みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

「賢治もそれに呼応して、歓喜にむせぶ」

2020-01-17 16:00:00 | 『宮沢賢治の声 啜り泣きと狂気』より
〈『宮沢賢治の声 啜り泣きと狂気』(綱澤 満昭著、海風社)の表紙〉

努力はそれなりに報いらられることもあった
 「農への突入と悲哀」には、さらにこんなことも述べられていた。
 地主ー小作の対立が、そしてまた自然環境がどんなに厳しくとも、賢治はそのなかで、文字通り寝食を忘れて、ムラのため、農民のために全エネルギーを注いだ。
 努力はそれなりに報いられることもあった。そのような時、彼の心は歓喜に満ち、満面に笑みを浮かべるのであった。絶滅かと思っていた稲が、思いがけなく起きる、苗のつくり方や肥料の加減で。
 次のような唄も生れる。

「今日はそろってみな起きてゐる
森で埋めた地平線から
青くかゞやく死火山列から
風はいちめん稲田をわたり
また栗の葉をかゞやかし
いまさわやかな蒸散と
透明な汁液の移転
あゝわれわれは曠野のなかに
芦とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなかに
素朴なむかしの神々のやうに
べんぶしてもべんぶしても足りない」(「和風は河谷いっぱいに吹く」『宮沢賢治全集』(2)筑摩書房、昭和六十一年、一二七頁)

 肥料や品種の改良で稲が調子よく育っている間は、「先生」として賢治はムラ人によって、称えられる。賢治もそれに呼応して、歓喜にむせぶ。しかし、そのような日ばかりが続くはずはない。賢治の熱意も努力も自然の暴力の前にはひとたまりもない。彼の希望も夢もズタズタにされ、一人淋しくたたずむしかない。
              〈『宮沢賢治の声 啜り泣きと狂気』(綱澤 満昭著、海風社)43p~〉

 たしかに、私も最初「和風は河谷いっぱいに吹く」を知ってそう思った。賢治の肥料設計・稲作指導によって、一度倒れてしまった稲が「今日はそろってみな起き 」たので、賢治はそれがとても嬉しくて「芦とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなか 」で「べんぶしてもべんぶしても足りない」と、欣喜雀躍していたのだろうと。
 ちなみに、この詩は、
 一〇二一  和風は河谷いっぱいに吹く  一九二七、八、二〇、

   たうたう稲は起きた
   まったくのいきもの
   まったくの精巧な機械
   稲がそろって起きてゐる
   雨のあひだまってゐた穎は
   いま小さな白い花をひらめかし
   しづかな飴いろの日だまりの上を
   赤いとんぼもすうすう飛ぶ
   あゝ
   南からまた西南から
   和風は河谷いっぱいに吹いて
   汗にまみれたシャツも乾けば
   熱した額やまぶたも冷える
   あらゆる辛苦の結果から
   七月稲はよく分蘖し
   豊かな秋を示してゐたが
   この八月のなかばのうちに
   十二の赤い朝焼けと
   湿度九〇の六日を数へ
   茎稈弱く徒長して
   穂も出し花もつけながら、
   ついに昨日のはげしい雨に
   次から次と倒れてしまひ
   うへには雨のしぶきのなかに
   とむらふやうなつめたい霧が
   倒れた稲を被ってゐた
   あゝ自然はあんまり意外で
   そしてあんまり正直だ
   百に一つなからうと思った
   あんな恐ろしい開花期の雨は
   もうまっかうからやって来て
   力を入れたほどのものを
   みんなばたばた倒してしまった
   その代りには
   十に一つも起きれまいと思ってゐたものが
   わづかの苗のつくり方のちがひや
   燐酸のやり方のために
   今日はそろってみな起きてゐる
   森で埋めた地平線から
   青くかゞやく死火山列から
   風はいちめん稲田をわたり
   また栗の葉をかゞやかし
   いまさわやかな蒸散と
   透明な汁液の移転
   あゝわれわれは曠野のなかに
   芦とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなかに
   素朴なむかしの神々のやうに
   べんぶしてもべんぶしても足りない
             〈『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)〉
というものであり、私の大好きな詩の一つになったのだった。
 それは例えば、賢治の稲作指導(特に肥料設計)のよろしきを得て、
   十に一つも起きれまいと思ってゐたものが
   わづかの苗のつくり方のちがひや
   燐酸のやり方のために
   今日はそろってみな起きてゐる
ということで、倒伏した稲がものの見事に元のように立ち直ったのだと私には解釈できたからだ。そこで私は、『流石は賢治!』と感嘆し、賢治の稲作指導や肥料設計は神業だと思ったのだった。そしてこの詩にとても感動したものだ。

