みちのくの山野草

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3419 詩的アナーキズム

2013-08-02 08:00:00 | 羅須地人協会の終焉
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
伊藤信吉の見方
 以前から私は賢治の詩からは何となくアナーキーな印象を受けていたが、『逆流の中の詩』の中で伊藤信吉がそれに関連して論考していることを知った。
 同書で伊藤は言う。
 『銅鑼』『学校』『歴程』の三誌は、いろんな意味で草野心平を中心として一つの流をなしている。しかしこれはぜんたいの流れがそうなのであったということで、その思想的背景なり詩的意識なりという点では、三誌はおのずから違ったところがある。殊にアナキ-キズムの傾向ということになると『歴程』にはほとんどそれがなく…(略)…
 アナーキズム文学またはそれに近い性格が、いちばんはっきりしているのは『銅鑼』である。次いで『学校』になるとそれはアナーキズム文学というよりも、むしろ〝文学的アナーキズム〟という方がふさわしいような、そういう傾向の雑誌に変貌していた。
           <『逆流の中の詩』(伊藤信吉著、七曜社)19pより>
 そして、伊藤は
 私は青春時代に郷里前橋市で、二人のアナーキズムの詩人――もしくはアナーキズム系の詩人を知った。萩原恭二郎と草野心平である。
           <『逆流の中の詩』(伊藤信吉著、七曜社)293pより>
と見ていた。
 また、『宮沢賢治覚書』所収の「年譜―草野心平」によれば 
一九二七年(昭和二年) 一月 アナーキストの件を父に訴えると言われ、一時新潟に身を隠す。
             <『宮沢賢治覚書』(草野心平著、講談社文芸文庫)296pより>
ともある。
 ということは、草野心平は少なくともアナーキズム系の詩人であり、彼が携わった三誌の中ではなかんずく『銅鑼』がアナーキズムの傾向が強かったということになる。
 実際、詩誌『銅鑼』に載った作品等
・第十三号 岡本潤「何が<観念的>であるか アナーキズム戦線内に於ける唯物弁証論者への質疑」
・第十四号 「エリゼ・ルクリュへのバクーニンの手紙の断片」(土方定一訳)
       「行動原理の確立へ」(手塚武のアナキズム宣言?)
・第十五号 扉にクロポトキンの言葉
・第十六号 「クロポトキンの追憶に」(ダントン、土方定一訳)
       「社会民主主義とアナーキズム」(ロドルフ・ロッカー、土方定一訳)
             <『校本宮澤賢治全集第十四巻』(筑摩書房)904p~より>
からみても、アナーキズムの傾向が強いことは明らかである。
 さらに伊藤は
 雑誌『銅鑼』(大一四・四創刊)が草野心平・土方定一、手塚武・原理充雄らを中心に、小野十三郎・岡本潤・萩原恭二郎・神谷暢・竹内てる代・宮沢賢治・高村光太郎・尾形亀之助・尾崎喜八・坂本遼、その他が執筆したことをみても、アナーキズムの詩の系流には、情操としてのアナーキズムというべきものが絶えず入りこんでいた。
と述べ、宮沢賢治の名を挙げている。 
 したがって、
   宮澤賢治は少なくともアナーキズムの傾向のある詩人であった。
と見てもよさそうだ。
 
 さてこのことを知って上でもう一度考えてみると、はたして賢治はどのような想いで、どんな意図があって
   サキノハカといふ黒い花といっしょに
   革命がやがてやってくる

という詩句を〔作品番号一〇五六〕や『生徒諸君に寄せる』に詠み込んでいたのだろうか、ということが少しだけだが垣間見えてきたような気がする。


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 なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
   「目次
   「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)
   「おわり
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