《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
ではここからは『昭和3年の宮澤賢治』シリーズを開始したい。さて、前シリーズ『昭和2年の宮澤賢治』では、
「昭和2年11月4日~昭和3年2月8日」間の長い賢治の空白は、澤里武治の証言どおり、「賢治は昭和2年11月頃の霙の降る日に澤里一人に見送られながらチェロを持って上京、3ヶ月弱滞京してチェロを猛勉強したがその結果病気となり、昭和3年1月に帰花した」し、その後しばし心神衰弱であったからである。……①
とほぼ言えそうだということがわかったわけだが、もちろんその長い空白の中にこの「昭和3年1月」が含まれている。ちなみに、昭和3年1月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみようと思っても、何もない。せいぜいあるのは、次のような間接的な事項
一月 「文語詩篇」ノートに「一月 ◎林光左 弟子ヲ叱ル」というメモがある。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>が一つあるだけだった。もちろんこれだけでは賢治の実像は何も見えてこない。
たしかにこの1月も賢治は「宮澤賢治年譜」から完全に消え去っている。これで賢治は昭和2年11月4日以降から4ヶ月弱もの長きにわたって「宮澤賢治年譜」からいわば蒸発してしまっていたことになる。したがって、やはり前掲の〝①〟のとおりであったとほぼ言えそうだということを、改めて認識するしかない。
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