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4 「宮澤賢治年譜」の書き変え

2024-08-20 12:00:00 | 菲才でも賢治研究は出来る
《羅須地人協会跡地からの眺め》(平成25年2月1日、下根子桜)

4 「宮澤賢治年譜」の書き変え
 さて、前回、「もっと正確に言うといつの間にか全く無視されることになった」とつぶやいたことに関して次に少しく説明したい。

 「宮澤賢治年譜」リスト
 まずは、再び主だった「宮澤賢治年譜」の中から特にある二つの事項に着目して抜き出しながら、年代順に並べてみたのが次表である。

          【表6 「宮澤賢治年譜」リスト】
(1) 昭和17年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(二五八八)
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。
この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
二月、「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を發表す。
     <『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和17年9月8日 発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(2) 昭和22年発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
△ 十二月十二日、上京中タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題につき相語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
△ 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を制作す。
昭和三年 三十三歳(一九二八)
△ 一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より、過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
△ 三月、「聖燈」(花巻町)に詩「稲作挿話」を發表す。
     <『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店、昭和22年 7月20日第四版発行)所収「宮澤賢治年譜」より>
(3) 昭和26年発行
大正十五年 三十一歳(一九二六)
十二月十二日上京、タイピスト学校において知人となりしインド人シーナ氏の紹介にて、東京国際倶楽部に出席し、農村問題につき壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交えて農村問題や言語問題につき語る。
昭和二年  三十二歳(一九二七)
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(一九二八)
一月、肥料設計、作詩を継続、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊による栄養不足にて漸次身体衰弱す。
二月、「銅鑼」第十三号に詩「氷質の冗談」を発表す。
三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を発表す。
      <『宮澤賢治』(佐藤隆房、冨山房、昭和26年3月1日発行)所収「宮沢賢治年譜 宮澤清六編」より>
(4) 昭和27年発行
大正十五年 三十一歳(二五八六)
十二月十二日、上京、タイピスト學校に於て知人となりし印度人シーナ氏の紹介にて、東京國際倶樂部に出席し、農村問題に就き壇上に飛入講演をなす。後フィンランド公使と膝を交へて農村問題や言語問題 つき語る。
昭和二年 三十二歳(二五八七)
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
昭和三年 三十三歳(二五八八)
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。
この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す。
二月、「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表す。
三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を發表す。
     <『宮澤賢治全集 別巻』(十字屋書店、昭和27年7月30日第三版発行)所収「宮澤賢治年譜 宮澤清六編」より>
(5) 昭和28年発行
大正十五年(1926) 三十一歳
十二月十二日、東京國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927)  三十二歳
  九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作
  十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く。
昭和三年(1928) 三十三歳
 一月、肥料設計。この頃より漸次身體衰弱す。
 二月、「銅鑼」第十三號に詩「氷質の冗談」を發表。
 三月、梅野健三氏編輯の「聖燈」に詩「稲作挿話」を發表。
     <『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年 6月10日発行)所収の「年譜 小倉豊文編」より>
(6) 昭和32年発行
大正十五年(一九二六) 三十一歳
十二月、『銅鑼』第九號に詩「永訣の朝」を發表した。又上京してエスペラント、オルガン、セロ、タイプライターの個人授業を受けた。また東京國際倶樂部に出席してフィンランド公使と農村問題について話し合った。
昭和二年(一九二七)  三十二歳
六月、詩「裝景手記」を書いた。
肥料設計はこの頃までに約二千枚書かれた。
九月、『銅鑼』第十二號に詩「イーハトヴの氷霧」を發表した。
上京して詩「自動車群夜となる」を創作した。
昭和三年(一九二八)  三十三歳
肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱して來た
二月、『銅鑼』第十三號に詩「氷質の冗談」を發表した。
三月、『聖燈』に詩「稲作挿話」を發表した。
      <『宮澤賢治全集十一』(筑摩書房、昭和32年7月5日再版発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
(7) 昭和41年発行
大正十五年(一九二六) 三十歳
十二月四日 上京して神田錦町三丁目十九番地上州屋に間借りした。
上京の目的は、エスペラントの学習、セロ、オルガン、タイプライターの習得であった。
十二月十二日 神田上州屋より父あて書簡。
 ――今日午後からタイピスト学校で友達となつたシーナといふ印度人の紹介で東京国際倶楽部の集会に出て見ました。
昭和二年(一九二七)  三十一歳
六月 裝景手記
   月末までに肥料設計は二千をこえた。
九月 『銅鑼』第十二号に「イーハトヴの氷霧」を発表。
昭和三年(一九二八)  三十二歳
二月 『銅鑼』第十三号に詩「氷質の冗談」を発表。
三月 花巻の人梅野健三氏編集の『聖燈』に詩「稲作挿話」を発表。
      <『年譜 宮澤賢治伝』(堀尾青史著、図書新聞社、 昭和41年3月15日発行)より>
(8) 昭和44年発行
大正十五年(一九二六) 三十一歳
十二月、『銅鑼』第九號に詩「永訣の朝」を掲載。
月初めに上京、二十五日間ほどの間に、エスペラント、オルガン、タイプライターの個人授業を受けた。また東京國際倶樂部に出席、フィンランド公使と農村問題、言語の問題について話し合ったり、セロの個人授業を受けたりした。
昭和二年(一九二七)  三十二歳
六月、「裝景手記」を書く。
肥料設計はこの頃までに二千枚書かれた。
九月、『銅鑼』第十二號に「イーハトヴの氷霧」を發表。
昭和三年(一九二八)  三十三歳
肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱してきた。<*>
二月、『銅鑼』第十三號に詩「氷質の冗談」
を發表。
三月、『聖燈』(發行所花巻町)に詩「稲作挿話」を發表。
      <『宮澤賢治全集第十二巻』(筑摩書房、昭和44年3月第二刷発行)所収「年譜 宮澤清六編」より>
<*投稿者註> 
  肥料設計、作詩を續けたが漸次身體が衰弱してきた。
とあるが、旧字体で記載されてあることから推してここは以前のものをそのまま使ったと思われる。

