《創られた賢治から愛すべき賢治に》
(承前)
官憲から「アカ」と見られていた賢治したがって、複数の人物が矛盾していないこのような証言をしているということから、次のようなことはほぼ事実であったと言えるだろう。
・賢治は労農党稗和支部の事務所の保証人になった上に、八重樫賢師を通して毎月の運営費(5ヶ月分計25円)を支援をした。
・昭和2年3月頃賢治は謄写版一式を労農党稗和支部に寄贈した。
となればやはり、賢治は労農党稗和支部の単なるシンパであったというよりは、それ以上の存在であったと周りから見られていたであろうことはもはや疑いようがなくなった。もちろんそのことは官憲も当然知っていたであろうから、賢治は当時官憲から「アカ」と見られていたであろうことをも同時にそれは意味する。・昭和2年3月頃賢治は謄写版一式を労農党稗和支部に寄贈した。
謄写版一式を寄贈した意味
賢治が単なるシンパでなかったことは、次のことからも傍証できそうだ。それは、以前〝陸軍特別大演習直前〟で述べたことでもあるが、森荘已池に大正15年の「夏には騰写版で次のスケッチを拵えます」と宣言していた謄写版刷りの『春と修羅 第二集』の出版を果たすこともなく、その謄写版一式を寄贈してしまったからである。その宣言を破ってまでも謄写版を労農党稗和支部に寄贈したという当時の賢治の決断と覚悟は、単なるシンパではなかったということを容易に教えてくれる。
また、謄写版寄贈の大きな意味がもう一つあったことを吉見氏は教えてくれている。それは、前掲書で次のようなことを述べているからである。
それまでの労農党員たちは、古新聞しに墨汁で大書したポスタービラを糊バケツや梯子を担いで電信柱に貼って歩いていた。賢治から謄写版をもらったおかげで、彼らの宣伝活動は一挙に近代化され、能率化されて、強力な武器となったのである。だが、彼らに贈った謄写版は、本来賢治にとってもその実践における唯一の武器なのであった。花巻下根子桜に開設した、羅須地人協会において賢治が手作りで作成した「土壌要務一覧」や、「集会案内」、「土壌学須用術語表」等の教材その他多くの資料を印刷していたその謄写版が、第一回普選の中で労農党稗貫支部支部に贈られたのであった。
<『宮沢賢治と道程』(吉見正信著、八重岳書房)249pより>つまり、大正14年末頃には計画していた『春と修羅 第二集』の出版は諦めてもいいから、それよりは第一回普選のために協力するという考え方に昭和3年2月頃の賢治はなっていた、ということになる。そして、それ以上に驚くのは、謄写版を寄贈してしまったということはそれまで行ってきたような羅須地人協会の講義活動等はもはや放棄したということをも意味してると判断されることである。
『岩手日報』の紙面に載った(一部実行し、あるいは計画していた)幻灯会、レコードコンサート、農作ぶつの物々交換、農民劇、農民音楽、オーケストラーそして慰安デーなどももはや全てを止め、残されたものは肥料設計等の稲作指導だけになった、と言えるようだ。
謄写版を寄贈したという行為は極めて大きな意味を持っていた。いわば、賢治の一つのターニングポイントであったことをそれは物語っている。
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なお、その一部につきましてはそれぞれ以下のとおりです。
「目次」
「第一章 改竄された『宮澤賢治物語』(6p~11p)」
「おわり」
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