みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

『本統の賢治と本当の露』(80~83p)

2020-12-25 12:00:00 | 本統の賢治と本当の露
〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉




********************************************** 以下はテキストタイプ*********************************************************

 ところが、その解答となり得るものが遅まきながら見つかった。それは賢治の場合はまさかこんなことはないだろうということで私は今までは端から除外していたのだが、そこは賢治だからといって特別扱いなどせずに推論すれば必然的に導かれるであろう次のような、
「本統の百姓になります」と教え子等に伝えて農学校を辞めた賢治だが、「羅須地人協会時代」の彼は、当時大半を占めていた貧しい農民たちのために献身しようとあまり思っていなかった。 ………③
という、今までの私であれば口が裂けても言えないような、しかし論理的には導かれる解答だ。そしてこの〝③〟に従えば、賢治には始めから前頁の〝②〟というようなことは埒外のことだったということになり、「雨ニモマケズ」の中にはそのような連が詠み込まれていないことは当然のことだったとなる。
 そして、こう覚悟を決めて受け止めてしまえば、賢治の稲作指導法はもともと貧しかった大半の農家にとってふさわしいものではなかったのだから、〝③〟であったことは何等不思議ではない。しかも、この〝③〟の妥当性を傍証する事実があったことに今頃になって気付く。それは実はとても単純かつ明らかなことであるのだが、「羅須地人協会時代」の賢治が貧しい農民たちと同じような苦労をしながら、主食となる米を自分自身で作ろうとしたかというと、菅谷規矩雄も『宮沢賢治序説』の中で、
 なによりも決定的なことは、二年数カ月に及ぶこの下根子桜での農耕生活のあいだに、ついに宮沢は〈米をつくる〉ことがなかったし、またつくろうとしていないことである。 〈『宮沢賢治序説』(大和書房)99p〉
と指摘しているように、賢治はそうしなかったという事実にだ。
 そして併せて思い出すことは次のことだ。賢治は昭和2年3月8日に松田甚次郎に対して、
 眞人間として生きるのに農業を選ぶことは宜しいが、農民として眞に生くるには、先づ眞の小作人たることだ。小作人となつて粗衣粗食、過勞と更に加はる社會的經濟的壓迫を體驗することが出來たら、必ず人間の真面目が顯現される。            〈『土に叫ぶ』(松田甚次郎著、羽田書店)4p〉
と熱く「訓へ」たと松田自身が証言しているし、その「訓へ」に従って甚次郎は(父から田圃を借りて)小作人になって、しかも、いわば「賢治精神」を徹底して実践した。ところが当の賢治は「下根子桜」ではそうはせずに、そこでやったことは、そう「訓へ」たということが本当の事であったとするならば、それからは程遠いものであったという事実を、だ。
 ちなみに、同時代の賢治が下根子桜で作ったものは、前出の佐々木多喜雄氏等によれば、
 開墾した畑には、主に洋菜で当時まだ一般的でなく珍しかったチシャ、セロリ、アスパラガス、パセリ、ケール、ラディッシュ、白菜など、果菜ではトマト、メロンであった。庭の花では洋花を中心としたヒヤシンス、グラジオラス、チューリップなどであった。   〈『北農 第75巻第2号』(北農会、平成20年4月)72p〉
という。だから、論理的にはこれが賢治のいうところ「本統の百姓」になることだと言えそうだ。そして、ここには小作人らしい作物は何一つ見つからないから、甚次郎に「訓へ」た「農民として眞に生くるには、先づ眞の小作人たること」、すなわち多くの貧しい農民たちと同じような苦労をして米を自分で作ることを、賢治自身は当初から考えていなかったと言える。延いては、〝③〟だったと言える。そして私のこの解答がもし正解であったとするならば、私は合点がいく。賢治はダブルスタンダードだったのだと。
 したがっていよいよもって、先の吉本の「宮沢賢治が農民運動に手をふれかけてそしてへばって止めた」という賢治評を私は受け容れる覚悟をするしかない。それは下根子桜の宮澤家別宅の隣人で、羅須地人協会員でもあった伊藤忠一も、
 協会で実際にやったことは、それほどのことでもなかったが、賢治さんのあの「構想」だけは全く大したもんだと思う。                   〈『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著)35p〉
というように、吉本と同様なことを語っていたし、下根子桜の宮澤家別宅で一緒に暮らしていた千葉恭も、
   賢治は泥田に入ってやったというほどのことではなかった。
と語っていた、と恭の三男が言っていた(平成22年12月15日聞き取り)からなおさらにである。
 とは思いつつもしかし、いやこれは私の考え方がどこかで根本的に間違っているせいかもしれない、と逡巡していた。ところが、やはりこれまた佐々木多喜雄氏の次のような鋭い指摘、
「農聖」と讃えられる程の人物であるなら、生前ないし没後に神社にまつられるとか、頌徳碑や顕彰碑などが建立されて、その事蹟をしのび後世に伝えられることなどが、一般的に行われることが多いと考えられる。…(筆者略)…
 一方賢治については、文学作品碑は各地に数多いが、農業の事蹟を記念した神社や祠および頌徳碑などは一つもない。これは、すでにみた様に、後世に残し伝える程の農業上の事蹟が無いことから当然のことと言えよう。           <『北農』第76巻第1号(北農会、平成21年1月1日発行)98p~>
を知ったことによって私は完全にこの逡巡が吹っ切れた。
 確かにそのとおりで、花巻に賢治の顕彰碑の類はない。だがその一方で例えば、田中縫次郎(宮野目地区の養蚕業に多大な貢献をした)の顕彰碑が花巻市宮野目の神社に、花巻出身で『リンゴ博士』とも呼ばれる島善鄰の顕彰碑が花巻市高木に建っている。なおかつ、島の顕彰式典は今年も行われ、それも何と、賢治の誕生日ともされている「8月27日」にであったからなおさらにだった。言い換えれば、これで次の
〈仮説5〉賢治が「羅須地人協会時代」に行った稲作指導はそれほどのものでもなかった。
が実質的に検証されたことに、そして、どうやらこれが本当のところだったのだということに気付く。
 よって、ここ10年間ほどの賢治に関する検証作業を通じて私は、
 「羅須地人協会時代」の賢治が、農繁期の稲作指導のために徹宵東奔西走したということの客観的な裏付け等があまり見つからない。何故なのだろうか、どうも不思議だ。
とずっと疑問に思っていたのだが、この検証された〈仮説5〉によってほぼすんなりと疑問が解消した。