(9) 昭和52年発行
一九二六(大正一五・昭和元)年 三〇歳
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る。「今度はおれも真剣だ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが沢里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。
一九二七(昭和二)年 三一歳
九月一日(木) 「銅鑼」第一二号に<イーハトヴの氷霧>を発表。
一九二八(昭和三)年  三二歳
二月一日(水) 「銅鑼」一三号に<氷質のジョウ談>を発表。
三月八日(木) 「聖燈」創刊第一号に<稲作挿話>を発表。
      <『校本 宮澤賢治全集 第十四巻』(筑摩書房、昭和52年10月30日発行)「年譜」より>
(10) 平成13年発行
一九二六(大正一五・昭和元)年 三〇歳
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」といったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。 ……………○現
一九二七(昭和二)年 三一歳
九月一日(木) 本日付発行の「銅鑼」第一二号に<イーハトヴの氷霧>を発表。
一九二八(昭和三)年  三二歳
二月一日(水) 「銅鑼」一三号に<氷質のジョウ談>を発表。
二月九日(木) 湯本村伊藤庄右衛門の依頼をうけ、農事講演会に出席。堀籠文之進のあとを受けて講演
三月八日(木) 「聖燈」創刊第一号に<稲作挿話>を発表。
     <「新校本年譜」(筑摩書房、平成13年12月10日発行)より)>

