《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)
第五章 仮説の検証(Ⅱ)少し話がそれてしまった。再び元の道に戻ってまだ残っている証言等によって、次の仮説、
賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。……………♣
の検証等をしていきたい。ただしここからは「仮説♣」に対してだけでなくて、関連する事柄、例えば賢治の楽器演奏技能なども検証等をしていきたい。1 「文語詩篇ノート」
それは、ちょっとスリリングな旅の再開でもある。この仮説を裏付けてくれる証言等が幸い今まで幾つかあったが、そのようなものが山ほどあったとしても、たった一つの反例が見つかればその仮説はあっけなく棄却される定めとなるからである。
反例か「文語詩篇ノート」
そのような意味で、この仮説の反例となる可能性の高いのが賢治自身の次のメモである。それは下図【Fig.3「文語詩篇ノート」三五、三六頁の写真】の三六頁の次のようなメモ、
【Fig.3「文語詩篇ノート」三五、三六頁の写真】
八月、藤原ノ家ニオシカケ来ル
十一月 白藤ヲタノミテ藤原ノ婚式(ママ) ……………①
<『校本宮澤賢治全集第十二巻(上)』(筑摩書房)539pより>
である。そしてこの右側の三五頁を見れば、その右上隅に、
「1927」
とメモされている。もちろんこの数値「1927」は1927(昭和2)年のことを意味しているだろうから、このメモ①の意味しているところは、
昭和2年の11月に藤原嘉藤治は結婚式を挙げた。……②
と解釈できそうだ。
もしそうであるとするならば「仮説♣」はちょっと危うくなる。なぜならば、この結婚式がもし仮に昭和2年の11月半ば以降に行われていたとするならば、この結婚は賢治自身が強く勧めたといわれているようだから、藤原嘉藤治の結婚式の準備と当日の大役のために奔走・大活躍していておおわらわだったはずで、当然その頃賢治は岩手に居ることとなり、賢治が昭和2年の11月に上京して翌年の1月までの約3ヶ月間滞京していたということは時間的にやや無理が生じてくる虞があるからである。まあ、11月の上旬の挙行ならばぎりぎり問題なさそうではあるが。少し「仮説♣」の自信が揺らぎ、少し焦る。
藤原嘉藤治の結婚式はいつか
そこで、藤原嘉藤治がいつ結婚式を挙げたのかを別の資料でも確認してみよう。
(ア) まず「新校本年譜」では次のように
昭和2年の中に
一一月 「文語詩篇」ノートに「十一月 白藤ヲタノミテ藤原ノ婚式」とメモ。
<「新校本年譜」(筑摩書房)362pより>
とあるだけで新たに分かることは何も書かれておらず、昭和2年11月に藤原嘉藤治の結婚式を挙げたとも書かれていない。
(イ) 次は『年譜 宮澤賢治伝』ではどう書かれているかを見てみた。そこには、昭和2年のこととして次のように書かれていた。
結婚式は北上川の川原でやろうという藤原説であったが、賢治はそれはあんまりといって盛岡の白藤慈秀の家で挙行することにした。
九月である。費用は例の芳文堂のおやじから七十円ほど借りて藤原はモーニングを着た。賢治は父の羽織はかま紋付に扇子をもってあらわれ、花婿花嫁、親戚の坐る位置を決め式の万端を指図した。
<『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)218pより>
したがって堀尾青史は、藤原嘉藤治の結婚式は昭和2年9月であったと判断していることになる。挙式は11月でなかったし、もちろんあの「11月4日~2月8日の空白の3ヶ月余」の間に行われた訳でもなさそうだ。ちょっと安堵。昭和2年の中に
一一月 「文語詩篇」ノートに「十一月 白藤ヲタノミテ藤原ノ婚式」とメモ。
<「新校本年譜」(筑摩書房)362pより>
とあるだけで新たに分かることは何も書かれておらず、昭和2年11月に藤原嘉藤治の結婚式を挙げたとも書かれていない。
(イ) 次は『年譜 宮澤賢治伝』ではどう書かれているかを見てみた。そこには、昭和2年のこととして次のように書かれていた。
結婚式は北上川の川原でやろうという藤原説であったが、賢治はそれはあんまりといって盛岡の白藤慈秀の家で挙行することにした。
九月である。費用は例の芳文堂のおやじから七十円ほど借りて藤原はモーニングを着た。賢治は父の羽織はかま紋付に扇子をもってあらわれ、花婿花嫁、親戚の坐る位置を決め式の万端を指図した。
