みちのくの山野草

みちのく花巻の野面から発信。

私の研究手法「仮説検証型研究」とは

2017-11-22 13:00:00 | 「賢治研究」の更なる発展のために
《コブシ》(下根子桜、平成29年4日18日撮影)

 今から約10年程前に私は何とか無事に定年となり、やっとあることを追究するための時間を持てるようになった。
 それは、今から約半世紀も前のことになってしまったが、私の大学時代の恩師授岩田純蔵教授(岩手大学電子工学科)が私達を前にして、
 賢治はあまりにも聖人・君子化され過ぎてしまって、実は私はいろいろなことを知っているのだがそのようなことはおいそれとは喋れなくなってしまった。
という意味のことを嘆いたことがあるのだが、その頃私が尊敬していた人物はまさにその宮澤賢治だったばかりでなく、実は岩田教授は賢治の甥(賢治の妹シゲの長男)だったからなおのこと、恩師の嘆きがそれ以降ずっと気になっていた。とはいえ、仕事に従事している間はそのようなことを調べるための時間的余裕が私にはなかった。そのための時間をやっと持てるようになったのである。

 それ以降の約10年間、私は賢治のことを調べ続けてきた。すると、常識的に考えておかしいと思われるところが、特に「羅須地人協会時代」を中心にしていくつか見つかる。しかも、それらの検証等をしてみたところやはり皆ほぼおかしかった。そこで、それらが恩師の嘆きの具体的な事例だったのかなと私は直感した。

 ところでその際の私の研究手法だが、基本的には「仮説検証型研究」によるものであり、その「仮説検証型研究」とは次のような研究手法である。
 「仮説検証型研究」とは、定立した仮説の裏付けがある一方で、その反例が一切ない場合にその仮説は検証されたということになり、爾後、検証されたその仮説は反例が提示されない限りという限定付きの「真実」である、とする研究の手法のことである。当然、反例が一例でも見つかったならば、当該の仮説は即棄却せねばならない。
 ちなみに、広辞苑によれば、
【仮説】自然科学その他で、一定の現象を統一的に説明しうるように設けた仮定。ここから理論的に導きだした結果が観察や実験で検証されると、仮説の域を脱して一定の限界内で妥当する真理となる。〈『広辞苑 第二版』(岩波書店)〉
とある。

 ではその具体的な一つの事例を次に示す。
*************************************************************************
 『新校本年譜』の大正15年12月2日の項には、
一二月二日(木) セロを持ち上京するため花巻駅へゆく。みぞれの降る寒い日で、教え子の高橋(のち沢里と改姓)武治がひとり見送る。「今度はおれもしんけんだ、とにかくおれはやる。君もヴァイオリンを勉強していてくれ」といい、「風邪をひくといけないからもう帰ってくれ、おれはもう一人でいいのだ」と言ったが高橋は離れ難く冷たい腰かけによりそっていた(*)。
           〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)補遺・資料 年譜篇』(筑摩書房)325p〉
と記載されている。つまり、賢治がこのような上京をした霙の降る寒い日は「大正15年12月2日」であったというのが定説となっている。
 ところが、この〝*65〟の註釈について同年譜は、
関『随聞』二一五頁の記述をもとに校本全集年譜で要約したものと見られる。ただし、「昭和二年十一月ころ」とされている年次を、大正一五年のことと改めることになっている。
と、その変更の根拠も明示せずに、「…ものと見られる」とか「…のことと改めることになっている」と、まるで思考停止したかの如き、あるいは他人事のような註釈をしている。
 そこで次に、〝関『随聞』二一五頁〟を実際に確認してみると、
 沢里武治氏聞書
○……昭和二年十一月ころだったと思います。…(筆者略)…その十一月びしょびしょみぞれの降る寒い日でした。
「沢里君、セロを持って上京して来る、今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる、君もヴァイオリンを勉強していてくれ」そういってセロを持ち単身上京なさいました。そのとき花巻駅でお見送りしたのは私一人でした。…(筆者略)…そして先生は三か月間のそういうはげしい、はげしい勉強で、とうとう病気になられ帰郷なさいました。
             〈『賢治随聞』(関登久也著、角川選書)215p~〉
となっていて吃驚する。それは、本来の武治の証言は「今度はおれもしんけんだ、少なくとも三か月は滞在する、とにかくおれはやる」だったのだが、故意か過失かは判らぬが、同年譜の引用文では「少なくとも三か月は滞在する」の部分が綺麗さっぱりと抜け落ちているからである。そのあげく、このするりと抜け落ちている「三か月の滞京」を『新校本年譜』に当て嵌めようとしても下表のように当て嵌まらないのである。
《表1『現 宮澤賢治年譜(抜粋)』》

