みちのくの山野草

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おわりに(テキスト形式)

2024-03-17 10:00:00 | 濡れ衣を着せられた高瀬露
おわりに

鈴木 ではこれで検証作業等は全て無事完了、我々は「高瀬露は〈聖女〉だった」ということを実証できた。
荒木 でもやはり、俺は正直不満を隠せないな。賢治が亡くなってから約80年を経た今でさえも、調べてみればこうやって新たな事実等を知ることができてこの検証ができたのに、なぜこのようなことが今までに為された来なかったのだろうか。
吉田 まして、「露は<聖女>だった」ということが僕らでさえも検証できるくらいなのだから、「露は<悪女>などではない」という検証はもっともっとたやすいはずだからな。
鈴木 そもそも、「露は<悪女>などではない」ことは、わざわざ検証せずともそれまでに知っていた事柄からだけでも常識的に判断すれば始めから明らかなこと。それは私の周辺の少なからぬ人達もそう言っているからなおさらにだ。
吉田 実は、僕の周りの賢治研究家の中にも、『露は<悪女>なんかじゃないよ。悪いのは賢治さ』とはっきり言う人が居る。
荒木 だから思うんだ。従前、露を<悪女>であるとしてきたその根拠と思われる資料や証言はこうやって調べててみた結果、揃いもそろって皆危ういものばかり、そおそお皆「あやかし」ばかりであり、そんなもので一人の女性の人格を全否定し、その尊厳を貶てしまうような<悪女伝説>をでっち上げたということは犯罪行為であるとさえ言えるのではないべが、と。
鈴木 おっ、厳しいな。
吉田 でも確かに荒木の言うとおりで、現実には捏造された〈悪女伝説〉はすっかり巷間広まってしまったし、定着してしまったのだからな。
荒木 納得できないんだよ。どうして賢治研究家はこのような<悪女伝説>がまことしやかに流布していることに対して疑念を持ったり、あるいはこれは看過できない事態だということを憂いてそのことを公的に論議したりしてこなかったということがさ。
吉田 僕は今こう思っている。明確な根拠も理由もないままに、噂話や推測を基にしてある特定の人物を誹謗中傷し、あげく〈悪女〉呼ばわりすることはもちろん絶対許されないことだと思う。まして、虚構まで弄してのそれは何をか言わんやだ。
 ただし、それに絡んだ過去の非対称性を今さら直せということもまたなかなか困難なことだ。だからそれよりは、僕らが今まで取り組んでみて明らかにできたように、露はそんな人にはあらず、ということをできるだけ多くの人に知ってもらうことがまず先決ではないのかな。それは地道なものになると思うが焦らずに。
鈴木 そっか、それじゃ今後は東北人の粘り強さを活かして、
(1) まずは、少なくとも露は<悪女>などではないことを我々は示せたわけだから、何はともあれ、
早急に<悪女伝説>は破棄すべきである。
ということ多くの人たちに訴える。それは、我々の幾つかの検証結果を用いて説明すれば比較的容易にわかってもらえるだろう。
(2) 次、<仮説:高瀬露は聖女だった>を検証できたとはいっても、これは「現通説」とは全く真逆だから、この結果を声高に言ったとしても世間はそう簡単には受け容れてくれないだろう。そこで当面は、
実は、高瀬露は聖女の如き人であった。
ということを可能な限り周りの人たちに訴える。それは特に遠野時代の露のエピソードや寶閑小学校時代の露にまつわる事実を紹介すればわかってくれるのではなかろうか。
(3) そしてそれがある程度理解が得られようになった段階で最後に、

それよりもむしろ、高瀬露は<聖女>そのものだった。
ということを訴える。
というホップステップジャンプが我々のこれからの使命と任務だ、ということでどうだ。
荒木 んだな。
鈴木 だいたい人間の評価は亡くなってから百年すれば定まるということだから、賢治の場合はそれまでまだ20年弱の時間はあるのだから、焦らずにやってゆこう。まあ、約20年後となればその頃には我々はこの世にはいないだろうけどな。