ちょっと奇妙だ
 しかし、ほどなくこれはちょっと奇妙だということに気付いた。それは、同日付の次の三篇の詩を知ってであった。
一〇八八  〔もうはたらくな〕  一九二七、八、二〇、
  
   もうはたらくな
   レーキを投げろ
   この半月の曇天と
   今朝のはげしい雷雨のために
   おれが肥料を設計し
   責任のあるみんなの稲が
   次から次と倒れたのだ
   稲が次々倒れたのだ
   働くことの卑怯なときが
   工場ばかりにあるのでない
   ことにむちゃくちゃはたらいて
   不安をまぎらかさうとする、
   卑しいことだ
    …(投稿者略)…
   さあ一ぺん帰って
   測候所へ電話をかけ
   すっかりぬれる支度をし
   頭を堅く縄って出て
   青ざめてこわばったたくさんの顔に
   一人づつぶっつかって
   火のついたやうにはげまして行け
   どんな手段を用ひても
   辨償すると答へてあるけ

一〇八九  〔二時がこんなに暗いのは〕  一九二七、八、二〇、
  
   二時がこんなに暗いのは
   時計も雨でいっぱいなのか
   本街道をはなれてからは
   みちは烈しく倒れた稲や
   陰気なひばの木立の影を
   めぐってめぐってこゝまで来たが
   里程にしてはまだそんなにもあるいてゐない
   そしていったいおれのたづねて行くさきは
   地べたについた北のけはしい雨雲だ、
     …(投稿者略)…

一〇九〇  〔何をやっても間に合はない〕  一九二七、八、二〇、
   何をやっても間に合はない
   そのありふれた仲間のひとり
   雑誌を読んで兎を飼って
   巣箱もみんなじぶんでこさえ
   木小屋ののきに二十ちかくもならべれば
   その眼がみんなうるんで赤く
   こっちの手からさゝげも喰へば
   めじろみたいに啼きもする
   さうしてそれも間に合はない
   何をやっても間に合はない
   その〔約五字空白〕仲間のひとり
   カタログを見てしるしをつけて
   グラヂオラスを郵便でとり
   めうがばたけと椿のまへに
   名札をつけて植え込めば
   大きな花がぎらぎら咲いて
   年寄りたちは勿体ながり
   通りかゝりのみんなもほめる
   さうしてそれも間に合はない
   何をやっても間に合はない
     …(投稿者略)…
             〈『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)〉
 直ぐ判るように、「べんぶしてもべんぶしても足りない」いう「和風は河谷いっぱいに吹く」の詩と、投げやりで暗くて自暴自棄な後者三篇とでは賢治の心境は真逆であり、同日に詠まれることはほぼあり得ないはずだ、ということにだ。

