みちのくの山野草

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安易で安直な論理

2023-02-01 08:00:00 | 「賢治年譜」一から出直しを
《オオタカネバラ》(2022年7月14日撮影、岩手)

 それでは、ここでは逆に、露に関して「あやかしでない」と思われるものとしては何がこの「下敷」に書かれているのだろうか。それは、
 彼女にはじめて逢った時の様子を『宮沢賢治と三人の女性』に森は高瀬露についていろいろと書いているが、直接の見聞に基いて書いたものは、この個所だけであるから参考までに引用しておく。
              〈『七尾論叢11号』(七尾短期大学)77p〉
と上田が同論文中で断り書きをして引用している、唯一「直接の見聞」に基づいたと上田が判断していると言える次の記述、
 一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねたのであった。…(投稿者略)…
 ふと向うから人のくる氣配だった。私がそれと氣づいたときは、そのひとは、もはや三四間向うにきていた。…(投稿者略)…半身にかまえたように斜にかまえたような恰好で通り過ぎた。私はしばらく振り返って見ていたが、彼女は振りかえらなかった。
              〈同77p〉
だ(たしかに、『宮澤賢治と三人の女性』の74p以降にこのように書いてある)。
 ところが肝心のこれが大問題となる。「一九二八年の秋」であれば、賢治は豊沢町の実家で病臥していたのだから「下根子桜」にはもはや居らず、この引用文に書かれているような「下根子」桜の訪問は森には不可能であり、「一九二八年の秋」という記述は致命的ミスであることが明らかだからだ。
 そこで、『新校本年譜』はこの「下根子桜訪問」についてどうしたかというと、
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
             〈『新校本年譜』、359p〉
と註記して、これを「一九二七年の秋の日」と読み変えている。つまり同年譜は、「一九二八年」は森の単純なケアレスミスだったと判断していることになる。しかしながらこのような判断は安易であり、安直であり、論理的でもない。

 そもそも、大前提となるそのような「下根子桜訪問」自体が確かにあったという保証を『新校本年譜』は何ら示せていないからだ。つまり、羅須地人協会時代は大正15年4月1日~昭和3年8月10日というのが定説だから、もしかするとその訪問は大正15年の秋かも知れないし、それどころか、羅須地人協会時代にそのような森の「下根子桜訪問」そのものがなかったかも知れないからだ。しかも、上田の同論文中には、「露の「下根子桜訪問」期間は大正15年秋~昭和2年夏までだった」という意味の露本人の証言も載っているから、もしそうだったとすれば、「一九二七年(昭和2年)の秋」に森が「下根子桜訪問」をしたとしても道の途中で露とはすれ違えないので、尚更その保証が必要となる。

 さらにこのようなこともわかった。よくよく調べてみたならば、賢治が亡くなった翌年の昭和9年発行の『宮澤賢治追悼』でも、『宮澤賢治研究』(昭14)でも、そして『宮沢賢治の肖像』(昭49)でも皆、その「下根子桜訪問」の時期を森は「一九二八年の秋」としていて、決して「一九二七年の秋」とはしていなかった。こういうことであれば、「一九二七年の秋」に森は「下根子桜」を訪問していなかったと、普通は判断したくなる。

 そんな時にふと思い出したのが、『宮澤賢治と三人の女性』では西暦が殆ど使われていなかったはずだということだ。そこでそのことを調べてみたならば以下のようになっていた。
Ⅰ 挽歌を中心に
 24p :大正六、七年頃
 〃 :昭和十八年十月
 〃 :大正十二年
 27p :明治三十一年十一月五日
 30p :大正二年
 33p :明治四十五年の一月
 34p :大正二年
 36p :大正四年四月
 37p :大正七年十一月
 〃 :大正七年十二月二十七日
 42p :昭和十四年十一月二十三日
 52p :大正八年二月三日
 〃 :大正七年
 53p :大正九年九月二十九日
 〃 :大正十年七月
 〃 :明治十五年八月
 〃 :昭和二十三年
 54p :大正十一年
 61p :大正十年の九月
 63p :昭和十四年
Ⅱ 昭和六年七月七日の日記
 71p :昭和六年七月七日
 72p :大正十五年
 74p :一九二八年の秋の日、私は下根子を訪ねた……
 77p :大正十五年
 93p :昭和三年
 〃 :昭和三年八月
 96p :昭和六年
 104p:昭和六年七月七日
Ⅲ『三原三部』の人
 114p:昭和十五年十二月十五日
 〃 :昭和十六年
 144p:昭和十五年の十一月
 〃 :昭和八年
 〃 :昭和三年六月十三日
 146p:昭和三年
 153p:昭和三年六月十五日
 156p:昭和十六年一月二十九日
 159p:(昭和)十六年二月十七日
 180p:昭和二十一年
となっていて、案の定だった。全体で和暦が38ヶ所もあったのに西暦は1ヶ所しかなく、それがまさに「一九二八年の秋の日、私は下根子云々」の個所だけだった。しかも、同じ年を表す和暦の「昭和三年」を他の5ヶ所で使っているというのにも拘らずである。
 となれば、あれはケアレスミスなどでは決してなく、彼にはその訪問の年を「一九二七年」とはどうしても書けない何らかの「理由」が存在していたという蓋然性が高いと言える。しかもそこだけは和暦「昭和三年」を用いずに西暦を用いているということから、ある企みがそこにあったのではなかろうかと疑われても致し方なかろう。
 もはやこうなってしまうと、件の「下根子桜訪問」の年を森は決して「一九二七年」と書くわけにはいかなかったということがほぼ明らかだ。おのずから、同年の秋の日に森はそのような訪問そのものをしていなかったということも否定できなくなったので、今までの大前提が崩れ去り、この「直接の見聞」は実は単なる創作だったということがいよいよ現実味を帯びてきた。

 畢竟するに、『新校本年譜』の、
「一九二八年の秋の日」とあるが、その時は病臥中なので本年に置く。
             〈『新校本年譜』、359p〉
という処理の仕方はあまりにも安易で安直な論理に頼っている、と私は言ってしまいたくなる。百歩譲って、森が羅須地人協会時代にこのような「下根子桜訪問」が少なくとも一回はあったという大前提の実証的な裏付けがあるのであればまだしも。それどころか、その大前提の保証が必要だということすら言及されていないようだから、何をか言わんやだ。

 となれば、あの石井洋二郎氏の鳴らす警鐘「あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみることという基本中の基本の出だし、「あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること」を『新校本年譜』はしていなかったのではないですか、と私は問い詰めればいいのだろうか。そして、「一九二八年の秋の日」の「下根子桜訪問」はあやかしな点がありすぎますので、このような註釈は一度一からやり直さねばならないのではないですか、と。

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