 なお、以上が事の真相であったとしても、だからといって賢治作品の輝きが色褪せるということではもちろん全くない。賢治の多くの作品は相変わらず燦然と輝き続けるだろうし、今後も賢治ほどの作品を書けるような人物はそう簡単には現れないであろうことは私からすればほぼ明らかだ。ただし、今の時代はかつてとは違って賢治作品の素晴らしさは万人のほぼ認めるところなのだから、何も彼がそうでもないのに農聖や聖人・君子に祭り上げておく必要はもはやなかろう。もうそろそろ《創られた賢治から愛すべき本統の賢治に》戻してやることが賢治のためでもあるのではなかろうか。そしてそうすれば、これからの若者たちはもっともっと賢治及び賢治作品に惹かれるようになるのではなかろうか。

***************************『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)の販売案内*************************
 
 現在、岩手県内の書店での店頭販売やアマゾン等でネット販売がなされおりますのでどうぞお買い求め下さい。
 あるいは、葉書か電話にて、『本統の賢治と本当の露』を入手したい旨のお申し込みを下記宛にしていただければ、まず本書を郵送いたします。到着後、その代金分として1,650円(本体価格1,500円+税150円、送料無料)分の郵便切手をお送り下さい。
           〒025-0068 岩手県花巻市下幅21-11 鈴木守
                      電話 0198-24-9813
 続きへ
前へ 
 “『本統の賢治と本当の露』の目次”へ。
 “〝鈴木守著作集〟の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« バッハレガーへ1(7/1)(回想) | トップ | 本日の下根子桜(12/25、甚次... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

本統の賢治と本当の露」カテゴリの最新記事