〔南からまた西南から〕が下書稿だった
 そこで、「和風は河谷いっぱいに吹く」の詩について調べていたならば、この詩に似た例の詩〔南からまた西南から〕がその下書稿であることを知った。
一〇八三   〔南からまた西南から〕    一九二七、七、一四、
   南からまた西南から
   和風は河谷いっぱいに吹く
   七日に亘る強い雨から
   徒長に過ぎた稲を波立て
   葉ごとの暗い露を落して
   和風は河谷いっぱいに吹く
   この七月のなかばのうちに
   十二の赤い朝焼けと
   湿度九〇の六日を数へ
   異常な気温の高さと霧と
   多くの稲は秋近いまで伸び過ぎた
   その茎はみな弱く軟らかく
   小暑のなかに枝垂れ葉を出し
   明けぞらの赤い破片は雨に運ばれ
   あちこちに稲熱の斑点もつくり
   ずゐ虫は葉を黄いろに伸ばした
   今朝黄金のばら東もひらけ
   雲は騰って青ぞらもでき
   澱んだ霧もはるかに翔ける
   森で埋めた地平線から
   たくさんの古い火山のはいきょから
   風はいちめん稲田をゆすり
   汗にまみれたシャツも乾けば
   こどもの百姓の熱した額やまぶたを冷やす
    あゝさわやかな蒸散と
    透明な汁液の転移
    燐酸と硅酸の吸収に
    細胞膜の堅い結束
   乾かされ堅められた葉と茎は
   冷での強い風にならされ
   oryza sativaよ稲とも見えぬまで
   こゝをキルギス曠原と見せるまで
   和風は河谷いっぱいに吹く
             <『校本宮澤賢治全集第六巻』(筑摩書房)188p~より>
 それは、『校本宮澤賢治全集第六巻』の764pを見てみると、この〔南からまた西南から〕が発展して、「和風は河谷いっぱいに吹く」になったのだと註釈されていたからだ。つまり、〔南からまた西南から〕はその下書稿だったのだ。

天候の検証
 そこで次に、昭和2年の7~8月の天候等を調べてみた。盛岡地方気象台を訪ね、教えて貰った当時の気象データと、これまた、入沢康夫氏から教えて貰った<*1>、「宮沢賢治研究Annual」3号(1993)所収の佐藤泰平氏の論文「『春と修羅』(第1集・第二集・第三集)の<気象スケッチ>と気象記録」等によれば、それは下表のようになった。


 さてそうすると、7月14日付である〔南からまた西南から〕の中の次の連、
   七日に亘る強い雨から      ……⑤
   徒長に過ぎた稲を波立て
   葉ごとの暗い霧を落して
   和風は河谷いっぱいに吹く
   この七月のなかばのうちに
   十二の赤い朝焼けと       ……⑥
   湿度九〇の六日を数へ     ……⑦
   異常な気温の高さと霧と    ……⑧

中の〝⑤~⑧〟についてはそれぞれ次のよう対応することになる。
⑤→ 直前の7/14、7/13、7/11、7/10、7/8、7/7、7/1の7日に亘ってたしかにかなり強い雨が降っている。
⑥→7月14日以前は連日のように雨が降っており、このような気象であれば「やがて雨が降るであろう兆し」である「赤い朝焼け」が「この七月のなかばのうちに/十二」日も続いていると詠んでいることは理に適っている。
⑦→これは、前掲の佐藤泰平氏の論文「『春と修羅』(第1集・第二集・第三集)の<気象スケッチ>と気象記録」に掲げてある表の、「水沢の湿度(90%以上)」の数値と符合している(ただし水沢のデータではあるが。なお、盛岡地方気象台には当時の花巻の湿度のデータの記録は存在していない)。
⑧→この「異常な気温の高さ」については、前掲の同表の中の「昭和2年7月1日~14日」の気温(赤文字部分)の高さが前年及び次年のそれと比べてみればたしかに高いことが言えるから符合する。

 したがって、〔南からまた西南から〕に詠まれている気象に関する事項〝⑤~⑧〟がこれだけ当時の気象データと符合しているから、こちらの詩には気象上の虚構はないと判断できる。またそのことを敷衍すれば、その他の内容についてもそこには虚構がなさそうだ。
 ということは逆に、下書稿の〔南からまた西南から〕が詠まれた日は「一九二七、七、一四」だが、その定稿「和風は河谷いっぱいに吹く」 に詠まれた光景が「一九二七、八、二〇」のものであったとは言えない。つまり、「和風は河谷いっぱいに吹く」に詠まれた内容には虚構があるということとなる。こうなると、他にも客観的なデータ等を虚構していたのではなかろうかという不安にも襲われてしまう。

