〈『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』〉
では今回は甚次郞の実家の経営についてである。
それは「塾の一時閉鎖――実家の経営と塾とのはざま」という項からであり、こう始まっていた。
「最上共働村塾」が松田の個人的な願望から生まれたことは事実であるが、それは時代の要請でもあった。
一九二九(昭和四)年の米国株式市場の暴落に端を発する世界恐慌は日本の経済をも巻き込み、昭和五年九月の米価暴落に見られるように、農村は深刻な不況におちいっていた。
〈『「賢治精神」の実践【松田甚次郎の共働村塾】』137p〉一九二九(昭和四)年の米国株式市場の暴落に端を発する世界恐慌は日本の経済をも巻き込み、昭和五年九月の米価暴落に見られるように、農村は深刻な不況におちいっていた。
ここで最初気になったことは「時代の要請でもあった」という断定表現である。それは、誰かが言っていたあの「時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した」を思い起こさせたからだ。でも、そのようなことを安藤は言いたかったはずがない、と私は確信したし、同時に逆にその誰かさんは、「時流に乗り、国策におもね、そのことで虚名を流した」と甚次郞のことを誹ったのは、この「時代の要請を」を恣意的に曲解 したのではなかろうか、というヒントを私は与えてもらったのかもしれない。
その一方で、以前に〝昭和5~6年不況と凶作〟や〝純粋で愚直な利他的活動〟で考察したように、当時農村が深刻な不況におちいっていたことはそのとおりであり、そのような農村をなんとかして救いたいという、純粋な気持ちから甚次郞は吾が身を犠牲にしながら愚直に尽力したということは、ここまで甚次郞のことについて調べてきた限りでは疑いようがない。
話を戻そう、安藤はこう続けていた。
その対策として政府は、農林省に経済再生部を新設し、昭和七年十月に「農山漁村経済再生計画ニ関する件」という農林省訓令を発表した。いわゆる農山漁村経済更生運動が始まった。
〈同〉このことに関しても、以前の投稿〝経済更生計画〟や〝産業組合(『日本の農本主義』より)〟で考察したように、
「農山漁村疲弊の現状に鑑み、其の不況を匡救し、産業の振興を図りて民心の安定を策し、進んで農山漁村の更生に努むる刻下喫緊の要務たり」ということで樹立された「経済更生計画」は、評価されこそ批判されることはないのではなかろうか。
と私は理解している。さらに安藤はこう続ける。
昭和七年といえば松田が「最上共働村塾」を創立した年である。鳥越倶楽部や村塾の自給自足の大方針は、一面では、昭和農業恐慌に対する自力更生の実行であった。実家や村塾の経済は、その嵐の中にあり、いつ破綻しても不思議ではなかった。その実状を松田は『土に叫ぶ』の中で、次のように書いている。
〈同〉と述べて、それを引いているのだが、ここは直接引いてみると、
經濟難 かうして長男に嫁をもらつて一安心すべき親の身であるが、世の中は仲々そうは行かぬ。先づ昭和四年頃から崩壞し出した近親の家が次々と倒産して行くのであつた。一番古い隣の分家が最初で、次に母の生家、次に父の姉の家、次に妹の家が、事業の失敗や病氣死去など、拔くことの出來ない經濟的な負擔で、萬餘の負債が僅か四年間に出來て了つた。それを父が次々と持たされて居るうちに、一年に二三千円の負債の元利を払わねばならにようになつてしまつた。「どうするか」「どうしようか」とすつかり行詰つたその擧句の果、山林や水田が手離され、裏山の百年の老杉美林も伐り盡されてしまつた。
〈『土に叫ぶ』77p〉となっていた。つまり、甚次郞の実家は財政的に逼迫してしまって、経営は破綻しかねない状況に陥っていたのだった。
こうしてみると、昭和農業恐慌による崩壊は甚次郞にとっても他人事ではなく、近親そして実家にまで迫っていたのだからなおさらに、甚次郞が自力更生の実行に熱心に取り組んできたのも改めて納得できた。
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