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五 賢治昭和二年の上京

2024-03-12 12:00:00 | 「賢治年譜」等に異議あり









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五 賢治昭和二年の上京
 さて、ここまでのことを一度振り返ってみれば、
『新校本年譜』が、現定説〝○×〟の典拠だと言っているところの「沢里武治氏聞書」自体が、この定説の反例となっているので、現定説〝○×〟は修訂せねばならない、ということが分かった。
 となれば、どのように修訂すればよいのか。それは次のように、

 みぞれの降る、昭和2年の11月頃の寒い日、セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。教え子の沢里武治がひとり見送る。「沢里君、セロを持って上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三か月は滞京する。俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが沢里は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた。そして、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ、帰郷なさいました」と沢里は証言している。………◎

という内容に修訂すれば良さそうだ。そして同時に、
  大正15年12月2日
 沢里武治〔、柳原昌悦〕に見送られながら上京(ただし、この時に「セロを持って」という保証はない)。
というようにである。
 それは特に、先の〝二 必ず一次情報に立ち返って〟において実証したように、現定説〝○×〟であれば当て嵌めることができない「三か月」が、この修訂〝◎〟であればすんなりと当て嵌まるからだ。なおかつ、実は柳原昌悦の次のような重要な証言があるということを、菊池忠二氏(柳原と菊池氏は向中野学園勤務時、同僚であった)から私(鈴木)は教わっている(平成23年11月26日)からでもある。

 「羅須地人協会時代」の賢治の上京について、柳原昌悦が、
「一般には沢里一人ということになっているが、あの時は俺も沢里と一緒に賢治を見送ったのです。何にも書かれていないことだけれども」
ということを、柳原と職場の同僚であった私(菊池忠二氏)に教えてくれた。

という証言を、である。
 さて、では柳原が言うところの「あの時」とは一体いつの日のことだったのだろうか。それは素直に考えれば、現定説の〝○×〟、すなわち、「セロを持ち上京するため花巻駅へ行く。みぞれの降る寒い日で、教え子の沢里武治がひとり見送る」となっている、大正15年12月2日であることは直ぐに分かる。つまり、「現定説」では同日に賢治を見送ったのは「沢里武治がひとり」ということになっているが、その日に実は柳原も沢里と一緒に賢治を見送っていた、ということを同僚の菊池氏に対して柳原自身が証言していたことになる。なお、この時に賢治が「セロを持って」ということは、沢里も柳原もそれ以外の誰も証言していない。
 そしてこれらのことは、次頁の《表3 羅須地人協会時代の賢治の詩の創作数の推移》