反収石高の変更
 そこで今度はそのことを少し調べてみたならば、昭和2年7月10日付の〔あすこの田はねえ〕における
    あっちは少しも心配がない
    反当二石五斗ならもうきまったやうなものなんだ
             <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)>
の部分は、推敲されて約10ヶ月後に公に発表された「稲作挿話」においては、
    あつちは少しも心配ない
    反当三石二斗なら
    もう決まつたと云つていゝ
             <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)>
となっていることを知った。
 あるいはまた、「和風は河谷いっぱいに吹く」の〝下書稿(四)〟の中に次のような連があるということも知った。
   あゝわれわれはこどものやうに
   踊っても踊っても尚足りない
   もうこの次に倒れても
   稲は断じてまた起きる
   今年のかういふ湿潤さでも
   なほもかうだとするならば
   もう村ごとの反当に
   四石の稲はかならずとれる
             <『校本宮澤賢治全集第四巻』(筑摩書房)>
 なんと、賢治は「この調子なら村毎に〝反当四石〟は必ずとれる」と高らかに詠おうと思った節もあったことがここから導かれる。しかし、当時の米の反収は二石前後であり、「二石五斗」は上等、「三石二斗」なら奇跡、まして「村毎に〝反当四石〟は必ずとれる」は現実的にはまずあり得ない。だから、すっかり賢治の心の内が垣間見てしまった気がする。
 どうやら、「和風は河谷いっぱいに吹く」においては天候のみならず、「今日はそろってみな起きてゐる」が事実であったとは言えないということや、その下書稿においては反収石高の水増しがなされようとしていたということがもはや否定できない。もちろん詩において虚構があることは何ら問題はないのだが、この特に「村毎に〝反当四石〟は必ずとれる」というあり得ないことまでもあの賢治が詠み込もうとしていたということを知ってしまうと、これで完全にこれらの詩から私の感動は潰え去ってしまったということは言っておきたい。かつての私が、〔あすこの田はねえ〕や「稲作挿話」そして「和風は河谷いっぱいに吹く」にいたく感動したのはもちろん、その内容が皆事実であったと思ったからこそ私は心を揺さぶられたのだ。しかしこれで、これらの詩に詠まれたことがどこまで事実だったということがもはやわからくなってしまった。
 もう少し丁寧に言えば、これらの詩には前述したような反収石高の変更等があったということや、「今日はそろってみな起きてゐる」が事実であったとはほぼ言えず、そこには客観的な事実の虚構があったようだということを知ってしまったから、これらの詩に相変わらず「感心」はするものの、賢治にも「あざとい面があった」と言い募ることまではしないにしても、かつてのような「感動」をそこからは受けなくなった。さらには、〔あすこの田はねえ〕における「二石五斗」という表現そのものまでもが現実味の薄れた表現に見えてしまう。

