みちのくの山野草

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八重樫賢師について

2024-01-17 08:00:00 | 賢治渉猟
《松田甚次郎署名入り『春と修羅』 (石川 博久氏 所蔵、撮影)》




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********************************** なお、以下は今回投稿分のテキスト形式版である。**************************
 八重樫賢師について
 さて、この時の「アカ狩り」で函館に追われたという八重樫賢師ついてだが、上田仲雄氏の論文「岩手無産運動史」の中に、
 五月以降I(筆者イニシャル化)盛岡署長による無産運動え(ママ)の圧迫ははげしくなり、旧労農党支部事務所の捜査、党員は金銭、物品、商品の貸借関係を欺偽、横領の罪名で取り調べられ、党員の盛岡市外の外出は浮浪罪をよび、七月党事務所は奪取せらる。一方盛岡署の私服は党員を訪問、脱退を勧告し、肯んじない場合は拘留、投獄、又は勤務先の訪問をもって脅かし、旧労農党はこの弾圧に数ヶ月にして殆ど破壊されるに至っている。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭したT(筆者イニシャル化)新盛岡警察署長により無産運動家の大検束が行われた。この大検束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向が生じ、岩手無産運動の一つの転期を孕んで来た。
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54p >
ということが論じられていて、この時に「一週間以上~一日内外」の検束処分にされた者の注釈が前掲書の68pにあって、花巻署管内では
    川村尚二(ママ) 八重樫賢志(ママ) 
という二人の名前の記載があり、おそらく正しい名はそれぞれ川村尚三、八重樫賢師であろう。したがって、八重樫は昭和3年の「陸軍大演習」を前にして行われた大検束の際に検束処分にされたと考えてほぼ間違いなかろう。
 一方、この八重樫賢師は「羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者」でもあるということなのでそのことを確認しようと思ってあちこち尋ね廻ってみたところ、平成25年3月6日にD氏(当時約80歳)に会うことができて、八重樫賢師に関して次のようなこと等を教えてもらえた。
・賢師は、昭和3年の「陸軍大演習」を前にして行われた警察の取り締まりから逃れるために、その8月頃に函館へ行った。
・函館の五稜郭の近くに親戚がおり、そこに身を寄せたが、2年後の昭和5年8月、享年23歳で亡くなった。
・農学校の傍で生徒みたいなこともしていたという。
・頭も良くて、人間的にも立派な方だったと聞いている。
・賢治さんの使い走りのようなことをさせられていたという。
・昭和3年当時、八重樫の家の周りを特務機関の方がウロウロしていたということを八重樫の隣人から教わった。
併せて、私はそれまで八重樫賢師の〝賢師〟の読み方はついつい〝けんじ〟だとばかり思っていたのだが、D氏からその時に〝けんし〟ですよということや、名須川溢男が訪ねて来てD氏の義母から聴き取りをしていた際に、その傍にいてそのやりとりを聞いておりましたということなども教えてもらった。
 私はD氏のこれらの証言などを聞きながら、昭和3年の夏に花巻でも無産運動等に対してすさまじい「アカ狩り」が行われていたことは紛れもない事実であったということを確信した。そして、八重樫は昭和3年8月頃に官憲に追われて函館へ奔り、程なく客死していたということはほぼ事実であったのだろうということもである。
 あるいはこれとは別に、私の先輩T氏からは、
 私のおばが、『ある時、「下ノ畑」の傍で賢治と二人で小屋を造っている人を見たことがある。その人は、そこに農園のようなものを開いていた鍛冶町のけんじであった』と言っていた。
ということを教えてもらった(平成26年2月19日、花巻市I館にて)。私はそれを聞いてすぐに、その「鍛冶町のけんじ」とは昭和3年に函館に追われた「八重樫賢師」その人に他ならないと確信した。なぜならば、その「八重樫賢師」の家は鍛冶町のかつての「八重樫麩屋さん」だからである。そしてこのことは、名須川溢男の論文「賢治と労農党」中の、
 八重樫賢師とは、羅須地人協会の童話会などに参加し、賢治から教えを受けた若者。下根子に賢治のような農園をひらき…
<『鑑賞現代日本文学⑬ 宮沢賢治』(原子朗編、角川書店)266p>
という記述も裏付けてくれる。
 よって、
・八重樫賢師は宮澤賢治とかなり親交が深かった。
・八重樫賢師は「下ノ畑」の傍で農園を開いていた。
ことはほぼ間違いない事実であった判断してよさそうだ。なお『新校本年譜』の310pには、八重樫賢師は花巻農学校で行われたあの国民高等学校の聴講生であったという記載もある。
 以上、これらのことに基づけば、昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして花巻でも無産運動等に対してすさまじい「アカ狩り」が行われていたことは紛れもない事実であり、同年8月頃に八重樫は特高から追われて函館に奔ったということはほぼ事実であったと判断できる。
 また、前出の小館長右衛門についても、
 労農協議会に属し、最も戦斗的な小館長右ェ門が八月無産運動より逃避し、北海道、小樽に移転、商業を営む。
〈注:傍点筆者〉
<『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p~>
と、上田仲雄氏は「岩手県無産運動史」で述べている。そこで、賢治が実家に戻った時期がちょうどその「八月」だったということに特に注意すれば、当時のそのような社会情勢と賢治の労農党との親和性に鑑みて、賢治も特高等からの強い圧力は避けられなかったことはもはや疑いようがなかろう。言い換えれば、賢治が実家に戻ったことが昭和3年10月の「陸軍大演習」を前にして起こったすさまじい「アカ狩り」と全く無関係だったとはもはや言えなかろう。
******************************************************* 以上 *********************************************************
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《新刊案内》
 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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