みちのくの山野草

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昭和3年8月、賢治実家にて「蟄居・謹慎」

2015-08-29 08:30:00 | 昭和3年の賢治
《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
 前回既に述べたことだが、上田仲雄氏によれば、
 (昭和3年)五月以降I(投稿者イニシャル化)盛岡署長による無産運動への圧迫はげしくなり、旧労農党支部事務所の捜査、党員の金銭、物品、商品の貸借関係を欺偽、横領の罪名で取り調べられ、党員の盛岡市外の外出は浮浪罪をよび、七月党事務所は奪取せらる。一方盛岡署の私服は党員を訪問、脱退を勧告し、肯んじない場合は勾留、投獄、又は勤務先の訪問をもって脅かし、旧労農党はこの弾圧に数ヶ月にして殆ど破壊されるに至っている。三・一五事件に続いて無産運動に加えられた弾圧は、この年の十月県下で行われた陸軍大演習によって更に徹底せしめられる。演習二週間前に更迭したT(投稿者イニシャル化)盛岡警察署長により無産運動家の大拘束が行われた。この大拘束を期として、本県無産運動指導者の間に清算主義的傾向が生じ、岩手無産運動の一つの転機を孕んで来た。
              <『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)54p~より>
という流れがあったという。
 そして昭和3年8月には岩手の特高が実質的に動き出し、10月の陸軍特別大演習賢治を前にして凄まじい「アカ狩り」が行われ、賢治の周りの労農党の活動家の川村尚三や八重樫賢師はこの時期以降それまでと同じような活動ができなくなってしまった。実際には、川村尚三は刑務所に送られ、八重樫は函館に奔った。したがって、川村や八重樫と繋がりの深かった賢治も普通に考えればそれまでと同じような活動はできなくなったであろうことはまた明らかだろう。しかし彼らと同様に、賢治も警察につかまったり、北海道へ奔ったりしたかといえばもちろんそんなことはなかった。その違いは何であろうか

 同じく上田氏によれば、この時の凄まじい「アカ狩り」によって「最も戦斗的な小舘長右ェ門が八月無産運動により逃避し、北海道、小樽に移転」(『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)68p)というくらいだし、その「最も戦斗的な」小舘が
 私は……農民組合全国大会に県代表で出席したことから新聞社をやめさせられた。宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。なぜおもてにそれがいままでだされなかったかということは、当時のはげしい弾圧下のことでもあり、記録もできないことだし他にそういう運動に尽くしたということがわかれば、都合のわるい事情があったからだろう。いずれにしろ労農党稗和支部の事務所を開設させて、その運営費を八重樫賢師君を通して支援してくれるなど実質的な中心人物だった(S45・6・21採録)
というように、特に「宮沢賢治さんは、事務所の保証人になったよ、さらに八重樫賢師君を通して毎月その運営費のようにして経済的な支援や激励をしてくれた。演説会などでソット私のポケットに激励のカンパをしてくれたのだった。」と証言しているくらいなのだから、川村尚三と賢治との間で行われた「交換授業」のことも併せて考えてみれば、賢治に特高の厳しい追及の手が及ばなかったということはまずなかろう。おのずから、万やむを得ず賢治もその時代の流れの中で何らかの対応を迫られたであろう。すると気づくのが、かつての「賢治年譜」には殆ど皆、昭和3年8月の項に
 氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅……①
と書かれているが、しかし実際に検証してみれば、「氣候不順に依る稻作の不良」とか「風雨の中を徹宵東奔西走」とかはどうやら歴史的事実ではなかったということだ。

 となればこれらのことから浮かび上がってくるのは次のような見方ができる。言い換えれば、仮説
 昭和3年8月10日に賢治が実家に帰ったのは体調が悪かったからということよりは、「陸軍特別大演習」を前にして行われた特高等の凄まじい「アカ狩り」から逃れることがその主な理由であり、賢治は重病であるということにして実家にて蟄居・謹慎していた。……②
が定立できる。そしてこの仮説についての検証は拙著『羅須地人協会の終焉-その真実-』で私なりに既に実質的に行っている(それは、拙ブログの〝『羅須地人協会の終焉-その真実-』(テキスト形式)〟等に投稿済み)し、この〝②〟の反例は今のところ見つかっていないはずだ。
 その結果、賢治自身が「演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります」と澤里武治に伝えたこの一言からは、「羅須地人協会に戻る条件は病気が治ることではなくて、「陸軍特別大演習」が終わることであると、またそこに戻ったにしても、今までのような活動は許されないことになったので、活動は創作を主とする」ということが読み取れる。だから、たしかに下根子桜から実家に戻った当時賢治の身体は弱っていたのではあろうが、その時点ではそれ程悪化はしていなかった<*1>ということのようなので、実家に戻った最大の理由はそれではなくて、賢治はそのような活動から身をひいたということを示すために「陸軍特別大演習」が終わるまでは実家にて「蟄居・謹慎」せねばならなくなったからであった、というのが私から見た「事の真相」である。

 そしてもちろん、賢治のそのような身の処し方が事実であったとしても何ら非難されることでもなく、人間ならばやむを得ない選択であり誰もそのことを安易に責めることはできまい。また、当時の社会情勢に鑑みれば、その真相を「賢治年譜」にそのまま書くわけにもいかなかったということもある意味やむを得ないことであり、そこでかつての「賢治年譜」では〝①〟ということにして取り繕ったとしても、また同様であろう。
 しかしここではっきり言っておきたいことは、仮説〝②〟は通説とは全く異なるものだが、検証ができたことなので荒唐無稽なものだとは思っていないということである。それどころか、かなり妥当なものである。そして、賢治が亡くなってもう80年以上も過ぎたのだから、もうそろそろ「事の真相」を明らかにしてもいいのではなかろうか。

 ついては、この見方が間違っているというのであれば是非反論していただきたい。端的に申せば、〝②〟の反例をご呈示いただきたい。反例が1個でもあればこの〝②〟はあえなく棄却されますので。

<*1:註> 佐藤隆房は自身の著書『宮澤賢治』において次のようなことを述べている。
 昭和三年の八月、食事の不規律や、粗食や、また甚だしい過労などがたたって病気となり、たいした発熱があるというわけではありませんでしたが、両側の肺浸潤という診断で病臥する身となりました。その時の主治医花巻(共立)病院内科医長佐藤長松博士でありましたが…
               <『宮澤賢治』(佐藤隆房著、冨山房)>

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