からも、傍証できそうだ。
 さて、この図表からは何が見えてくるか。真っ先に目に付くのが大正15年4月である。この月は全く詩を詠んでいない。そして次が同年12月と翌年の昭和2年1月である。この2か月間も同様に賢治は全く詩を詠んでいない。考えてみれば、前者については賢治が下根子桜(しもねこさくら)に移り住んだばかりの月だから時間的に余裕がなくて詠めなかったと、また後者については、12月の場合は殆ど滞京していたし、1月の場合は羅須地人協会の10日おきの講義等で多忙だったから詠めなかったということで、いずれも説明が付く。どうやら賢治は忙しいときには詩を詠まない傾向がありそうだ。
 ところが逆に、昭和2年の3月~8月の詩の創作数は極端に多くなっていることも特徴的である。これは、賢治の羅須地人協会の活動が次第に停滞していったのと対極的な動きを見せていると私には見える。つまり、この3月~8月の間は楽団活動を全くしなくなり、定期的に行われてきた講義等も次第に先細りになっていったので、そのことによって生ずる心の隙間を埋めようとしているかの如くに賢治は旺盛に詩を詠んだように見える。それこそ「農民詩」(というよりは「農事詩」と言えばいいのだろうか)などを。
なお、3月になって一気に創作数が急増しているわけだが、この3月といえば松田甚次郎が初めて下根子桜(しもねこさくら)に賢治を訪ねて来た月だ。すると、その初対面の卒業を間近に控えた盛岡高等農林の若者に「小作人たれ、農村劇をやれ」と賢治が強く熱く迫ったという。そして同年の夏頃といえば、その松田がほぼ出来上がった「農村劇」の脚本を携えて山形の新庄から再び指導を受けに来たのが8月8日であった。
 あるいはまた同じくその夏頃といえば、労農党稗貫支部の実質的な支部長川村尚三が賢治から下根子桜に呼ばれたりした頃でもあるし、その年の夏から秋にかけては川村が『国家と革命』を教え、賢治は土壌学を教えるという交換授業を一定期間行ったり(『岩手史学研究N0.50』(岩手史学会)220p~)していた頃だ。どうやら、この頃の賢治は精神的昂揚期にあ
《表3 羅須地人協会時代の賢治の詩の創作数の推移》
<『新校本年譜』を基にカウント>
ったと言えそうだ。
 ところがこの図表から明らかなように、昭和2年の場合9月に入ると創作数は一気に激減して2篇のみとなり、その後の10月~3月の半年間はなんと1篇の詩すら詠まれていない。一体そこにはどんな変化が賢治には起こっていたのだろうか。
 まず、9月に入って突如詩の創作数が激減し、以後しばらく皆無となってしまった原因は、大正15年の12月と同様にそれこそ上京していたがためということだってあり得る。ちなみに、昭和2年9月については、かつての殆どの「賢治年譜」には次のように、

昭和二年 三十二歳
九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作す。……★

と記載されていたから、9月に入って突如創作数が激減し、以後しばらく皆無となってしまったのは、この記載どおりに賢治は上京していたからであるとすれば説明が付く。
 そしてそれに続く、昭和3年3月までの詩の創作の空白期間は、「沢里武治氏聞書」の中にあるように、「先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気に」なったせいで、滞京中とその帰花後の賢治には詩を創作するだけの時間的な余裕がなかったからだということで説明が付く。
 ちなみに、かつての殆どの「賢治年譜」には、

  昭和三年 三十三歳
一月、肥料設計、作詩を繼續、「春と修羅」第三集を草す。この頃より過勞と自炊に依る榮養不足にて漸次身體衰弱す。

と記載されているから、なおさらにである。
 言い方を換えれば、『續 宮澤賢治素描』の『原稿ノート』の中で沢里は、「そして先生は三か月間のさういふ火の炎えるやうなはげしい勉強に遂に御病気になられ、帰国(帰花)なさいました」と証言しているわけだが、昭和2年の11月頃上京した賢治が三か月後に病気になって帰花したとすれば、昭和3年1月頃の賢治は帰郷せねばならなかったほどの病気だったということになるから、前掲の「賢治年譜」の「この頃より過勞と自炊に依る栄養不足にて漸次身體衰弱す」という記載とこの証言は符合している。よって、当時の年譜のこの記載が逆に、沢里のこの証言内容の信憑性が高いということを教えてくれる。延いては、沢里の証言内容の信頼度は一般に高そうだということでもある。
 あるいは、こんなことも示唆してくれる。それは前掲の『原稿ノート』の中で、

 「沢里君、セロを持つて上京して来る、今度は俺も眞剣だ少なくとも三か月は滞京する。俺のこの命懸けの修業が、結実するかどうかは解らないが、とにかく俺は、やる、貴方もバヨリンを勉強してゐてくれ。」さうおつしやつてセロを持ち單身上京なさいました。(傍点筆者)

と沢里は証言しているのだが、この証言に従えば、
 「今度」(昭和2年の11月頃)以前の、それもそれほど遡らない時期に賢治は、短期間の上京をしていた。
であろうことが示唆される。つまり、昭和2年の11月頃の、それほど遡らない時期にも賢治はこのような「短期間の上京」をしていた蓋然性が高い。
 すると、当然思い付くのは前頁の〝★〟だ。つまり、かつての「賢治年譜」の記載、「昭和二年 九月、上京」が、このような「短期間の上京」と符合するということだ。
 そこで、しかし賢治はこの9月の上京では悔いが残ったので、「今度は俺も眞劍だ、少なくとも三か月は滞京する」と決意して再び同年11月頃に、「沢里君、セロを持つて上京して来る」と愛弟子沢里に語ったのだと解釈すれば、すんなりと辻褄が合うことに気付く。
 そこで私は合点する。小倉豊文はそのことをよく調べていたので、昭和28年発行の『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店)に所収した「賢治年譜」の中に、

