みちのくの山野草

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3974 文芸評論『宮澤賢治の昭和三年』より(#3)

2014-05-31 08:30:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
賢治の夢見たもの
 日高見 猫十氏は同論考を次のように続けている。
☆賢治の夢見たもの
 その「本統の百姓になる」ため、大正十五年三月31日付けで教師をやめた賢治は、翌日4月一日から、下根子桜にあった別宅(本来、祖父喜助が建てた別荘)にうつり、念願の独居自炊の生活を始める。
 賢治のおかしいところは、ここで前日にちゃっかり岩手日報の取材を受けているところだ。自分でプロモートしたのか、記者がどこかで聞きつけたのかはわからないが、四月一日の岩手日報に次の記事が掲載されているからだ。

 「新しい農村の 建設に努力する 花巻農學校を 辞した宮澤先生
 花巻川口町宮澤政治(ママ)郎氏長男賢治(二八(ママ))氏は今囘縣立花巻農学校の教諭を辞職し花巻川口町下根子に同志二十餘名と新しき農村の建設に努力することになつた。
 きのふ宮澤氏を訪ねると現代の農村はたしかに経済的にも種々行きつまつてゐるやうに考へられます、そこで少し東京と仙台の大學あたりで自分の不足であった『農村経済』について少し研究したいと思ってゐます そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち藝術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈會の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一囘位もよほしたいとおもつてゐます幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えですと語つてゐた、氏は盛中卒業後盛岡高等農林學校に入学し同校を優等で卒業したまじめな人格者である」

 後の賢治の足跡を考えると、このコメントがほほえましくもあり、かつ痛ましくもなる。賢治は、自分の夢みたものを、ほとんど無邪気に語っているからだ。
             〈『北の文学』68号(岩手日報社、2014、5)26p~より〉
 この部分を読ませていただいてまず真っ先に感心したのが、日高見氏は
 賢治のおかしいところは、ここで前日にちゃっかり岩手日報の取材を受けているところだ。
とさらりと言い切っているところだ。小気味よい。実はこのような私でさえも、こと賢治に関してはこのようにさらりとは言い切れずに躊躇いがちに別表現してしまうのが常だったからだ。
 なお、4月1日付『岩手日報』の三面に載った実際の記事は以下のようなものである。


日高見氏の見立てに賛同
 もちろん、たしかに日高見氏のお見立てどおりであり、この賢治のコメントには無邪気さがみられる。特に、私からすればこのコメントの内容からは、賢治がこの時にはたして「本統の百姓になる」という決意と覚悟をしていたのかが読み取れないからだ。となれば、賢治の言っていた「本統の百姓」と、私の持っている「本統の百姓」の言語感覚、あるいはその言葉の定義はかなり異なっているということなのだろう。そしてれは私の場合だけではなく、その当時花巻周辺に住んでいたそれこそ「本当のお百姓さん」たちも、この中で賢治が無邪気に語っている下根子桜での夢見た生活振りが「本当の百姓」のものであるなどとは誰一人思っていなかったであろうこともほぼ自明であろう。
 とまれ、この賢治のコメントからは、
 「北上川が一ぺん汎濫すれば百万疋死ぬ鼠」と同じような境遇の百姓のために、自ら百姓になっておれは働くのだ
という気概は私には感じられない。まさしく日高見氏の言うとおりで、「ほとんど無邪気」なコメントである。
 しかもこれまた日高見氏が
 賢治のおかしいところは、ここで前日にちゃっかり岩手日報の取材を受けているところだ。自分でプロモートしたのか
と指摘するとおりであり、私もやはりこの取材のされ方はおかしいと思っていた。それゆえ、私は以前“4月1日付『岩手日報』報道の疑問”において、
 賢治が積極的にマスコミすなわち『岩手日報』に取材を依頼したという可能性が極めて高い
ということの根拠を少しく展開した次第である。そしてその結論は、賢治の花巻農学校の退職については
 その衝動的な退職には私達が知らない何らかの理由がそこにはあり、それに「当て付ける」ためのマスコミへの取材依頼
があったのではなかろうかという可能性が否定しきれないというものだった。
 というのは、その前後の賢治の言動を調べてみればそうとしか判断できないからである。もちろん、賢治と岩手日報社といえば、その間を取り持つ人物として森荘已池がいるが、この大正15年4月頃といえば、森荘已池は3月には盛岡中学を卒業して4月からは東京外国語学校に進学していたので岩手には不在であり、その線は消える。そして、その他に間を取り持つような人物は私には思い浮かばない。したがって日高見氏の仰るところの可能性に私も賛成する。つまり、賢治自身がプロモートした結果行われた取材だった可能性が限りなく大きいと。ちょうどそれは、『その年の入学式の日に、「私は、今後この学校には来ません」と廊下と講堂の入口に、賢治自筆の紙が貼ってあった』という小田島留吉の証言における賢治自身の行為と符合していることからも言えるだろう。

 やはり、このコメントの「無邪気さ」は、賢治は大正15年4月1日時点までに用意周到な準備と熟考を重ねた上で下根子桜の生活を始めたわけではないということを示唆している、と私は思わざるを得ない。

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