 「宮澤賢治年譜」の変化
 このように並べてみると、まず第一に言えることは、昭和32年より前であればいずれの「宮澤賢治年譜」においても昭和2年の賢治については、
  ・九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。
と記されていたのだが、昭和32年の「賢治年譜」からは、この表記がぼやけ始め、その次の「賢治年譜」からはこの事項が消滅していった。つまり賢治は「賢治年譜」上では昭和2年には上京していなかったことになっていったということである。
 その第二は、同じくそれまでは「賢治年譜」の昭和3年には、
  ・漸次身體衰弱す。
というような記載がいずれにもあったのだが、ほぼ時を同じくして消え去ってしまったことである。先に私が「二つの事項に着目して抜き出して」と言った「二つ」とはこれらの二つの事項のことであったのである。
 ここで、一度振り返って見てみれば、
それまで通説になっていた「賢治年譜」がある時を境にして大きく書き変えられ、澤里の証言が当てはまらないような新たな「賢治年譜」が作られていった。
という見方ができることを知った。
 なお注意深く見てみれば、先の【表6】の中の「(6) 昭和32年発行」がその境目であり、過渡期とも言えそうだ。なぜならばそれまでは次の二つの事項「上京、詩「自動車群夜となる」を創作す」及び「漸次身體が衰弱してきた」についてはそれぞれ「九月」「一月」と月が限定されて明記してあったのに、(6)ではそれらが明記されず、それ以降のものは事項そのものまでが消え去っているからである。
 ということは、この「昭和32年」とはもしかすると何か重大なことが起こっていた年なのだろうか。それまでの流れが大きく変化していったのは何故なんだろうか……。
 この不可思議な経緯こそが、私がつぶやいた「いや、もっと正確に言うといつの間にか全く無視されることになった」の意味である。したがってこれらのことに鑑みれば、大正15年12月2日の「現定説」は歴史的事実に基づいていないのではなかろうかという指摘を実は澤里の証言自体がしており、その検証をせねばならぬという問題提起がそれこそ澤里によってなされているという見方もできよう。
 とまれ、昭和32年頃からそれまでの「宮澤賢治年譜」が書き変えられて行ったとうことを否定出来なさそうだ。

 沈黙する澤里に
 一方その澤里についてだが、『チェロと宮沢賢治』の中に次のようなことが述べられている。
 遠野市芸術文化協会の会長、登坂慶子さんは幼いころから、向かい側に住む学校の先生の先生の家に遊びに行って、よく話を聞かされた。
 この先生の話は「ミヤザワケンジという先生がいてなあ」というもので、登坂さんはミヤザワケンジは先生の先生程度にしか思っていなかった。が、そのミヤザワケンジが東京にチェロを習いに行ったとき、自分が花巻駅までチェロをかついでいった、という先生の話をいまでも覚えている。そのうち向かいの先生が結婚して、あまり遊びに行かなくなったが、ミヤザワケンジという人はいつの間にか世の中で有名人になっていた。そうなると向かい側の先生はどういわけか、ミヤザワケンジのことを口にすることがなくなった。再びミヤザワケンジの話をするようになったのは、晩年になってからである。
 この先生こそ賢治の愛弟子、沢里家に養子に迎えられた沢里武治なのだ。…(中略)…
 沢里が晩年になって再び賢治のことを話すようになったのは、実弟清六さんの許しを得てからという律儀さだった。それまでは神様のように尊敬していた賢治のことを自分には語る資格がない、傷つけてはいけないと思っていたようだ。

      <『チェロと宮沢賢治』(横田庄一郎著、音楽之友社) 239p~より>
 この登坂さんという方は私(鈴木)も存じ上げており、聡明なご婦人である。その方の澤里武治に関する証言を知り、澤里の身の処し方の意味がわかったような気がした。また同時に、上掲の後半部分の横田氏の見解になるほどと私は合点がいった。
 そういえば、以前に澤里武治の長男裕氏の証言、
 近しい人に対しては別として、父は一般的には公の場で賢治のことをあれこれ喋るようなことは控えていた。一方、家庭内では興が乗ると賢治の真似をし、身振り手振りよろしく賢治の声色を真似て詩を詠ったものだったが。
があることを述べたが、このこととも符合する。たしかに、ある時期から澤里は賢治のことに関しては沈黙するようになったということが言えそうだ。ただし家の中ではそうでもなかったようだが。

 なおこの澤里の沈黙に関しては、後程、「緘黙する澤里」という項で再考したい。

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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