〈『本統の賢治と本当の露』(鈴木守著、ツーワンライフ出版、定価(本体価格1,500円+税)〉
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㈥「下根子桜」撤退と「陸軍大演習」
今度は、賢治が昭和3年8月10日に実家へ戻った件についてである。このことについては、
八月、心身の疲勞を癒す暇もなく、氣候不順に依る稻作の不良を心痛し、風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪、やがて肋膜炎に罹り、歸宅して父母のもとに病臥す。
〈『宮澤賢治研究』(草野心平編、十字屋書店)所収の「宮澤賢治年譜」より〉
が通説だと私は認識していたが、『阿部晁の家政日誌』等によって当時の花巻の天気(次頁の《表5 昭和3年6月~8月の花巻の天気》)や気温(巻末の「資料一「羅須地人協会時代」の花巻の天候(稲作期間)」参照)を、さらには賢治の健康状態に関する証言等を調べてみると、この「通説」を否定するものが多かったので、これもおかしいということに気付いた。例えば左掲の《表5》の天気一覧からは、「風雨の中を徹宵東奔西走し、遂に風邪」をひくというような「風雨」が8月10日以前にあったとは考えられないからだ。
一方、賢治が教え子澤里武治に宛てた同年9月23日付書簡(243)には、
…やっと昨日起きて湯にも入り、すっかりすが〳〵しくなりました。六月中東京へ出て毎夜三四時間しか睡らず疲れたまゝで、七月畑へ出たり村を歩いたり、だんだん無理が重なってこんなことになったのです。
演習が終るころはまた根子へ戻って今度は主に書く方へかゝります。
〈『新校本宮澤賢治全集第十五巻書簡・本文篇』(筑摩書房)〉
と書かれている。しかし「すっかりすが〳〵しくなりました」ということであれば、病気のために実家に戻って病臥していたと云われていた賢治なのだから、普通は「そろそろ根子へ戻って以前のような営為を再
開したい」と伝えたはずだ。
ところが実際はそうではなくて、「演習」が終るころまではそこに戻らないと澤里に伝えていたことになるから、常識的に考えてこれもまたおかしいことだということに私は気付いた。同時に、賢治が実家に戻っていた最大の理由は「演習」のせいであって病気のせいではなかった、ということをこの書簡は示唆しているとも言えそうだ。
ならば、そのような「演習」とは一体何のことだろうかと私は長らく気になっていた。それが、
労農党は昭和三年四月、日本共産党の外郭団体とみなされて解散命令を受けた。…(筆者略)…
この年十月、岩手では初の陸軍大演習が行われ、天皇の行幸啓を前に、県内にすさまじい「アカ狩り」旋風が吹き荒れた。 〈『啄木 賢治 光太郎』(読売新聞社盛岡支局)28p~〉
という記述に偶々出くわして、「演習」とはこの昭和3年10月に岩手で行われた「陸軍大演習」のことだと直感した。そこで、他の資料等も調べてみたところ、賢治の教え子小原忠も論考「ポラーノの広場とポランの広場」の中で、
昭和三年は岩手県下に大演習が行われ行幸されることもあって、この年は所謂社会主義者は一斉に取調べを受けた。羅須地人協会のような穏健な集会すらもチェックされる今では到底考えられない時代であった。 〈『賢治研究39号』(宮沢賢治研究会)4p〉
と述べていた。どうやら、先の私の直感は正しかったようだ。
また、賢治は当時労農党のシンパであったと父政次郎が証言している(『解説 復元版 宮澤賢治手帳』(小倉豊文著、筑摩書房)48p)ということだし、上田仲雄の論文「岩手無産運動史」(『岩手史学研究 NO.50』(岩手史学会)所収)や名須川溢男の論文「宮沢賢治について」(同所収)等によれば、この大演習を前にして行われた無産運動家の大検束によって、その労農党員の、賢治と交換授業をしたことがある川村尚三、賢治と親交のあった青年八重樫賢師が共に検束処分を受けたという。つまり、両名はこの時の凄まじい「アカ狩り」に遭っていたと言える。その挙げ句、八重樫は北海道は函館へ昭和3年8月頃に、賢治のことをよく知っている同党の小館長右衛門は同じく小樽へ、やはり同年8月にそれぞれ追われたという。
しかも高杉一郎によれば、「シベリアの捕虜収容所で高杉が将校から尋問を受けた際に、何とその将校が、賢治は啄木に勝るとも劣らない『アナーキスト?』と目していた」と言える(『極光のかげに』(高杉一郎著、岩波文庫)47p~)くらいだから、この時の「アカ狩り」の際に賢治は警察からの強い圧力が避けられなかったであろう。それは、賢治が実家に戻った時期が同年のまさにその8月であったことからも端的に窺える。そこへもってきて、あの浅沼稲次郎でさえも、当時、早稲田警察の特高から「田舎へ帰っておとなしくしてなきゃ検束する」と言い渡されてしょんぼり故郷三宅島へ帰ったと、「私の履歴書」の中で述懐していた(『浅沼稲次郎』(浅沼稲次郎著、日本図書センター)29p~)ことを偶然知った私は、次のような、
〈仮説6〉賢治は特高から、「陸軍大演習」が終わるまでは自宅に戻っておとなしくしているように命じられ、それに従って昭和3年8月10日に「下根子桜」から撤退し、実家でおとなしくしていた。
を定立すれば、全てのことがすんなりと説明できることに気付いた。
そしてそれを裏付けてくれる最たるものが、先に揚げた澤里宛賢治書簡であり、「演習」が終るころまでは戻らないと澤里に伝えているその「演習」と、その時の「陸軍大演習」が時期的にピッタリと重なっていることだ。また、この大演習の初日10月6日には花巻日居城野で御野立があったわけだが、この際、10月3日に南軍の主力部隊、第三旅団長中川金蔵少将が賢治の母の実家「宮善」宅にやって来て宿泊したという(昭
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