屹立した〝心象スケッチ〟
 そして私は後に知った。天沢退二郎氏が特集対談「雨ニモマケズ」において、
 もう台風が過ぎ去ったあとで、自分がちゃんと肥料設計した他の稲がむっくりと起きたと、大喜びに喜んでいる詩があると思うと、同じ日付の別の詩で、稲がもうすっかり倒れてしまったと、絶望して、倒れたところにみんな、「弁償すると答えて行け」というように自分に向かって叫んでいる。つまり彼の現実生活と詩作品とを重ねて解釈しようなんてしても絶対だめなんです。いままでは彼の詩を読んで、それが彼の現実生活そのものだと思って、いろいろ彼の人間を論じていたでしょう。それは考え直さなければいけない。
             <『太陽 5月号 No.156』(平凡社、昭和51年4月)、94p>
と主張していたことや、やはり同氏が、
 しかし「野の師父」はさらなる改稿を受けるにつれて、茫然とした空虚な表情へとうつろいを見せ、「和風は……」の下書稿はまだ七月の、台風襲来以前の段階で発想されており、最終形と同日付の「〔もうはたらくな〕」は、ごらんの通り、失意の暗い怒りの詩である。これら、一見リアルな、生活体験に発想したと見られる詩篇もまた、単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟であることがわかる。
             <『新編宮沢賢治詩集』(天沢退二郎編、新潮文庫)、414p>
と厳しく指摘していたことをだ。
 天沢氏によれば、「これら」、すなわち「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」等は「単純な実生活還元をゆるさない、屹立した〝心象スケッチ〟である」という。そこで私は、幾ばくか安堵する。そして同時に、天沢氏の「〔もうはたらくな〕は失意の底の暗い怒りの詩である」という指摘から、賢治が「和風は河谷いっぱいに吹く」を「べんぶしてもべんぶしても足りない」と締め括ったのは、実はこの「失意の底の暗い怒り」の裏返しであったという想いに私は駆られる。
 そして、ここに至ってどうやら話が逆であったということに私は気付く。賢治は聖人・君子、あるいは聖農とか老農と巷間言われているから、賢治の稲作指導は卓越していたと私は思い込んでいたが故にこれらの『第三集』所収の詩篇に私はかつていたく感動したのであったのだ、と。まさに私は、安易な「単純な実生活還元」をしていたのだということにだ。
 同時に一方で、賢治について詳しい地元のある方が、『賢治の言う通りにやったならば、皆稲が倒れてしまった、と語っている人も少なくない』と私に教えてくれたことがあり、私は不快感をその時感じたが、今となればそれを一概に否定しきれないということにもだ。

 当たり前と言われれば当たり前の話だが、賢治の詩といえどももちろん非可逆性がある、ということを肝に銘じておかねばならないのだ、ということだ。ついつい、この「和風は河谷いっぱいに吹く」を読んでいると、賢治は「天候不順の夏にかけて、稲作指導や肥料設計は多忙をきわめた」などということが、裏付けを取らなくてもそれが事実だあったかの如くに思い込みたくなるが、残念ながら、それは裏付けが取れた段階や検証された場合にだけ言えることでしかない。いかな賢治の詩といえども、そのどちらもないままに、「単純な実生活還元」をするとおいことはできない。それが、詩のもつ基本的な非可逆性というものだろう。

<*1:投稿者註> この経緯については、〝3156 『春と修羅第三集』の検証(#4)〟という投稿のコメント欄にある、入沢康夫氏からのコメントをご覧いただきたい。

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 賢治の甥の教え子である著者が、本当の宮澤賢治を私たちの手に取り戻したいと願って、賢治の真実を明らかにした『本統の賢治と本当の露』
 本書は、「仮説検証型研究」という手法によって、「羅須地人協会時代」を中心にして、この約10年間をかけて研究し続けてきたことをまとめたものである。そして本書出版の主な狙いは次の二つである。
 1 創られた賢治ではなくて本統(本当)の賢治を、もうそろそろ私たちの手に取り戻すこと。
 例えば、賢治は「ヒデリノトキニ涙ヲ流サナカッタ」し「寒サノ夏ニオロオロ歩ケナカッタ」ことを実証できた。だからこそ、賢治はそのようなことを悔い、「サウイフモノニワタシハナリタイ」と手帳に書いたのだと言える。
2 高瀬露に着せられた濡れ衣を少しでも晴らすこと。
 賢治がいろいろと助けてもらった女性・高瀬露が、客観的な根拠もなしに〈悪女〉の濡れ衣を着せられているということを実証できた。そこで、その理不尽な実態を読者に知ってもらうこと(賢治もまたそれをひたすら願っているはずだ)によって露の濡れ衣を晴らし、尊厳を回復したい。

〈はじめに〉




 ………………………(省略)………………………………

〈おわりに〉





〈資料一〉 「羅須地人協会時代」の花巻の天候(稲作期間)   143
〈資料二〉 賢治に関連して新たにわかったこと   146
〈資料三〉 あまり世に知られていない証言等   152
《註》   159
《参考図書等》   168
《さくいん》   175

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 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,650円(本体価格1,500円+税150円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
      〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
               電話 0198-24-9813
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