みちのくの山野草

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谷川徹三の講演(誰かの記述をそのまま引用?)

2021-05-02 12:00:00 | 賢治の「稲作と石灰」
【東北砕石工場技師時代の賢治(1930年頃 撮影は稗貫農学校の教え子高橋忠治)】
<『図説宮澤賢治』(天沢退二郎等編、ちくま学芸文庫)190pより>

 さて、今回も谷川徹三の講演「今日の心がまえ」(昭和19年9月20日)からである。谷川はこの講演でこんなことも述べていた。
 (賢治が)父親にそういう風に言った<*1>その夕方七時頃、近くの村の人が一人、賢治を訪ねて来ました。肥料のことでお聞きしたいことがあると言うのであります。重態の病人でありますから歌人は躊躇しましたが、とにかく、その旨を賢治に伝えますと、そういう人ならばどうしても会わなければならないと、直ぐ床から起きて、着物を着替えて玄関に出て、そうとは知らぬ村の人とゆっくりと話を、少しも厭な顔をしないで聞いて、そうした肥料の設計に就いての詳しい指示を与えてかえした。
            〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局、昭和45年)16p〉
 かくの如く、谷川は断定調で語っていたのである。しかし、これらの断定内容については普通訝るものではなかろうか。もちろん私もだ。翌日死んでしまった賢治が、その前日に神様みたいなことができたのだろうか、と。そしてこのことについては、あの実証的な賢治研究家菊池忠二も自書『私の賢治散歩 下巻』の中で疑問を呈している<*2>。

 言い換えれば、どうも谷川は自分自身では検証もせず、裏付けも無しに、どなたかの記述をそのまま引用しているようにしか私には見えない。このことは、前回〝谷川徹三の講演「今日の心がまえ」(昭和19年9月20日)〟においても指摘したところだが、今回も同じようなことに出くわしたので、なおさらにそう見えてしまう。そして、谷川のこの講演に於いてはそのようなものが他にももっとあるのではなかろうかとか、延いては、石井洋二郎氏氏のあの「必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること」という警鐘を幾何かは意識していたのだろうかという不安が私には募ってくる。いやそれどころか、谷川は誰かの記述をやはりそのまま引用していたのだという、不安がである。さらにはまた誰かが、この谷川の講演録を検証もせず、裏付けも取らずにそのまま引用している、さらにまた誰かがと、繰り返しているということはないのだろうか。

<*1:投稿者註> その言ったこととは、
 病室の置戸棚と枕許にある、うず高い原稿を指して、これは自分の今までの迷いの跡であるから、どうにでも適当に処分して頂きたい、ということを言った。
            〈『宮沢賢治の世界』(谷川徹三著、法政大学出版局、昭和45年)15p〉
ということを指す。
<*2:投稿者註> 菊池忠二は『私の賢治散歩 下巻』所収の「前夜の面談」において次のような考察をしている。       
 それにしても三十七年の短かい生涯だった宮沢賢治の最後は、伝えられる通りだとすれば、なんという見事なものであったろうか。
 とくに昭和八年(一九三三)九月二十日、死の前日の夜に来訪した農民と稲作や肥料の相談に一時間ちかくもていねいに応じたということは、賢治らしい生涯の最後をかざるにふさわしい、まことに英雄的なエピソードであったと思われる。…投稿者略…たしかな事実であったかもしれないが、またいくつかの疑問な点のあることも感じないわけにはいかない。
   …投稿者略…
 二十日の朝呼吸が苦しくなり容体が変ったので、花巻共立病院の医師の往診をうけ、急性肺炎のきざしがみとめられたという。絶筆の短歌二首が書かれたのもこの日である。そしてこの日の夜七時ころ農民の来訪をうけることになったのである。私はこの知らせを誰が、どのようにして、賢治本人のところへ取りついだのか疑問なのである。この日の賢治の病状からすれば、そのわけを話して農民にひきとってもらうことも十分できたはずである。…投稿者略…それを奥の二階の病室にいる賢治のところへ、直接に取りつぐことがはたしてできたのだろうか。すくなくとも店とつづきの常居にいた家長である父政次郎にこのことを知らせ、相談のうえでその許しをえなければ、とうてい賢治のところに取りつぐことはできなかったはずである。
 もしほかの「誰か」が宮沢家の家人をさすとすれば、この日賢治の容体がどのように変っていたかを、もっとよく知っていたはずの家族の「誰か」が、農民からの用件を不用意に本人へ取りつぐのだろうか。やはり父親なり母親と相談のうえでなければ、とてもできないことだったのではなかろうか。
 このことで父政次郎が、どのような判断をくだしたのか皆目わからない。あるいは短かい時間の面談ならやむをえないとでも考えたのだろうか。それとも農民がやってきたとき、たまたま父親が常居の座をはずしていたのだろうか。ともかくこの件は、賢治のところへ取りつがれたものらしい。
 それを聞いた彼は「そういう用事ならぜひ会わなくては」といって衣服をあらため、二階からおりて農民のまっている店先へ出たのだという。どの記録をみても、まったく自力で歩いて出たような印象をうける。しかし前記の宮沢磯吉の回想や『賢治年譜』の記述が事実であったとすれば、このとき賢治は自力で店先まで歩いてゆくことができたのかどうか、はなはだ疑問なのである。
 もし家族の手をわずらわしてまで出たのだとするならば、それほど農民が急ぎの大事な用件をもってきたのだろうかと思う。岩手におけるこの年の稲作は近来にないほどの大豊作だった。…投稿者略…たぶんその農民は、この年のめぐまれた収穫を思いえがきながら、次年度の稲作とその肥料相談にやってきたのであろう。ことは急を要する問題ではなかったのだ。…投稿者略… それでも、このときの両者の対談は一時間ちかくにもおよんだといわれている。その間賢治は店内の板敷に正座して、農民のとつとつと話す質問にわかりやすく答えながらていねいに応対し、そのいきさつを蔭で見守る家族の方はバラバラしながら早く終わってくれるのを祈るようにまっていたという。
 私にとっての最後の疑問は、翌日の昼すぎに臨終をむかえるはどの重い結核の病人が、前の晩に正座して一時間ちかくもはたして対談できるものだろうか、という点である。もっともそういう対談で無理をしたからこそ、病勢が急にあらたまってしまった、という事情もあるにはちがいない。…投稿者略…
 もしこの事実が、宮沢賢治のたぐいまれな利他的精神のあらわれとして、これからも末長く語り伝えられてゆくものとするならば、私の感じたこれらの小さな疑問が、すこしでも明らかになってほしいものだと、願わずにはいられないのである
             〈「「雨ニモマケズ」私考」(『私の賢治散歩 下巻』(菊池忠二著、2006年)330p~所収〉

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