《創られた賢治から愛される賢治に》
…承前…
賢治が封印した詩稿群さて、今回はまだ残っている(3)の〝灰色部分〟に関連して考えてみたい。
以前投稿したように、木村東吉氏の論考「宮沢賢治・封印された『慢』の思想―遺稿整理時番号10番の詩稿を中心に―」によれば、『春と修羅 第三集』には封印された詩稿群があるという。そしてその封印されていたという詩稿群の幾つかについてはこれまでも「『春と修羅 第三集』と天気」の表において灰色に着色しておいた。ところが、そのような詩稿はもっと多そうだから『新校本宮澤賢治全集第十六巻(上)・草稿通観篇』を用いて再度調べ直してみた。
済みません、その結果以前より該当する詩篇が増えてしまいました。それらが下表における〝灰色〟に着色してある詩稿群である。
<天気等は『阿部晁日記』より>
ちなみに、それらは以下の通りである。
・七一五 〔道べの粗朶に〕
・七三五 「饗宴」
・七三八 「はるかな作業」
・七四〇 「秋」
・一〇一五〔バケツがのぼって〕
・一〇二二〔一昨年四月来たときは〕
・一〇二五〔燕麦の種子をこぼせば〕
・一〇三三 「悪意」
・一〇三六 「燕麦捲き」
・ 「午」
・一〇四八〔レアカーを引きナイフをもって〕
・一〇六六〔今日こそわたくしは〕
・一〇七七 「金策」
・一〇七九 「僚友」
・一〇八二〔あすこの田はねえ〕
・七三〇ノ二 「増水」
・一〇二一 「和風は河谷いっぱいに吹く」
・一〇八八〔もうはたらくな〕
・ 台地
・ 「停留所にてスヰトンを喫す」
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(上)・草稿通観篇』(筑摩書房)48p~より>・七三五 「饗宴」
・七三八 「はるかな作業」
・七四〇 「秋」
・一〇一五〔バケツがのぼって〕
・一〇二二〔一昨年四月来たときは〕
・一〇二五〔燕麦の種子をこぼせば〕
・一〇三三 「悪意」
・一〇三六 「燕麦捲き」
・ 「午」
・一〇四八〔レアカーを引きナイフをもって〕
・一〇六六〔今日こそわたくしは〕
・一〇七七 「金策」
・一〇七九 「僚友」
・一〇八二〔あすこの田はねえ〕
・七三〇ノ二 「増水」
・一〇二一 「和風は河谷いっぱいに吹く」
・一〇八八〔もうはたらくな〕
・ 台地
・ 「停留所にてスヰトンを喫す」
賢治の詩の変容
この「賢治が封印した詩稿群」というものがあるということを知った際に、私からすればかなり意外に思えたのが何とその中に「和風は河谷いっぱいに吹く」や〔あすこの田はねえ〕等も含まれていたことである。一般には『同第三集』の中で〔あすこの田はねえ〕「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」等は評価が高いはずである。それなのにその内の2つが該当していたからである。
考えてみれば、先の【賢治下根子桜時代の詩創作数推移】の棒グラフから明らかなように、昭和2年の3月~夏場にかけての賢治は創作活動が旺盛で沢山の詩を詠んでいるが、それらの多くは「農民文芸会」の提唱する「農民詩」に近いものが多いと私は感ずる。ところがそれらの詩、『春と修羅第三集』所収の詩稿群はかつての『心象スケッチ 春と修羅』に見られたような煌めきも瑞々しさも失ってしまっているものが多いように私には見受けられる。しかも、〔あすこの田はねえ〕「稲作挿話」「野の師父」「和風は河谷いっぱいに吹く」には前回主張したように意外な虚構があり、その虚構の在り方を知ってしまった私にはもはやそれらの詩は感動が薄いものになってしまった。
賢治の焦燥