吉田 なあに、天国で賢治や露の周りをうろちょろしながらその顚末を見ていようじゃないか。
荒木 俺は天国には行けんから、地獄からそれを見上げているよ。
吉田 じゃじゃ、荒木とあろうお方が殊勝なことを言うもんだ。
荒木 おれはなあ……いろいろあったからな。
 まあ何はともあれ、ある一定限度内で
    高瀬露は<聖女>だった。
は真理であったということを確信した人間がこの世に一人増えたということは確かだってことだ。
吉田 いやいや待て待て、少なくともあと2人は増えたとしてくれよ。                      〔完〕
‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡‡
◇宮澤賢治研究の発展を希求する
 ここまで私なりに、少しく「人間賢治像」を自分の手と足で検証してきた。そしてそれを通じて、『春と修羅 第一集』はこれからも誰にもスケッチできないものだろうし、『やまなし』とか『おきなぐさ』そして『よだかの星』や『銀河鉄道の夜』はやはりこよなく私が愛する童話であり続けるものと確信できた。しかしながら、『グスコーブドリの伝記』や『春と修羅 第三集』そして『雨ニモマケズ』に対する私の評価は一変してしまった。それはなぜだったのだろうか。
 実は、過日私は潟上市に行ってみた。賢治は「農聖石川理紀之助に続く系譜を正しく継ぐ人」だと言う人がいたから、この目で実際に石川の実践の一端を垣間見てみたかったためだ。そして直ぐわかった、羅須地人協会時代に行った賢治の実践は石川のそれと比べれば全然叶わないものだったということが。
 あるいはまた、この拙著を著しながら知ってしまったことがいくつかある。昭和3年6月東京に逃避行をしていたとも思われる賢治と、その頃『二葉保育園』でスラム街の子女の保育のために献身していた伊藤ちゑとでは比べものにならないことを。そしてこの拙著の主人公高瀬露については、賢治が聖人君子に祭り上げられる一方で巷間露は<悪女>と言われているが、実は露はその真逆の〈聖女〉であったということ等をである。
 そこで私は悩む。誤解を恐れずに正直に言えば、この三人に比して「人間賢治」が勝っていた点は一体何なのだろうかと。言い方を換えれば、巷間言われている「人間賢治像」はどうやらかなり創り上げられたものではなかろうかと。そしてもしそうだとしたならば、もともと「真実は隠せない」はずで、真実は隠すものでもなければはたまた何時までも隠しおおせるものでもなかろうから、巷間流布している「人間賢治像」は逆に賢治のことを実は貶めているのではなかろうかと。だから、私たちはもうそろそろ《創られた賢治から愛すべき賢治に》という時代を受け容れてもいいのだと覚悟すべきではなかろうかと。
 それから、このこと以上に喫緊の重要課題がある。それは、巷間流布している〈露悪女伝説〉は全くの捏造だったということがわかったからそのことを世間にまず知ってもらうことだ。そしてそれは私の願いでもあり、賢治の願いでもあるはず。なぜなら、『賢治を聖人君子にするために、<聖女>だった露を、あろうことか誰かがとんでもない<悪女>に仕立てしまった』ということがどうやら明らかになりつつある今、自分にもその責任の一端があると思っている天上の賢治は、一刻も早く露の冤罪が晴れることを願っているはずだからである。
 かつては、賢治のことをよく知っている人物が「通説となっている賢治」は実はこうだったということを発言すると、その途端に周りから一斉に集中砲火を浴びてしまって、その人はその後一切口をつぐむしかなかったということを私は地元にいることもあって何件か聞き知っている。
 ところがそれに近いことが今の世でもあるということを私自身が経験した。それは、先に私は次のような仮説
 賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した。
