みちのくの山野草

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3971 文芸評論『宮澤賢治の昭和三年』より(#2)

2014-05-30 08:30:00 | 賢治渉猟
《創られた賢治から愛すべき賢治に》
「本統の百姓」志願
 さて日高見 猫十氏は同論考において“☆「本統の百姓」志願”という項を立て、「昭和三年六月の不在」の謎解きのために3年ほど遡って賢治が花巻農学校学校を辞める一年ほど前の考察を次に行っている。具体的には大正14年の3通の書簡
   4月13日付け杉山芳松宛、6月25日付け保阪嘉内宛、6月27日付け斉藤貞一宛
の中のいずれにもある「本統の百姓」という表記に注目して、
 三人に対して一年後には「本統の百姓になる」と宣言している。並たいていの決心ではなかったことがわかる。
と同論考で述べている。
 たしかに日高見氏の指摘するとおりで、並大抵の決心ではなかったであろう。それは、親友だったはずの保阪宛書簡で
    来春はわたくしも教師をやめて本統の百姓になって働きます。
と決意の程を述べ、しかも時を置かずしてその翌々日には教え子の斉藤宛書簡でもまた
    わたくしも来春は教師をやめて本統の百姓になります。
とわざわざ宣言していることからしても容易に読み取れる。
 そして日高見氏は次のように賢治の心中を忖度したりしている。
 大正十三年四月には、心象スケッチ『春と修羅』を刊行、同年十二月にはイーハトーヴ童話『注文の多い料理店』も刊行された。人生でもっとものっていた時期だったといってもよい。
 だがここで、宗教者としての賢治の顔が現れてしまうのだ。本人はのちにそれを「慢」だったと悔やんでいる。でもそれは、困窮している人々を救いたい、そのためなら自分のからだもいのちもささげてもいい、という自己犠牲志願というかたちの慢心だったおもう。仏教的にいえば「捨身」願望。賢治の作品からたとえるならば「グスコーブドリ病」ともいうべき真情だった。
              <『北の文学』68号(岩手日報社、2014、5)23p~より>
 私などはとても、日高見氏のように
   だがここで、宗教者としての賢治の顔が現れてしまうのだ。
と見抜き、
   本人はのちにそれを「慢」だったと悔やんでいる。
等とは断定できなでいるから、日高見氏のこの自信に満ちた論述に敬服してしまう。まして、
 「北上川が一ぺん汎濫すれば百万疋死ぬ鼠」と同じような境遇の百姓のために、自ら百姓になっておれは働くのだ、という賢治なりの決意宣言。
 それが賢治のいう「本統の百姓になります」のなかみだった。
              <『北の文学』68号(岩手日報社、2014、5)26p~より>
と言い切っている日高見氏の解釈はさすがと、感心する。

私の悩み
 さりながら、私は迷っている。それは、どうも私の場合は賢治はそこまで決意していたとは思えないからである。もっと正確に言うと、たしかに賢治はある時期「本統の百姓になる」と決意したことはあったかもしれないが、その決意をその後も持ち続けてその結果として花巻農学校を辞めたのだとはどうしても思えない。ましてその後もその思いを持ち続けながら下根子桜で活動していたとは考えられないからである。もし仮にそうだったとしたならば、退任式も行われなかったという不自然な農学校の辞め方はなかったはずだし、大正15年隣の紫波郡内では飢饉と言ってもいいほどの惨状に陥っていたのにも拘わらず賢治は義捐活動も一切為さずそのうえ年末には大金を使っての約一ヶ月の滞京などはあり得ないはずだし、はたまた、松田甚次郎が昭和2年3月に下根子桜を訪れた際に賢治自身はそれになっていないのにもかかわらず甚次郎に対して「小作人になれ」とは言えないはずである等々、かなりの点で“「本統の百姓になります」のなかみ”とは矛盾している事実が賢治には実際にあったから、賢治はその決意が元で花巻農学校を辞めたわけでは決してなく、その他の大きな理由があって辞めざるを得なかったのではなかろうかと私は思い悩んでいる。
 これは皮肉でも何でもなく、賢治は天才だから「熱しやすく冷めやすい」性向がある。一つのことを粘り強く長続きさせることができない傾向がしばしば見られる。実際、関登久也も自著『宮沢賢治物語』(岩手日報社)の「前がき」で、敢えて賢治の欠点を挙げるとすればと断った上で、
 もし無理に言うならば、いろんな計画を立てても、二、三日もするとすつかり忘れてしまつたように、また別の新しい計画をたてたりするので、こちらはポカンとさせられるようなことはあつた。
と述懐している。
 たしかに、花巻農学校を辞める半年前に3人に対して「本統の百姓になります」と宣言はしているが、はたしてそれが辞めるための直接の原因だったのか、とりわけ退任式もない賢治の退職であったことに鑑みれば、衝動的に辞めたのではなかろうかと思えてならない。そしてそれゆえ、あのような4月1日付新聞報道となったのではなかろか。  

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