大正十五年(1926) 三十一歳
十二月十二日、東京國際倶樂部に出席、フヰンランド公使とラマステツド博士の講演に共鳴して談じ合ふ。
昭和二年(1927)  三十二歳
 九月、上京、詩「自動車群夜となる」を創作。
 十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの  個人教授を受く。
昭和三年(1928) 三十三歳
 一月、肥料設計。この頃より漸次身體衰弱す。
<『昭和文学全集14 宮澤賢治集』(角川書店、昭和28年6月10日         発行)所収の「年譜 小倉豊文編」>

と書けたのだということにだ。
 そして改めて、小倉豊文のこの「賢治年譜」の、
   昭和2年賢治は二度上京
という意味の記載は鋭いし、的確だと私は感心し、流石は小倉は歴史学者だと頷くのだった。私の知る限り、宮澤賢治が昭和2年に二度上京したという意味のことを述べている人は小倉以外にはいないし、まして、同年「十一月頃上京、新交響樂團の樂人大津三郎にセロの個人教授を受く」と断定している人は小倉のみだ(このことに関しては、次項「六 当時の「賢治年譜」にはどう記載されていたか」を御覧あれ)。私はそこに、小倉の矜持と自(じ)恃(じ)を垣間見た。
 延いては、先の修訂〝◎〟の妥当性を傍証してくれている、と私は改めて自信を持ったのだった。
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 この度、拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』

を出版した。その最大の切っ掛けは、今から約半世紀以上も前に私の恩師でもあり、賢治の甥(妹シゲの長男)である岩田純蔵教授が目の前で、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだが、そのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
と嘆いたことである。そして、私は定年後ここまでの16年間ほどそのことに関して追究してきた結果、それに対する私なりの答が出た。
 延いては、
 小学校の国語教科書で、嘘かも知れない賢治終焉前日の面談をあたかも事実であるかの如くに教えている現実が今でもあるが、純真な子どもたちを騙している虞れのあるこのようなことをこのまま続けていていいのですか。もう止めていただきたい。
という課題があることを知ったので、
『校本宮澤賢治全集』には幾つかの杜撰な点があるから、とりわけ未来の子どもたちのために検証をし直し、どうかそれらの解消をしていただきたい。
と世に訴えたいという想いがふつふつと沸き起こってきたことが、今回の拙著出版の最大の理由である。

 しかしながら、数多おられる才気煥発・博覧強記の宮澤賢治研究者の方々の論考等を何度も目にしてきているので、非才な私にはなおさらにその追究は無謀なことだから諦めようかなという考えが何度か過った。……のだが、方法論としては次のようなことを心掛ければ非才な私でもなんとかなりそうだと直感した。
 まず、周知のようにデカルトは『方法序説』の中で、
 きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。
と述べていることを私は思い出した。同時に、石井洋二郎氏が、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という、研究における方法論を教えてくれていることもである。
 すると、この基本を心掛けて取り組めばなんとかなるだろうという根拠のない自信が生まれ、歩き出すことにした。

 そして歩いていると、ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているということを知った。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。

 そうして粘り強く歩き続けていたならば、私にも自分なりの賢治研究が出来た。しかも、それらは従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと嗤われそうなものが多かったのだが、そのような私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、私はその研究結果に対して自信を増している。ちなみに、私が検証出来た仮説に対して、現時点で反例を突きつけて下さった方はまだ誰一人いない。

 そこで、私が今までに辿り着けた事柄を述べたのが、この拙著『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))であり、その目次は下掲のとおりである。

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