を立て、拙著『羅須地人協会の真実 ―賢治昭和二年の上京―』にてその検証ができた。ところがツイッター上で、『宮澤賢治奨励賞』受賞者H氏を含む仲間同士が、この拙著を『根拠なき「陰謀論」』であると決めつけたり、「稚拙滑稽噴飯墓穴唖然呆然」という言葉で誹ったりして面白おかしく論って下さったからだ。さらには、H氏からは『「理不尽なペンの暴力」を振るっていることになってしまわないか』『「フォースの暗黒面に堕ちていた」ということになりますが』『このまま行くとほんとうに墓穴を掘ることになります』等の脅しのようなものを私のブログのコメント欄等に直接書き込んで頂いたからだ。
 宮澤賢治も亡くなって八〇年はもう過ぎたのだから、そろそろこのような圧力を受けることなく、自由に「宮澤賢治研究」ができる時代になってほしいし、その発展を希求したい。
 最後になりましたが、本書の出版に際しましては、ご指導やご助言、ご協力を賜りましたA氏、赤田秀子氏、阿部弥之氏、伊藤大亞氏、伊藤博美氏、岩田有史氏、上田吹黄氏、浦辺諦善氏、鎌田豊佐氏、佐藤慎也氏、佐藤誠輔氏、澤里裕氏、社会福祉法人 二葉保育園様、鈴木修氏、高橋カヨ氏、高橋征穂氏、千葉満夫氏、tsumekusa氏、日本現代詩歌文学館様、花巻市教育委員会様、花巻市立図書館様、花巻市立博物館様、牧野立雄氏、三浦庸男氏、宮沢賢治イーハトーブ館様、盛岡タイムス社様の皆様方には深く感謝し、厚く御礼申し上げます。
平成27年2月23日(高瀬露の命日) 
著者

註釈

(註一) (本文1p)
 賢治の昭和2年4月18日付の詩〔うすく濁った浅葱の水が〕の中に次のような連、 
   そのいたゞきに
   二すじ翔ける、
   うるんだ雲のかたまりに
   基督教徒だといふあの女の
   サラーに属する女たちの
   なにかふしぎなかんがへが
   ぼんやりとしてうつってゐる
<『校本全集第四巻』(筑摩書房)66p~より>
があるが、この下書稿(二)において、《俸給生活者》に対して《サラー》と賢治はフリガナを付けているから
  「サラーに属する女たち」=「俸給生活者に属する女たち」
ということがわかる。さらには下書稿(四)においては、[あの聖女の]を削除→[基督教徒だといふあの女の]に書き換えているから、「基督教徒だといふあの女の」とはクリスチャンで俸給生活者の女性、つまり寶閑小学校の先生高瀬露その人だと判断できる。賢治周辺の女性でこれに当てはまる人は他にいないからである。
 したがって、賢治は「昭和2年4月18日」時点で露のことを「聖女」と認識していたことがわかる。
(註二) (本文2p , 72p)
 佐藤勝治は「賢治二題」において、
「雨ニモマケズ」の書かれた十一月三日の十日前、十月廿四日の手記である。『決シテ瞋ラズ、イツモシヅカニワラツテ』いたいと祈る十日前に、彼はこのように瞋り、うらんでいる。さればこそ、彼は痛切に瞋るまいとしたのであろう。が、彼の全文章の中に、このようななまなましい憤怒の文字はどこにもない。
 これがわれわれに奇異の感を与えるのである。
<『四次元50』(宮沢賢治友の会、昭和29年2月発行)10pより>
と述べている。
(註三) (本文7p)
 『イーハトーヴォ第四號』には、この作者「露草」氏について
  ○露草氏 曾て賢治に師事せし人、岩手上閉伊にあり。
という説明が付記してあるし、同號には「喜捨芳名」として
  (上閉伊郡附馬牛村)小笠原露
とあり、しかも当時の露の勤務校が「附馬牛村」の東禅寺尋常小学校であることから、この「露草」とは露のことであると判断できる。
(註四) (本文10p) 
 上田哲の論文の中に『露さんは、「右の手の為す所左の手之知るべからず」というキリストの言葉を心深く体していたような地味で控えめな人だった』(「「宮沢賢治伝」の再検証㈡-〈悪女〉にされた高瀬露-」より)という一文があるのだが、この「右の手の為す所左の手之知るべからず」はクリスチャンの間ではしばしば引用されるものであるといううことで、もしかすると鎌田さんは小学校時代にクリスチャン高瀬露からそのような話しをしばしばされていて、それが今でも心に残っているということを暗示しているのかもしれない。