<『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、中公文庫)218pより>
(ウ) そこで、念を押すために『セロを弾く 賢治と嘉藤治』でも確認してみよう。その略年譜には、
一九二八(昭和三)年
三月(?) 宮沢賢治の仲人で小野キコと結婚。
<『セロを弾く賢治と嘉藤治』(佐藤泰平著、洋々社)234pより>
となっている。つまり、「昭和三年の三月に結婚したかな?」という意味の記載になっている。少なくとも昭和2年の11月には結婚式を挙げていないようだし、挙式が「11月4日~2月8日の空白の3ヶ月余」の間に行われた訳でもなさそうだ。かなり安堵。一九二八(昭和三)年
三月(?) 宮沢賢治の仲人で小野キコと結婚。
<『セロを弾く賢治と嘉藤治』(佐藤泰平著、洋々社)234pより>
どうやら、賢治のメモ①があるとはいうものの、実際には、
・昭和2年の11月に藤原嘉藤治は結婚式を挙げていない。
・また藤原嘉藤治は「11月4日~2月8日の空白の3ヶ月余」の間に挙式した訳でもない。
と結論してもよさそうだ。・また藤原嘉藤治は「11月4日~2月8日の空白の3ヶ月余」の間に挙式した訳でもない。
ということは①の意味は②ではなくて、 「藤原嘉藤治の結婚式の式場を白藤に頼んだのは11月だった」という意味だったのかもしれない。あるいは、単なる賢治の勘違いだったのかもしれない。
したがって以上の事柄から判断して、「文語詩篇ノート」三六頁のメモ「十一月 白藤ヲタノミテ藤原ノ婚式」は少なくとも「仮説♣」の反例とはなり得ないだろうと判断できた。正直これでホッとした。
当事者達の証言
ところで、この結婚に関しては当の藤原嘉藤治と白藤慈秀を交えた「座談会・賢治素描」における二人の証言、及び『こぼれ話宮沢賢治』における白藤慈秀の証言がある。
ちなみに前者においては次のようなことがなど語られている。
藤原 …私たちの席に出てきた女給を見て、私が何気なく、「この人は、ぼくの好きなタイプの女性だ」といいました。そしてら宮沢さんが、「好きなら結婚しろ、ここでハッキリ返事しろ」というのですね。…(中略)…「えがべ、もろうべ(よい、結婚しよう)」と返事をしました。宮沢さんは、たちまちのうちに、間もない日曜日に、弘前の彼女の家までいってくれました。話は、とんとんまとまってしまいました。…(中略)…
白藤 はじめ宮沢さんは、青天井の下の川原で結婚式をやろうなどといっていましたが、たぶんお父さんやお母さんにとめられたのでしょうか、盛岡の私のところで式をあげました。式の万端、花婿花嫁、親戚の者などの坐る位置や扇の果てまで、宮沢さんが、さいはいをふって、ちゃんと滞りなくすませました。
藤原 …白藤さんの家は、そのころ盛岡の油町という町にありましたが、そこで式をあげました。盛岡駅でも汽車の中でも、宮沢さんは知人がおりますと、この人は藤原君の新夫人です。こんごよろしくと、紹介しましたし、桜の住宅の近くでも、こんど結婚しましたからよろしくと、紹介して歩きました。
<『宮沢賢治の肖像』(森荘已池著、津軽書房)65p~より>白藤 はじめ宮沢さんは、青天井の下の川原で結婚式をやろうなどといっていましたが、たぶんお父さんやお母さんにとめられたのでしょうか、盛岡の私のところで式をあげました。式の万端、花婿花嫁、親戚の者などの坐る位置や扇の果てまで、宮沢さんが、さいはいをふって、ちゃんと滞りなくすませました。
藤原 …白藤さんの家は、そのころ盛岡の油町という町にありましたが、そこで式をあげました。盛岡駅でも汽車の中でも、宮沢さんは知人がおりますと、この人は藤原君の新夫人です。こんごよろしくと、紹介しましたし、桜の住宅の近くでも、こんど結婚しましたからよろしくと、紹介して歩きました。
そして後者においては次のようなことが述べられている。
宮沢さんは、この女性キコさんの実家をたずねて青森県まで行った。そして両親に会って、キコさんの結婚問題を話した。藤原先生のことについて話し、この先生とキコさんとの結婚について両人は既にその意志があるから、ご承諾してくれませんかと話しかけた。両親はやや考えていたが遂に諒解を得たので、花巻に帰り、両親に承諾を得たことを話した。キコさんは青森の実家に帰り、嫁入りの支度を整えて花巻に帰って来た。
<『こぼれ話宮沢賢治』(白藤慈秀著、トリョーコム)37pより>これらの証言等からは、藤原嘉藤治の結婚に関しては賢治が大部骨を折ったことはほぼ間違いなかろうし、その具体的な中身も複数の証言があってなおかつ矛盾はしていないようだから、賢治が媒酌人を努めたことなどを始めとして基本的にはこのとおりであったであろう。
