ言えるだろう。
荒木 つまり、露は「賢治先生」等を読んでいたはずだから、自分が論われていることは十分承知だったはずだというわけだな。
吉田 一方賢治の方だが、「一應の了解を求めに來た」というこの出来事は賢治が亡くなる一年位前のことだというから、「昭和7年9月」前後頃の、当然昭和7年の一大事となる。しかも、あの実直で真面目と思われる関登久也がこうまで語っているくらいだから、この訪問の際の賢治はいつもとは全く正反対だったということはほぼ事実と判断しても間違いなさそうだ。
鈴木 しかし実は、この「賢治氏知人の女の人」の件だが、この『同第十號』を見ても、関登久也の他の著書を見ても「賢治氏知人の女の人」が露であるということは一言も述べていないし、それをずばり示唆する記述もまたない。
荒木 そもそも昭和7年といえば、露はその3月末に遠野に人事異動となり、小笠原牧夫と結婚、上郷小学校の先生をしていたのだから、なにもわざわざ遠野から花巻にやって来て「賢治氏を中傷的に言ふ」必要性は常識的に考えてみればなかろう。
 そうそう、そういえばこの「昭和7年」とは、以前関徳弥の例の『短歌日記』が何年に書かれたものかを考察した際に少し調べた年だ。そしてその当時の交通事情等に鑑みれば、その年の「ある勤務日」に露が上郷から花巻にやってくることはなかなか容易なことではない、というのが結論だった。
吉田 一方で、この「女の人」がちゑということもなかろう。これまたわざわざ東京から花巻にやって来て「賢治氏を中傷的に言ふ」ことは常識的に考えてその必要性がないからだ。
荒木 そうすっと、この「賢治氏知人の女の人」とはもっと他の女性だったということも考えられないべが?
鈴木 確かにそれは言い得て、露やちゑ以外にも賢治をめぐる女性がいた可能性がある、しかもそれは全部で5人であるとさえも言っている教え子がいる。
 というのは、以前少し話題にした賢治の教え子簡 悟の次のような証言、
 森さんは宮沢賢治をめぐる三人の女性を書いておられるが、実際は、五人の女性があります。二人の女性については、すでに話題になっておりますが、あとの二人は現存してる人達だし、何も徳義に欠けた行動をとつた人達ではないから申し上げてもいいようなものの、お話しする機会もそのうちあると思います。先生はその時も、私は遠からず結婚するかもしれぬと申されましたが、それはついに実現しませんでした。
              <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)275pより>
があるからだ<*4>。
吉田 この「二人の女性については、すでに話題になっておりますが」という文脈からは、この二人とは露とちゑのことであることがわかるから、妹のトシを含めたこれらの三人以外にも賢治をめぐる女性、それも「私は遠からず結婚するかもしれぬ」と賢治が簡に話した女性までもがいたというわけか。となれば、もしかするとさっきの「賢治氏知人の女の人」とはこの人のことだったということもあり得るな。
鈴木 なるほど。もともと関登久也は信頼に足る人だし、簡は、
 農学校で実習などをしている時、一寸のひまに、
「簡君、遊びに来い。」
とおつしやつて下さいましたので、しばしばお宅をお訪ねしました。御病気が大部悪い頃にも伺いましたら、もうその頃は面会謝絶をされておられました。先生のお家の人に伺いをたてると、簡君なら逢いたいと言つて、特別に何度も病床でお話を致したこともあります。
             <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)276pより>
ということも証言しているということだから、関と簡の二人の一連の証言は共に信憑性が高いと言えそうだからな。
荒木 それは納得。ただしこのエピソードの中身がどんな中傷だったのか、それがわからんことには次に進むことは難しいべ。
鈴木 確かにその通りなのだが、実はそれ以前の問題がそこにはありそうなんだ。