 ちなみに、このキリストの言葉の出処は、
 施しをするときは、右の手のすること左の手に知らせてはならない。(マタイ伝6章3節)
<『新約聖書』(財団法人日本国際ギデオン協会)より>
のようだ。
(註五) (本文11p)
 「ばけもの退治」の話である。
 同じ菊仲間で牛乳屋をやつている八木さんと、近ごろ賢治さんの所に髪の長いばけものが出るというので、ある晩二人で退治に出かけた。
 今こそ賢治住居のあたりはきれいに整理されて、道も広く明るくなつたが、じつさい彼が住んでいた頃はあの辺は藪であつた。鍛冶屋さんと牛乳屋さんは、おつとり刀で意気込んで出だしたのはいいが、木の根につまずき、ばらにさされて、いやもう大した目にあつて彼の家の戸を叩くことができた。
 けつきよくその晩は相手のばけものがあらわれなくて、賢治さんと四方山話をして帰つて来たのであつたというが、この「髪の長いばけもの」というのが、彼の所謂『聖女のさましてちかづけるもの』T女である。
<『四次元50』(宮沢賢治友の会)11pより>
 つまり、「髪の長いばけもの」とは、下根子桜の賢治の許を訪ねる露のことだった。もちろん「T女」もである。おそらくこのような噂話があれこれと流されていたのであろう。
(註六) (本文12p) 
 当時はおよそ1時間に1本の列車だから、大雑把に見積もって待ち時間の平均値は1時間×0.5=30分、したがって往復で30分×2=1時間と見積もれる。したがって、待ち時間も考慮した場合の所要時間は、
・一日に二回も遠いところをやってきたりするようになったとすれば、約 8+2=10時間は、
・一日に三回も遠いところをやってきたりするようになったとすれば、約 12+3=15時間は
かかることになる。
(註七) (本文20p) 
 同書によればその葉書の文面は 
高橋サン、ゴメンナサイ。宮沢先生ノ所カラオソクカヘリマシタ。ソレデ母ニ心配カケルト思ヒマシテ、オ寄リシナイデキマシタ。宮沢先生ノ所デタクサン賛美歌ヲ歌ヒマシタ。クリームノ入ツタパントマツ赤ナリンゴモゴチソウニナリマシタ。カヘリハズツト送ツテ下サイマシタ。ベートーベンノ曲ヲレコードデ聞カセテ下サルト仰言ツタノガ、モウ暗クナツタノデ早々カヘツテ来マシタ。先生ハ「女一人デ来テハイケマセン」ト云ハレタノデガツカリシマシタ。私ハイゝオ婆サンナノニ先生ニ信ジテイタゞケナカツタヤウデ一寸マゴツキマシタ。アトハオ伺ヒ出来ナイデセウネ。デハゴキゲンヤウ。六月九日 T子。
<『「雨ニモマケズ手帳」新考』(小倉豊文著、東京創元社)113pより>
ということだが、もしこの葉書に書かれている内容が事実であったとすれば、その頃までの二人は少なくとも親しく交際していたことが直ぐわかるが、もちろんこの葉書が果たして露本人が昭和2年6月9日に書いたものなのだろうかという疑問が湧く。なぜなら、6月上旬に〝クリームノ入ツタパン〟は当時手に入ったかもしれないが、その時代の6月上旬頃に〝マツ赤ナリンゴ〟が手に入ることは全くあり得ないはずだからである。
 従って、この書簡の取り扱いはかなりの注意が必要である。
(註八) (本文52p) 
杉浦 賢治あての手紙が残されているとすれば、来簡集のようなものを編みたいのですが…。
続橋 それはあるらしいですね。なかば公然の秘密みたいな囁やかれ方をしていますが。
入沢 よくわかりませんけど、実際問題としては、公にすることを聞いたことは一度もないです。
<『賢治研究 70』(1996.8 宮沢賢治研究会)185pより>
(註九) (本文53p)
 『宮澤賢治物語』の中の「羅須地人協会時代」の中に、
 協会を訪れる人の中には、何人かの女性もあり、そのうちの一人が賢治をしたっておったようです。最初は賢治も「なかなかしっかりした人だ」とほめておりましたが、その女性が熱意をこめて来るので、少し困ったようです。そこで「本日不在」という貼り紙をはっておいたり、又は別の部屋にかくれて、なるべく会わないようにしていたのですが、そうすればするほど、いよいよ拍車をかけてくるのが人の情で、しまいにはさすがの賢治も怒ってしまい、その女性に、少し辛くあたったようです。(傍点筆者)