私がそう感ずるくらいだから、当の賢治自身はそのことは百も承知であったであろう。そこで私は思った、当時の賢治はかなりのいらだちや焦りそして迷い等があったのではなかろうかと。
そういえば草野心平が言っていた。以前〝賢治、家の光、犬田の相似性(#46)〟で投稿したことだが
「坂本さんとか三野さんとか傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます」
宮澤賢治が未だ生きてゐたころ、彼は私への私信でそのやうな意味の言葉を書いてきたことがあつた。坂本、三野(混沌)、宮澤、私など、その頃みんなガリ版詩誌「銅鑼」の同人だつた。そして賢治が讀んだのは「銅鑼」に載つた彼等の作品と『たんぽぽ』と『この家の主人は誰なのかわからない』(三野)の二つの詩集だけだつたことは明瞭である。何故なら彼等は當時、それ以外の場には發表するところもなかつたから。
<『詩と詩人』(草野心平著、和光社)212pより>宮澤賢治が未だ生きてゐたころ、彼は私への私信でそのやうな意味の言葉を書いてきたことがあつた。坂本、三野(混沌)、宮澤、私など、その頃みんなガリ版詩誌「銅鑼」の同人だつた。そして賢治が讀んだのは「銅鑼」に載つた彼等の作品と『たんぽぽ』と『この家の主人は誰なのかわからない』(三野)の二つの詩集だけだつたことは明瞭である。何故なら彼等は當時、それ以外の場には發表するところもなかつたから。
と。
これが、もし『農民文芸会』の白鳥省吾や佐伯郁郎に対してならばまだ賢治は彼らと折り合いをつけることはできたであろう。例えば、大正15年の7月下旬に直前で面会を謝絶したであろうこと等によって。
一方で、詩集『野良に叫ぶ』が大正15年に発刊されて評判となった渋谷定輔、さらに昭和2年に入ると今度は同じ『銅鑼』の仲間の坂本遼や、三野混沌がにわかに脚光を浴びて高い評価を受けるようになった。ところが賢治ははたして渋谷、坂本、三野等と折り合いがつけられたであろうか。白鳥や佐伯と違って彼らは本物の農民であったが故に賢治にはそれが難しかったのではなかろうか。そこで、そのことに対して賢治は焦りを抱き始め、そのことをして突如大胆な虚構を賢治の詩においてなさしめたのではなかろうか。しかしそれに対してもすぐに賢治は限界やむなしさを悟って、ついには
坂本さんとか三野さんとか傑れた農民詩人が出てきたので、わたくしなどはもう引つ込んでもいいと思つてゐます。
と本心を吐露したのかもしれない。『銅鑼』より
実際に、『銅鑼』に載っている彼らの作品を拾い上げてみると以下の通り。
・大正?年
第3号
「妹よ」 坂本遼
・大正14年
9月8日 第4号
「―命令―」=『春と修羅』第二集
「未来圏からの影」=『春と修羅』第二集
「町の女の人はおらの心をひらく」 坂本遼
「浅やんの心」 坂本遼
10月27日 第5号
「休息」=『春と修羅』第二集
「丘陵地」=『春と修羅』第二集
「赤いだるまと青いひょうたん」 坂本遼
「みみず」 坂本遼
「山のイノツクアーデン」 坂本遼
・大正15年
1月1日 第6号
「昇羃銀盤」=『春と修羅』第二集
「秋と負債」=『春と修羅』第二集
「秋」 坂本遼
「二十二歳の秋」 坂本遼
「秋とおらの家の不運」 坂本遼
8月1日 第7号
「風と反感」=『春と修羅』第二集
「「ジヤズ」夏のはなしです」=『春と修羅』第二集
「たんぽぽ」 坂本遼
「からす」 坂本遼
10月1日? 第8号
「だまってゐる心と心」 坂本遼
「牛」 坂本遼
「持病」 坂本遼
「●」 坂本遼
「ワルツ第CZ号列車」=『春と修羅』第二集
12月1日 第9号
「永訣の朝」=『春と修羅』(第一集)
「お鶴の詩と俺」 坂本遼
・昭和2年
2月21日 第10号
「日向」 坂本遼