『いわて人国記91』より
一方、昭和51年に読売新聞社盛岡支局が出版した『啄木 賢治 光太郎』だが、これは前年の、昭和50年4月1日から一年間にわたって『読売新聞・岩手版』に連載された『いわて人国記』シリーズを元に一冊の単行本にしたものであるという。
その際に、例えばそのシリーズ中の『いわて人国記91』(昭和50年9月30日付)は採用されなかった。その『いわて人国記91』の中に藤原嘉藤治の結婚に関する次のよう記述がある。
彼の結婚は、もっぱら賢治の奔走によるものだった。前述の白藤慈秀の回想によれば、藤原から、花巻のある喫茶店で働いた一女性の気持ちを打ちあけられた賢治は、彼女の実家がある青森まで行き、両親の承諾を得たうえで式場を盛岡の白藤の家に決め、さらに当日は媒酌人の役まで務めたという。しかし、この結婚の経緯にしても、藤原は「多くの人が語っている以上に複雑な事実がある」と話す。
「すばらしい賢治」
「ただ、それらは現に関係者が生きている以上、公表できる筋合いのものではないんです。たとえ公表しても、自分が文章で書かなければ、ニュアンスが違ってしまう。第一、賢治は複雑な多面体の存在であって、結局のところ、だれもその真の姿が語れるはずがない。よく直接賢治を知る者が、賢治を美化するといわれるが、そうではなくて、実際に賢治がすばらしかったんです」
<昭和50年9月30日付『岩手日報』より>「すばらしい賢治」
「ただ、それらは現に関係者が生きている以上、公表できる筋合いのものではないんです。たとえ公表しても、自分が文章で書かなければ、ニュアンスが違ってしまう。第一、賢治は複雑な多面体の存在であって、結局のところ、だれもその真の姿が語れるはずがない。よく直接賢治を知る者が、賢治を美化するといわれるが、そうではなくて、実際に賢治がすばらしかったんです」
よって、この藤原嘉藤治の「ただ、それらは現に関係者が生きている以上、公表できる筋合いのものではないんです」という独白(?)からは、巷間伝わっていることが真実であるとは言い切れなさそうだということが分かる。また同時に、その裏にはいろいろ複雑な事情がありそうだということも、である。
まさしく「よく直接賢治を知る者が、賢治を美化するといわれるが、そうではなくて、実際に賢治がすばらしかったんです」と賢治を激賞している藤原嘉藤治とすれば、彼は文圃堂版や十字屋書店版『宮澤賢治全集』の編纂等にも携わっている訳だからいろいろなことを知っているが故に、「多くの人が語っている以上に複雑な事実がある」 と取材した読売新聞社の記者に話したということかもしれない。
一方で、この『いわて人国記91』には次のようなこと、
藤原はいま「宮沢賢治との出会い」と題した回想記を執筆を準備している。改めて事実関係を調査しなおし「賢治と同時代に生きたわたしの責任において」また「遺書」のつもりで、すべてを書き残しておきたいのだという。
<昭和50年9月30日付『岩手日報』より>も載っていたが、残念なことにこの回想記「宮沢賢治との出会い」が世に出ることはなかったようだ。もしかすると、藤原嘉藤治の没後、奥さんがその遺品を整理する際に焼却してしまったあの中にそれはあったのだろうか。
いずれ、現在行方不明中と思われる藤原嘉藤治の何冊かの日記や同じく藤治著の『我が年譜』が見つかれば、もう少し「複雑な事実」が明らかになるかもしれないが、現時点で言えることは藤原の結婚に関する「事実」は巷間伝わっているものとは大部異なっている可能性があるということだろう。
続きへ。
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〝「菲才だからこそ出来た私の賢治研究」の目次〟へ。
〝渉猟「本当の賢治」(鈴木守の賢治関連主な著作)〟へ。
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ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。
【新刊案内】
そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))
であり、その目次は下掲のとおりである。
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