<*1:註> もちろん小笠原露とは高瀬露その人のことであり、短歌に詠まれている〝師の君〟とか〝み師〟とは宮澤賢治のことであろう。ということは、露は不当な扱いを受けているにもかかわらず、臆することなく〝遠野の賢治の集い〟に出席して賢治のことを〝み師〟と尊称してこのような歌を詠んでいるということになる。このことだけからでも露の人柄が十分にしのばれる。
 一方で、この誌面作りは編集者の思惑が読み取れるような作りであることにも気付く。当時高瀬露との噂は一部の関係者にはもう知れわたっていたと聞くから、見る人から見れば見開き両面にこれらの掲載が為されておれば全体ではゴシップ記事ともなりかねなず、露はさらしものにされたと言えなくもない。
 おそらく、露はこの『イーハトーヴォ第十號』(昭和15年9月発行)の誌面を見ているはずで、そのときの気持ちはいかばかりだったろうか、心情を察するにあまりある。
<*2:註> 『イーハトーヴォ創刊號』(菊池暁輝編輯、宮澤賢治の會、昭和14年11月発行)所収の「賢治先生」には、
 ……某一女性が先生にすつかり惚れ込んで、夜となく、晝となく訪ねて來たことがありました。その女の人は仲々かしこい氣の勝つた方でしたが、この人を最初に先生のところへ連れて行つたのが私であり、自分も充分に責任を感じてゐるのですが、或る時、先生が二階で御勉強中訪ねてきてお掃除をしたり、臺所をあちこち探して「カレ-ライス」を料理したのです。恰度そこに肥料設計の依頼に数人の百姓たちが来て、料理や家事のことをしてゐるその女の人をみてびつくりしたのでしたが、先生は如何したらよいか困つてしまはれ、その「ライスカレー」をその百姓たちに御馳走し、御自分は「食べる資格がない」と言つて頑として食べられず、そのまゝ二階に上つてしまはれたのです、その女の人は「私が折角心魂をこめてつくつた料理を食べないなんて……」とひどく腹をたて、まるで亂調子にオルガンをぶかぶか弾くので先生は益々困つてしまひ、「夜なればよいが、晝はお百姓さん達がみんな外で働いてゐる時ですし、そう言ふ事はしない事にしてゐますから止して下さい。」と言つて仲々やめなかつたのでした。
ということなどが載っている。
<*3:註> 『イーハトーヴォ第四號』(昭和15年2月発行)には露草のような短歌が五首載っている。
    賢治先生の靈に捧ぐ 露草
  ・君逝きて七度迎ふるこの冬は早池の峯に思ひこそ積め
  ・ポラーノの廣場に咲けるつめくさの早池の峯に吾は求めむ
  ・オツペルの虐げられし象のごと心疲れて山に憩ひぬ
  ・粉々のこの日雪を身に浴びつ君がの香によひて居り
  ・ひたむきに吾のぼり行く山道にしるべとなりて師は存すなり
               (昭和十四年十二月二十三日作)
 さて、このように〝君〟を思い、徳をしのび、道しるべとなる〝師〟のこと詠っている露草とは誰のことだろうか。賢治の童話の中身を歌に詠み込んでいるこの歌人はどんな人であろうか。歌を詠んだのが昭和14年12月だから既に『宮澤賢治名作選』は出版されてはいるもののその場合の童話のタイトルは「ポランの廣場」であり「ポラーノの廣場」ではない。したがって露草氏が持っていたであろうと思われるものは少なくとも『宮澤賢治名作選』ではないであろう。おそらく露草氏は昭和九年十月に発刊された文圃堂版『宮澤賢治全集』第一回配本の第三巻「作品」を早速手に入れていたであろうことが考えられる。露草氏はこの配本を首を長くして待ち望んでいて、発刊されるやいなや早速手に入れてこの第三巻の〝イーハトヴ童話〟を開いたのではなかろうか。第三巻の先頭の作品は「ポラーノの廣場」である。それゆえ、その作品の印象がきわめて強く残ったに違いないと私は受け取った。
 さて気になるこの露草氏とははどんな人であろうか。この『イーハトーヴォ第四號』の「執筆者紹介」を見てみると
  ○露草氏 曾て賢治に師事せし人、岩手上閉伊にあり。
となっている。となればほぼ〝露草氏〟は高瀬〝露〟その人であるらしいことに気付く。そこで今度は同『第十號』の高瀬露の「執筆者紹介」を見てみれば、
  ○小笠原露氏 岩手遠野小學奉職、賢治の教へを受く。
となっている。遠野にはかつて上閉伊郡役所がおかれていた。そしてどちらにも詠み込まれている〝師〟。となれば、次の等号
   露草=小笠原露=高瀬露
が成立すると言って良いであろうことが判る。
 そして、このように執筆者名の表し方が『4号』では〝露草〟だったのに、『10号』では本名にしていることからも『10号』の編集者の思惑が透けて見えてくる。
<*4:註> 関登久也の『宮澤賢治物語』の中には、賢治の教え子の簡 悟の次のような証言もある。
 森さんは宮沢賢治をめぐる三人の女性を書いておられるが、実際は、五人の女性があります。二人の女性については、すでに話題になっておりますが、あとの二人は現存してる人達だし、何も徳義に欠けた行動をとつた人達ではないから申し上げてもいいようなものの、お話しする機会もそのうちあると思います。先生はその時も、私は遠からず結婚するかもしれぬと申されましたが、それはついに実現しませんでした。
              <『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)275pより>
 なお、ここでいう「三人の女性」とは妹トシ、露、ちゑのことであり、「二人の女性について」とは露とちゑについてであることが同書からわかるので、「あとの二人」とはこれらの「三人の女性」以外の人であるということになる。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』

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      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813

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