「冬と銀河ステーション」=『春と修羅』(第一集)
6月1日 第11号
「無題」 坂本遼
9月1日 第12号
「百姓同志」 三野混沌
「イーハトーヴォの氷霧」=『春と修羅』(第一集)
・昭和3年
2月1日 第13号
「やまのうえの家」 三野混沌
「吹雪」 三野混沌
「氷質のジヨウ談」=『春と修羅』第二集
「いも畑の出来事」 坂本遼
5月1日 第15号
「おれは行つてやつを助け」 三野混沌
6月1日 第16号
「野原」 三野混沌
「僕達小作人と春」 三野混沌
「クロポトキンの追憶に」 三野混沌
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(上)補遺・資料篇』(筑摩書房)343p~より>第3号
「妹よ」 坂本遼
・大正14年
9月8日 第4号
「―命令―」=『春と修羅』第二集
「未来圏からの影」=『春と修羅』第二集
「町の女の人はおらの心をひらく」 坂本遼
「浅やんの心」 坂本遼
10月27日 第5号
「休息」=『春と修羅』第二集
「丘陵地」=『春と修羅』第二集
「赤いだるまと青いひょうたん」 坂本遼
「みみず」 坂本遼
「山のイノツクアーデン」 坂本遼
・大正15年
1月1日 第6号
「昇羃銀盤」=『春と修羅』第二集
「秋と負債」=『春と修羅』第二集
「秋」 坂本遼
「二十二歳の秋」 坂本遼
「秋とおらの家の不運」 坂本遼
8月1日 第7号
「風と反感」=『春と修羅』第二集
「「ジヤズ」夏のはなしです」=『春と修羅』第二集
「たんぽぽ」 坂本遼
「からす」 坂本遼
10月1日? 第8号
「だまってゐる心と心」 坂本遼
「牛」 坂本遼
「持病」 坂本遼
「●」 坂本遼
「ワルツ第CZ号列車」=『春と修羅』第二集
12月1日 第9号
「永訣の朝」=『春と修羅』(第一集)
「お鶴の詩と俺」 坂本遼
・昭和2年
2月21日 第10号
「日向」 坂本遼
「冬と銀河ステーション」=『春と修羅』(第一集)
6月1日 第11号
「無題」 坂本遼
9月1日 第12号
「百姓同志」 三野混沌
「イーハトーヴォの氷霧」=『春と修羅』(第一集)
・昭和3年
2月1日 第13号
「やまのうえの家」 三野混沌
「吹雪」 三野混沌
「氷質のジヨウ談」=『春と修羅』第二集
「いも畑の出来事」 坂本遼
5月1日 第15号
「おれは行つてやつを助け」 三野混沌
6月1日 第16号
「野原」 三野混沌
「僕達小作人と春」 三野混沌
「クロポトキンの追憶に」 三野混沌
たしかに賢治は『銅鑼』第14号以降には投稿していない。それに代わって三野混沌が沢山寄稿しているかのごときである。
続きの
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お早うございます。
このたびのご教示大変ありがとうございます。
私には詩の鑑賞能力が欠けているのですが、『阿部晁日記』を借覧できて当時の天気や気温を知ることができましたので、8月20日付の「和風は河谷いっぱいに吹く」はどうやら実景ではなく、そこにあるのは賢治の祈りや願いだったのではなかろうかと思うようになってしまいました。
「番号や日付」の変更につきましては考える余裕はなかったのですが今後心にとめてまいりたいと存じます。
これからもどうぞご指導よろしくお願いいたします。
鈴木 守
お礼が遅くなって申し訳ございませんでした。
しばし外出しており今帰宅しました。
わざわざご丁寧にご教示いただきましてありがとうございました。
近々佐藤泰平氏の「『春と修羅』(第1集・第二集・第三集)の〈気象スケッチ〉と気象記録」を拝見したいと思っております。
鈴木 守