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みちのくの山野草

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「部落内での私達の仕事」(中篇)

2020-12-02 12:00:00 | 甚次郎と賢治
《『續 土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)》

 前回の最後に、
   ということであれば、この続きの中にそうされた因が述べられているのだろうか。
と推理してみたのだが、残っている項は以下の、
 食糧增産の村人
 共同耕作に勵む
 農村に閑はない
 収穫の秋
 戰時下の農民の使命
だから、これらの項の中にそれははたして見つかるのだろうか。
 ではまず、次の項、
食糧增産の村人
 十一月下旬になると、東北の農村は雪がちらつく。冬を永いと思つて暮らした時代は過去となつて、支那事變來隨分忙しくなつた。それは格別雪が多い少ないといふのではなく、農業勞働が多く必要とされ、且又冬期間の出稼が多くなり、年中の勞働者が減少したためである。
 …投稿者略…鐵道の除雪にも、團體義務等で働かねばならない。大雪の年などは、毎日々々吹雪に劇しい、勞働が續くのである。しかし、村の人々は皆んな『なに北滿の兵士を思へば』と謂つて相勵ましてゐる。
             〈『續 土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)135p〉
からである。
 そもそも、「支那事變」(日中戦争)は昭和12年の盧溝橋事件を発端とするもののはずだから、「支那事變來隨分忙しくなつた」とは、昭和12年以降隨分忙しくなつたということを意味することになる。よって、「年中の勞働者が減少した」とは、壮年層の多くが農村から大陸へ出兵させられて働き手が少なくなったということになろう。おのずから、国内に於いては残された老人や女性にはそのしわ寄せがゆく。
 それに対して、甚次郞はこの『續 土に叫ぶ』の中で、「村の人々は皆んな『なに北滿の兵士を思へば』と謂つて相勵ましてゐる」と書き記しているのだが、そこであの人はこのような記述を甚次郞がしたからということで、時流に乗り、国策におもね」と詰ったのだろうか。しかしそんなことは、もちろん無理筋だろう。
 では次の項に移ろう。そこでは、
共同耕作に勵む
 …投稿者略…が充分な相互扶助をしても、充分に畜力を加へた勞働をしても、尚不足の場合は當然生じて來る理である。これに對しては、石油エンヂンに依る小型トラクターが、一縣に幾百臺も取り入れられ巧に運転耕起された。…投稿者略…
 田植は最も繁忙期である。張り切つて居る農民の中に、今年は隨分勞力奉仕があつた。勿論隣組範圍で共同はしたが、田植の早い隣り郡から移動勞働隊が來て呉れた。商業報國隊からも、田植期間中、商人は暇だからといつて遊んで居られないと、來て呉れた。遠方の都市工場からも、故郷援助にやつて來た。
             〈同137p〉
ということが述べられていた。
 ここで先ず意外に思ったことは、少なくとも当時の山形県は合理的であり、小型トラクター等の機械化を早々と取り入れていたことだ。それから、当時は皆が互いに助け合っていたということにもだ。それも、隣組範圍だけではなく、遠方や異業種からも奉仕隊等が来ていたのかと。もちろんこの項は、「時流に乗り、国策におもね」とは無関係だ。
 では、次の項、
農村に閑はない
 肥料は、その配給劃一で限度内に於て配給された。それを更に分施法とて、作物の榮養成長期間と生殖成長期間に於て各種肥料が公施された。その結果三四年前の半量の肥料で、今夏の如き冷濕曇天の日が打續いても、病氣一つ付かず平年作に納まつたといふ如きは、全部ではなくとも…投稿者略…時局と農業との眞面目をよく認識して、科學的な態度と實踐を明示したことは、その文化性に於て大きな日本農民の誇りではあるまいかと痛感して居る。
             〈同138p~〉
からである。
 もちろん、この当時は労働力が不足であったが、化学肥料等も不足であったことは容易に想像が付く。しかし、甚次郞は知見や経験を活かし、なおかつ新しい考え方も取り入れてその不足を克服したと言っているわけだが、それは彼の科学的な態度に負うところも大であったであろう。というのは、少し前に戻るが、この本の44pに、
 最近までは石灰の過用によつてかへつて種々の弊害を來してゐるやうな有樣であつた。過ぎたるは及ばざるが如しで、肥料にしても適量が大切であることはいふまでもない。
と述べてあることからも窺えるからである。「石灰偏重」に見える賢治とは違って、甚次郞の石灰施用の仕方は客観的で冷静だった。なお、もちろんこの項も「時流に乗り、国策におもね」とは無関係だろう。というよりは、その逆で、いわば国策の尻拭いをしていた、とも言えなくもないからだ。
 では次の項に移ろう。
収穫の秋
 秋の勞働奉仕隊は、中學校生徒や女學校生徒で、夫々校用備の新しき稲刈り鎌を握つて、午前八時半から午後三時迄、三日間引續き奉仕して呉れた。
 …投稿者略…けれども各戸の取入れが出來ても村人は安ずることはしない。出征軍人の家や、不幸の家に、リヤカーや馬車を持つて相寄つて手助けをする。そのために各戸の晝間の作業は休止しても、手助け続行して居るのである。
             〈同140p~〉
 先に、田植の繁忙期に、あちこちから奉仕隊等がやって来たことを知ったわけだが、それは稲刈りの時期もそうであったということをこれで確認できた。のみならず、農家自体も自分のところの取り入れが終わったならば、「出征軍人の家や、不幸の家に」手伝いに行っていたのだ。もちろん戦争はあってはならないのだが、戦時下で困っていた仲間を助けるということは褒められこそすれ、誹られることはなかろう。もちろんこの項も、「時流に乗り、国策におもね」とは無関係なはずだ。

 となれば、残された項はあと一つだけであり、この項に「時流に乗り、国策におもね」と誹られる因が述べられているのだろうか。

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            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
            ☎ 0198-24-9813
 なお、目次は次の通りです。

 そして、後書きである「おわりに」は下掲の通りです。



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