             〈『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』より〉
 つまり、この「三か月の滞京」は「定説」の反例となっている(したがって、証言を恣意的に使っていたとも言える。しかも、そのような使い方をせずに素直に証言を使えば、下掲の『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』の19p以降に示したように、賢治は昭和2年の11月頃から三か月間滞京していたことを実証できる)。だから当然、この「定説」には反例があるのだから本来は即棄却されてしかるべきものである。
 このように、「仮説検証型研究」にはすこぶる威力があるし、その一方で、私たちは厳しい研究姿勢が要請される。
*************************************************************************

 例えば、あの「ヒドリ論争」もそうだ。
 いろいろな主張があるようだが、この「仮説検証型研究」に従う限り次の2点を少なくともクリアしなければならないはずだ。
①「雨ニモマケズ」は「ヒドリ」部分を除いてはすべていわゆる「標準語」だから、この「ヒドリ」もそうならざるを得ない。端的に言えば、一般的に使われている辞書にもそのような意味での「ヒドリ」が載っていること。
②「雨ニモマケズ」はいわゆる「対偶法」が使われているから、主張する意味の「ヒドリ」で、「ヒドリノトキハナミダヲナガシ/サムサノナツハオロオロアルキ」が対偶法に適っていること。
 そしてこの点から言えば、定説となっている「ヒデリ誤記説」はそれを満たしているが、それ以外に主張されている仮説はこの2点をクリアしていない(つまり、それらには反例があるということになる)ものしか私は知らない。

 畢竟、可能性であれば色んな仮説が立てられる訳だがそれではだめなのである。定立した仮説に対して反例が一つ突きつけられただけでその可能性はゼロとなるからである。大事なことは可能性ではなくて蓋然性の高さである。反例が存在していしないということがその蓋然性が極めて高いということを保証しているのである。

 私は自分を戒めている。一つの物事を追究し続けているといつの間にか虫の眼になってしまっていてその眼の前が世界の全てに見えてしまうことがあるということを、である。たまには、鳥の眼になって俯瞰すれば世界はもっと広いことに気が付き、虫の眼で見たものは一部のことであり、全体の世界には当て嵌まっていなかったということに気付くぞ、と。Heisenberg の名著『部分と全体』にこんなことは書いていなかったはずだが、少なくとも「部分と全体」という意識は大事にしたいと思っている。一方で、Ren´e Descartesのこれまた名著『方法序説』では、分析の手法が有効だと言っていたはずだが、それを総合することも大切だと言っていたような気もする。そして、速く走れることも悪くはないが、その人が間違った方向に進むと引き返すのが大変だ。それよりは、足が遅くてもしっかりと周りをよく眺めながら着実に進んで行けば、足の速い人よりもかえって速く確実に目指していた所に辿り着けることもある、と述べていたような記憶が蘇ってくる(昔の記憶によるものだから、大分間違っていることを述べたかもしれないのだが)。

 続きへ
前へ 
 “『三陸被災地支援募金を押し潰した賢治学会の理事会幹部』の目次”へ。
 ”みちのくの山野草”のトップに戻る。
《鈴木 守著作案内》
 ☆『「涙ヲ流サナカッタ」賢治の悔い』                  ☆『宮澤賢治と高瀬露』(上田哲との共著)          ★『「羅須地人協会時代」検証』(電子出版)

 ☆『賢治と一緒に暮らした男-千葉恭を尋ねて-』        ☆『羅須地人協会の真実-賢治昭和2年の上京-』      ☆『羅須地人協会の終焉-その真実-』

☆『「羅須地人協会時代」再検証-「賢治研究」の更なる発展のために-』










































 



























































コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「賢治精神」の実践を圧殺した「... | トップ | 似たような姿勢は「賢治研究」... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

「賢治研究」の更なる発展のために」カテゴリの最新記事