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社、昭和32年)89pより>
とある。
(註十) (本文53p,102p)
 関登久也著『宮澤賢治物語』の中に賢治の教え子簡 悟の次のような証言もある。
 森さんは宮沢賢治をめぐる三人の女性を書いておられるが、実際は、五人の女性があります。二人の女性については、すでに話題になっておりますが、あとの二人は現存してる人達だし、何も徳義に欠けた行動をとつた人達ではないから申し上げてもいいようなものの、お話しする機会もそのうちあると思います。先生はその時も、私は遠からず結婚するかもしれぬと申されましたが、それはついに実現しませんでした。(傍点筆者)
<『宮澤賢治物語』(関登久也著、岩手日報社)275pより>
 なお、ここでいう「三人の女性」とは妹トシ、露、ちゑのことであり、「二人の女性について」とは露とちゑについてであることが同書からわかるので、「あとの二人」とはこの「三人の女性」以外の人のこととなる。
(註十一) (本文59p)
 彼女の名前と略歴は『校本宮澤賢治全集』第十四巻堀尾青史「年譜」によって初めて明らかにされた。
<『宮沢賢治の愛』(境忠一著、主婦の友社、昭和53年)153pより>
(註十二) (本文61p,77p)
 「10月29日付藤原嘉藤治宛伊藤ちゑ書簡(抄)」
秋晴れの良いお日和が続きます。先日は失礼申し上げました その後御家族ご一同様には御変わりも御座居ませんか 謹んで御伺ひ申し上げます
宮澤さんの御本、色々とありがたう存じました 厚く厚く御礼申し上げます
又、お願ひで御座居ます この御本の後に御附けになりました年表の昭和三年六月十三日の氏の條り 大島に私をお訪ね下さいましやうに出て居りますが宮澤さんはあのやうに いんぎんで嘘の無い方であられましたから 私共兄妹が秋 花巻の御宅にお訪ねした時の御約束を御上京のみぎりお果たし遊ばしたと見るのが妥当で 従って誠におそれ入りますけれど あの御本を今後若し再版なさいますやうな場合は 何とか伊藤七雄を御訪ね下さいました事に御書き代へ頂きたく ふしてお願ひ申し上げます。…(筆者略)…宮澤さんが私にお宛て下すつたと御想像を遊ばしていらつしやる御手紙も先日私の名を出さぬからとの御話しで御座居ましたから御承諾申し上げたやうなものゝ 実は私自身拝見致しませんので とてもビクビク致して居ります 一応読ませて頂く訳には参りませんでせうか なるべくなら くどいやうで本当に申訳け御座居ませんけれど 御生前ポストにお入れ遊ばしませんでしたもの故 このまゝあのお方の死と一緒に葬つて頂きたいと存じます能…(筆者略)…御残しなつた□□の心象詩の一行にも当らぬ程の途上の一瞬の関心を 御永眠後世に発表遊ばしたら きつとあの優しいお目を きらりとおさせになつて 止めてくれと仰言ると存じられます 私宛のものでしたら私だけ読ませて頂いて終いひにさせて下さいませ こんな事を申し上げるのもお恥ずかしいのですけれど 私事は仰臥天井を眺めて病床に五年も居りますのに まだ尚も凡悩迷低その上□□の代者で御座居ますので 立派なあの方の御本のどの頁にも 私如き者の名を入れて汚したく御座居ません能 考へれば考へます程とてもつらくなつてしまひます どうぞどうそお判り下さいませ あのお方が御生前ふれ合ふ凡ての人々に対して惜しみなくあたへられた あの親しい眞実な微笑みと底なしの友情は 遠くの方から少し私も分けて頂き 残る半生をつつましく迎へたいと存じております。…(筆者略)…御多忙の中を誠におそれ入りますけれど 花巻の御宅へどうぞよろしくおとりなし下さいませ どんな御手紙を御残し下さいましたか 謹んで拝見させて頂きます …(筆者略)…少し遅れましたが 見事な果物本当に本当にありがたう御座居ました 美味しくみんなで頂きました だんだんお寒くなります折から どうぞみな様御風邪など御召し遊ばしませぬやう 末筆で大変おそれ入りますが 奥様にくれぐれもよろしくお伝へ下さいませ
