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【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>
では今回は『農民藝術 No.4』(農民藝術社、昭和22年9月)からである。
目次を見たならば、真壁仁の論考「宮澤賢治と童話的世界」が載っていたし、以前の投稿〝真壁仁と松田甚次郎〟において述べたように、真壁はどのようにして東北砕石工場技師時代の賢治のことや炭酸石灰のことを知ったのか、と疑問に思っていたので、今回の真壁のこの論考の中にその答があるのではなかろうかと期待した。
ところがこの論考の中にあった関連事項は、せいぜい「グスコーブドリの伝記」と「冷害凶作と稲熱病」についてであり、例えば、
オリザに赤澁のつく病氣はいふまでもなく稻熱病の症狀である。かくてこの童話では、本邦稻作史上もつとも深刻な苦闘の記録を重ねた陸中北上平野の一農業問題を契機として、著者の熱情と学問とが答を問はれてゐるのである。
〈『農民藝術 No.4』(農民藝術社、昭和22年9月)23p〉ということなどは述べてあった。しかし残念ながら、東北砕石工場技師時代の賢治に関しても、石灰に関しても真壁の言及は今回は見つけられなかった。
それにしても、賢治が生きていた時代の岩手は、大正2年の大冷害以降しばらく「気温的稲作安定期」が続き、昭和6年の冷害までの期間に冷害らしいものはなく、いわば「冷害空白時代」であったといえる。ただしその代わり、干害は何度も起こっているのだから、真壁はまずそのことを取り上げねばならなかったのではなかろうか。ちなみに、大正15年の隣の紫波郡の大旱害の惨状を見かねて真壁と同じく山形県人であり、「山形賢治の会」の仲間でもあった松田甚次郎は赤石村を慰問していたのだ。ということは、もしかすると真壁は甚次郎のその慰問を知らなかったのか。はたまた、そのことを真壁は知っていたが、この時の未曾有の大旱害の際に賢治は何一つ「ヒデリノトキハナミダヲナガ」さなかったからそのことをあまり話題にしたくなかったので、それを意識して、冷害の方を大々的に取り上げたのだろうか(と揶揄されかねない)。真壁と甚次郎は一緒に「山形賢治の会」をつくった間柄のはずだから、賢治と直接会ったことにない真壁は、甚次郞からその情報を聞いていただろうに……。
なお、『農民藝術 No.4』(農民藝術社、昭和22年9月)の中には、東北砕石工場技師時代の賢治に関しても、石灰に関してもその言及は一切見つけられなかった。
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