                          あらかしこ
    十月二十九日                   ちゑ
    藤 原 嘉 藤 治 様
  彼岸花見つゝ史跡をめぐりたる大和の秋の旅をし想ふ
  大和路の秋をめぐらん日の有りや病みこもる身の儚きあくがれ
                       お笑ひ草までに
<筆者註> この書簡は、平成19年4月21日第6回「水沢・賢治を語る集い「イサドの会」」 における千葉嘉彦氏の発表「伊藤ちゑの手紙について―藤原嘉藤治の書簡より」の資料として公にされたものでもある。
(註十三) (本文77p,84p,88p)
 現時点ではこの発言を活字にする事は憚られるので一部伏せ字にした。
(註十四) (本文117p)
 「賢治像・賢治作品の評価をたどる」という座談会において、次のようなやりとりがあったということである。
司会 堀尾さんの他には、戦争中から宮沢家を訪れていた小倉豊文さんが非常に実証的な取り組みをなされていますね。
続橋 小倉豊文さんは「農民は口を開かないんだ。親しくなって農民に口を開かせてみろ。宮沢がどんなに恨まれているか」というのを口を酸っぱくして小倉豊文さん話をしていた。そこまで調べないとだめだ、と。
<『賢治研究 70』(宮沢賢治研究会)175pより>
(註十五) (本文117p)
『広辞苑』によれば、
【仮説】〔哲〕(hypothesis)自然科学その他で、一定の現象を統一的に説明しうるように設けられた仮定。ここから理論的に導き出した結果が・観察・計算・実験などで検証されると、仮説の域を脱して一定の限界内で妥当する真理となる。
<『広辞苑』(電子辞書PW―M800、シャープ)>

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 ある著名な賢治研究者が私(鈴木守)の研究に関して、私の性格がおかしい(偏屈という意味?)から、その研究結果を受け容れがたいと言っているという。まあ、人間的に至らない点が多々あるはずの私だからおかしいかも知れないが、研究内容やその結果と私の性格とは関係がないはずである。
 おかしいと仰るのであれば、そもそも、私の研究は基本的には「仮説検証型」研究ですから、たったこれだけで十分です。私の検証結果に対してこのような反例があると、たった一つの反例を突きつけていただけば、私は素直に引き下がります。間違っていましたと。
 一方で、私は自分の研究結果には多少自信がないわけでもない。それは、石井洋二郎氏が鳴らす、
 あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること
という警鐘、つまり研究の基本を常に心掛けているつもりだからである。そしてまたそれは自恃ともなっている。
 そして実際、従前の定説や通説に鑑みれば、荒唐無稽だと言われそうな私の研究結果について、入沢康夫氏や大内秀明氏そして森義真氏からの支持もあるので、なおさらにである。

【新刊案内】
 そのようなことも訴えたいと願って著したのが『このままでいいのですか 『校本宮澤賢治全集』の杜撰』(鈴木 守著、録繙堂出版、1,000円(税込み))

であり、その目次は下掲のとおりである。

 現在、岩手県内の書店で販売されております。
 なお、岩手県外にお住まいの方も含め、本書の購入をご希望の場合は葉書か電話にて、入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金として1,000円分(送料無料)の切手を送って下さい。
            〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守  ☎ 0198-24-9813
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